表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第十話 たたんだ扇と何の変哲のない一日
162/611

十の一

冒険もなし。事件もなし。そんな扇の天原の一日。

 その日も朝の六時に起きた。扇の部屋の窓格子には灰色の曙光のぼんやりとしたものがあり、昨夜、吹雪を隠し持った雲の群れに突っ込んだ名残か、格子の根元に青い氷がへばりついていた。道は灰色の影のなかで物憂げに積もった雪に覆われている。寝間着姿で髪も結んでいない扇はいつもの通り、朝湯へ向かう準備をする。桶に手ぬぐいと石鹸を放り込み、床の間横の引き出しと衣桁にかかっている乏しい私服を眺めて、今日はどういう着合わせにしたものかと少し悩んでみた。天原の冬は半端ではない寒さで、どの見世も西洋の集合住宅で使われる蒸気暖房を採用しているが、それはオモテの遊女と客たちの部屋にのみある。カエシの寝床にそんなものはない。虎兵衛の部屋にだってないのだ。そうなると男衆は凍死しないために長火鉢なり行火あんかなりを抱え込まねばならない。扇の六畳一間を温めている焼き物火鉢は木箱のなかに鎮座して、灰のなかから五徳を生やしている。まだ生きている熾きが無いものかと火箸で灰をかき回し、ようやく昨日の燃え残りを見つけたが、木炭を足しても火を移せるか怪しい。まあ、ともあれ着るものは決まった。黒い戦闘用の上衣と長手甲、裁着袴、懐炉の入る袖なし羽織を袷筒袖のなかに包みこんで手から提げられるように軽くきゅっと結んだ。

 カエシのあちこちの部屋から老若男女の奉公人がのろのろと姿を見せ、風呂のある地下へと足を運んでいく。みな、扇と同じ寝間着に桶を抱え、着替えを包んで手に提げていた。よほどの寒がりは桶も着替えも風呂敷に包んで首から提げ、両の手を八ツ口に突っ込んでいるものもいた。中庭のある廊下や仕出し屋の食器が重なった土間部屋を通り過ぎて、迷路のようなカエシをぞろぞろと歩いていく。そのうち風呂の入口である幅三間の下り階段につながる袋小路へと着く。昔の銭湯の名残か入口には柘榴口がかかっている。柘榴口というとかがまねばならない上下に狭い口とこもって入れ替わらない淀んだ蒸気、湯垢の汚さを隠すための悪い工夫だが、ここでは違う。腰をかがむ必要はなく、また富士の見える灘を行く外輪式蒸気安宅船が描かれた赤鳥居の壮観な柘榴口だった。

 男の湯と女の湯は壁一枚を隔てて別れていて、風呂場の番頭は年老いた盲だった。老番頭は手探りで青海波の利休形煙草入れから純銀延ばしの鉈豆煙管なたまめぎせるを取り出して、煙草をつめ、ぷかりぷかりとやりだしていた。

「番頭さん。入るよぉう」

「うえぃい」

 通りかかるときには挨拶をする。男も女も、中郎も遊女も、遣手のお登間でさえ、このときはのんびりした調子で老番頭に声をかけた。

「番頭。入る」

「うえぇい」

 扇の挨拶にゆっくり伸ばした声で返すと、老番頭はまた寿老人の刻まれた鉈豆煙管をぷかりとやる。

 脱衣所の棚には籐籠があり、使いやすい上から二段目と三段目はあらかた埋まっていて、後は目いっぱい背伸びしなければいけない一番上か、腰をかがめなければいけない一番下が残っているだけだった。服を脱いで、一番下の籠に放り込むと、あくびをしながら、風呂場へ向かう。白い湯気がこもり、浴槽からあふれた湯が石床をさらうように流れて出入り口の木格子の床へ流れ込んでいく。新しく沸かした湯が四角く切った石の穴から流れていて、浴槽の湯はちくちくするほど熱い。桶で湯を一すくいして、洗い場に座った。隣には小柄な中郎が体を洗って立ち上がるところだった。手ぬぐいに石鹸をこすりつけて泡立たせていると、隣に大きな図体の半次郎が座った。

「おう、扇か。おはようさん」

「おはよう」

 体を洗い、泡を洗い流していると、半次郎がポツリと、

「こう蒸されると饅頭にでもなったような気分になるな。自分のなかにつまってるのが骨じゃなくてアンコのような気がしてくる」

「そういう病気なんじゃないのか?」

「病気? なんて名前の?」

「四六時中甘味のことを考えていないと死ぬ病」

 適当にいった病名を半次郎は真剣に考え、

「そうか、おれは病気だったのか」

 と、納得しうなずいた。

「つまり、おれが饅頭や羊羹を食べるのは治療のためってことだ。治療のためならいつも甘いものを食べているのも仕方がないよな」

 そう結論づけて、頭から湯をかぶった。

 湯船につかって湯のちくちくするのを堪えながら、体の芯まで温まる。桶を床に置いた音が気持ちよく響く。

「あー」

 扇はそんな声をもらし、深く息を吐いた。〈鉛〉だった時代、そんな声をもらすことを恥じ入ったが、今はある程度の小さな欲望には素直になることにした。熱い風呂に入り、呻るのはその小さな欲望のなかに入る。一方、大きな欲望を抱えた若い男たちは女湯と男湯を隔てる一枚の壁のそばに張り付き、女たちの黄色い声を聞こうと必死に耳を澄ませていた。

 長屋が井戸端、貴顕が社交場、といった具合で、風呂は見世で働くものたちがお互いの話を交わしたり、ちょっとした出来事を口の先に引っかけて遊ぶ場所だった。言葉は細切れになって聞こえてきた。

「来たぜ。そうよ、高市屋たかちやの旦那。新婿を連れて。あそこの嫁はとんでもねえ焼餅焼きで有名だから、せめて結婚前にいい思いをさせてやろうとしたってわけさ。いい話だねえ。おれもそんな気のきいた舅が欲しいもんだぜ」

「ちぇっ、昨日はよ、おめえ、えらく寒かったな。金玉まで凍りついちまった。使いで万膳町まで行ったはいいけど、雪が積もって町の顔が変わって、久しぶりにどこにいるのか分からなくなっちまって時千穂の姉のほうの世話になっちまったぜ。あの町は隙さえあれば人を迷わしやがるよなあ」

「飛行船の機関士からきいた話だがな、地上は今、不景気だってさ。なんでも今の時世、天保銭一枚じゃ饅頭も買えねえってよ。あんな便利な銭は他にねえのになあ、あれ一枚ありゃあ、鮭の切り身も、湯銭も、もり蕎麦も賄えたのに、それが今じゃ何も買えねえと来てる。原因はどっかの異国の銀行が倒れたせいだそうだ」

「それもこれも、便利になりすぎたせいだな。江戸のころは鎖国で国を塞いでたから、いくら異国の両替商が倒れようが平気の平左だったが、今は電信や汽車、汽船、飛行船で日本は異国とつながっちまった。だから、異国の銀行がとんじまったとばっちりを食うのよ」

「そうは言っても、おめえ、あのまま江戸の時代が続いちゃ、斬り捨て御免のクソ侍の世が続いちまうじゃねえか。おれの兄貴は馬鹿なやつで武士にほんざしにちょっかい出して斬られちまった。結局、そいつは斬り得になっちまったが、それにしても見事にぶった切られたわけだ」

「どうしてそんなことをしたんだ?」と扇。

「そうか。おめえら若いのは知らないのか。斬り捨て御免ってのは侍にどんなにひどいちょっかいをかけてもその場を逃げ切れば、それで相手の侍はこっちを斬る筋合いを無くすんだ。後日、その侍と顔を合わせても、相手の侍は斬れないわけよ。斬るならコケにされたそのとき、その場所でバサリとやらねえといかん。で、おれの兄貴なんだが、まあ倶利伽羅くりからのモンモンを背負ってるくらいだから、まあ、侍の一人や二人馬鹿にできねえで、何が江戸っ子だ、なんていって、どこかの大名の下屋敷の前で侍にわざとぶつかって、気をつけろい、田舎侍、とやったわけよ。いつもはその手で逃げおおせたんだが、ところが、そんときゃ相手が悪かった。その侍ってのが信州上田藩松平伊賀守さま五万三千石の剣術指南役で居合いの達人、講武所でも教えていたくらいの腕の持ち主ときたもんだ。逃げようと背を翻したころにはバッサリ抜き打ちを食らっていたわけよ。斬られてから死ぬまでほんとにあっという間だったらしくて、兄貴のやつ田舎侍を馬鹿にしてやったといわんばかりの得意顔して死んでたっけ」

「わしは上野の戦に出たことがあった」年を食った総灯油番が話に加わった。「あのときの斬り捨て御免ほど恐ろしい斬り捨て御免はそうそうないだろう。官軍は上野で勝ったが、海の上では榎本艦隊にコテンパンにしてやられ、怒髪天を衝く勢い。賊軍は見つけたら遠慮なく斬ってしまえときた。それで敗残のわしらは腹を切るなり、隠れるなり、落ち延びるなりしたわけだが、わしは江戸の町からツテを頼って品川へ落ち延びようとする。が、あちこちに関所ができて、身動きができない。酒井さまの下屋敷にわしらのような敗残が大勢匿われていたのだが、官軍は『隠せば獄門、突き出せば金一両』と触れ回ったからさあ大変。屋敷の中間たちが一両欲しさにわしらを捕まえようとしたが、こっちは一刀抜いて死に物狂い、下屋敷を転がり出たが、着ているものがよくない。そこで義経袴を脱ぎ捨てて、刀も捨てて、着流しを尻端折って、民家の干し場から取った手ぬぐいを――」と老人は手ぬぐいを湯船の縁から取り上げると、ほおかむりにした。「――こんな具合にした。で、そこらの塵場に転がっていた笊のぼろいのを拾って振り売りに化けることにしたが、肝心の売り物が見つからない。魚なり花なりあればいいが、どこも戦のとばっちりはごめんときて、戸を閉ざしている。仕方がないから、拳くらいの石を拾って泥で汚して、芋のように見せかけて逃げることにしたが、関所にぶちあたった。わしは引き返そうとするが、そこに長州の白熊をかぶった官兵たちが後ろからやってきて、引き返せなくなっちまった。笊に石を入れている振り売りなどいかにも怪しいだが、もうどうすることもできず、こっちは半ばヤケを起こして、石をそばの川に投げ始めた。ええい、斬るなら斬ってしまえ、おれは知るもんか、というわけだ。案の定、官軍がやってきて、おい、何をしていると横柄にきく。すると、一世一代の大嘘が突然口から吹いて出た。『あちきはしがねえ苔石売りでございますよ。戦のとばっちりで苔が焼けて石だけになってしまって、一両の大損でございます。誰がこの一両を弁じてくれるのか』と言って、おーいおいおいと泣いてみると、官兵たちはその一両の弁償を求められたら面倒だとそのまま行ってしまった。そのうち、ご即位の話が入ってきて、わしら敗残は恩赦で命拾いしたわけだ」

 老人はこの話を朝風呂で毎度毎度やっている。それは朝のちょっとした儀式のようなもので、老人の語り口と真に迫った仕草で湯船は桝切りにした芝居小屋のようになるのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ