九の十九
扇の記憶が戻ったのは、空中砲艦に飛びついたときだという。そのとき、鉄製の梯子の桁に頭をぶつけた拍子に全てが甦ったのだ。
「この埋め合わせはさせるからな」
タマたちと雪原に戻った扇は久助と火薬中毒者に言った。
扇が記憶を失い、飛騨まで流れ着いたのは新年早々、久助と火薬中毒者に呼び出され、火薬機関第二号のお目見えに強制的に参加させられ、そして、その繋留用索に足が絡まって飛ばされたからだった。
「そんなに怒ることでもねえだろ」久助は悪びれずに言った。「こうして助かったんだから」
「そうですよ」火薬中毒者が援けた。「ぼくなんて、火薬全部を没収されたんですよ。砲艦から砲弾の一つでも持ち帰ってくれればいいのに」
アンドレ・マッセナ級空中砲艦の船倉からフランス人たちが助け出され、そして、代理販売人はまたしても一万フランのボーナスがふいになったことを知った。鬼熊屋は手元に現金がなく、セッツからの投資もふいになったため砲艦の残りの代金を支払えずに破産し、その資産は競売に付され、飛騨にその人ありといわれた鬼熊屋は一晩で倒産した。またセッツの商工会に無断で投資を行ったあの耳を撃たれた男金島も背任罪に問われて、全ての官職を取り上げられ、禁固刑は間違いないという。
新右衛門はもう少しガザリの里に滞在し、雪解けころにまた修行にまわるつもりだと言った。
フランス人たちは助けてもらった礼ということで扇、久助、火薬中毒者、そして朱菊太夫を天原まで送ってくれるということになった。その際、天原にその人ありと言われた朱菊を一目見ようと押し寄せる水兵たちを相手に士官や兵曹が四苦八苦することになったことは言うまでもない。
ヒダ国を離れて、東へと進む空中艦の舳先に朱菊太夫が立っている。
全てが知られた以上、もうガザリの里には戻れないだろう。そう思い、旅立つつもりでいた。
だが、タマや子どもたちがいた。
「おらにはタエ姉やはタエ姉やだ」タマが言った。「遊女でも何でも関係ねえ。里のみんなだって、おんなじだ。だから、タエ姉や。また来年も帰ってきてけろ。せんもだ。いつでも来てけろ。おら、待ってるから!」
太夫、と声をかけられ、さりげなく涙を拭いつつ振りかえる。
扇がマントに包まって立っていた。
「そんなところに立っていると風邪をひくぞ」
「おや? 主がわちきに気を使いなんしか?」
垂髪に簡素な着物だが、口調は廓言葉に戻っていた。
「あんたの出身のことは誰にも言わない」扇は言った。「そんなことしたら、まさしく興ざめだからな」
「ほんにかえ? それはありがとうござんす」
「遊女になったのは、あの里を守るためか?」
扇がたずねる。
朱菊は雲の海を眺めながら、うなずいた。
「確かに政府なり商業なりに力を持つやつを虜にすれば、あの里を守らせることくらい、できそうだ。あれだけ金が出れば、いつ、どんなやつに狙われるか分かったもんじゃないからな」
「女の悪知恵はよう働きんしょう?」
「その知恵が悪いのかどうかはおれには分からない。でも、帰る場所があることの大切さについてはおれもいろいろと学んだ。久助と火薬中毒者は一ヶ月接近禁止にしてやるつもりだが、まあ、怪我の功名だな。おれには戻れる場所があると思えたことの安心感。新しい発見だ」
だから、あんたも――と扇は言う。
「その大切な場所、戻れる場所を持ち続けてくれ」
風が吹きつけて、雲の色が冴え渡っていく。
朱菊はちらりと扇へ振り向くと、
「はあ、まったく。主はいい優だわいな。楼主の次に」
扇は肩をすくめて、艦橋へと戻っていった。
朱菊は振り向いて、遠ざかる飛騨の山々を眺めた。青と白の世界は大切な思い出とともに遠ざかっていく。
だが、朱菊が感じたのは別離の悲しみではなく、来年の再会への期待だった。
第九話〈了〉




