一の十六
籬堂には経師ヶ池へ張り出した六十畳の大広間がある。
天原の事実上の統治機関である「総籬株」会議が行われるのもこの場所であり、月に一度の定例会議と緊急の臨時会議が開かれることになっている。
総籬というのは格子が楼の見世前から入口の土間の脇まで続いている遊女屋のことで遊女屋のなかでも特に位の高い大見世がそう呼ばれる。
二百の遊女屋がある天原遊廓で総籬株を持つ大見世の楼主は十人。
桜泉楼の桝屋喜七郎。
紅春楼の観音寺屋善助。
繚乱楼の鼓屋惣兵衛。
綾巴楼の結城屋七郎左衛門。
蓬玉楼の唐鍵屋甚三郎。
早乙女楼の明石屋吉右衛門。
宝鶴楼の左文字屋勘十郎。
華仙楼の仙王寺屋閑斎。
桔梗楼の桔梗屋定左衛門。
そして、白寿楼の九十九屋虎兵衛。
その他、遊女屋ではないが、天原の運営に関わる重要なものたちからも総籬株は選出される。万膳町が四人、機械工が三人、職人町が三人、芸人たちのなかから三人、ガス工場から一人、電信所から一人、屋台の代表が二人、飛行船発着場から一人、医者から一人、飛行船操縦官から一人といった具合に株が割り当てられている。
その日の午前、天原遊廓は小雨を降らす鉛色の雲のなかを飛んでいた。霧のように細かい雨粒で経師ヶ池の水辺や島がぼんやりとかすんでいる。籬堂の六十畳の間には三十枚の座布団と三十個の煙草盆が置かれていて、一人少ない二十九人の総籬株が集まっていた。
全員が座布団に正座し、刻みなり紙巻なり好みの煙草を呑みながら、この場にいない最後の総籬株、九十九屋虎兵衛のことを考えていた。沈黙が時おり、煙管を盆に叩きつける鋭い音に刺される。
この日招集された総籬株臨時会議の主題は二日前に起きた九十九屋虎兵衛襲撃事件である。下手人五人はその場で殺されたが、黒幕はヤマト国ではないかと総籬株たちは噂し合う。
「同盟の申し出を蹴ったのが原因ですかね?」
煤竹のお召を着流し羽織を着た小太りの中年男が誰にたずねるともなく、疑問を口にした。紅春楼の楼主観音寺屋善助だった。誰か質問に答えてくれるものはいないか、静かに辺りを見回している。
現在集まった二十九人のうち、最年長は七十四歳、万膳町から選出された魚処天狗の天狗屋松介で、次が七十一歳、華仙楼の楼主仙王寺屋閑斎。二人は自分から意見を言うことはあまりないものの、議論の行く末を辛抱強く観察し、意見を求められれば、きちんと述べるべきことを述べる。総籬株会議の相談役のような役割を担っている。
一方、最年少は宝鶴楼の左文字屋勘十郎で、二十七歳。髪を肩まで伸ばし女形のようにきれいな顔立ちで優男然としているが、二十代で大見世を仕切り、総籬株を持つだけのことはあって、頭は切れる。
総籬株唯一の女性は女芸者の元締めである佐橋おみね。彼女は天原の女芸者だけでなく、遊廓で働く禿たちの意見も代弁することが決められているため、総籬株のなかで最も多くの人々の意見を代弁する立場でもある。
そのおみねが観音寺屋の質問に答えるように言う。
「あれは同盟というより子分になれと言うようなものだったじゃないの。九十九屋さんの対応は間違っていなかった」
「誰も九十九屋さんが間違ったことをしたなんて言っていませんよ」観音寺屋が訂正する。「あれは断って当然の案件です。九十九屋さんはそれを出来るだけ穏便に、相手の交渉役の顔も潰さないようにしてのけた。その九十九屋さんにヤマトは刺客を差し向けたんです。そんな相手を抱えた以上、天原も自衛をしなければいけません。しかし、ヤマトはカワチとヤマシロと同盟を結んでいて、手出しがしにくいのも現状です」
かといって、何もしないままでいれば、ヤマトは報復の心配がないことをいいことに、第二第三の刺客を送り込む。
「戦、か」
機械職人頭で白髪頭の清丸菊外がぼつりとつぶやく。丸い襟をつけたシャツに手ぬぐいのようなネクタイを結んでいるが、それは実際手ぬぐいで油で汚れた手を使うための代物だった。
「大急ぎで天原に大砲と爆弾投下口をつけなきゃならんなあ。大仕事だ」
「それでもやらなきゃいかん」勘気の強い綾巴楼の結城屋吉右衛門が煙管から口を離し、煙と一緒に怪気炎を吐く。「このままにしておけるものか。総籬株は地上の国でいえば、大臣みたいなものだ。天原の運営もここで大筋を決める。今、天原がされたことが地上の国でやられたら、即宣戦布告だ」
その対面で紬の長着にお召の紺の羽織を着た宝鶴楼の左文字屋勘十郎がマッチを擦って両切りに火をつける。しばらく呑んでから、
「兵隊はどうするんで? 戦のことを知っているのは各見世の用心番くらいのでしょう?」
「傭兵を雇うつもりだ」結城屋は力強く煙管を盆に打つ。「それと空から奴らの城なり要塞なりに弾をぶち込めば、すぐに戦は終わる」
「攻撃飛行船がこちらに仕掛けてくる攻撃はどうさばくんです?」左文字屋はさらにたずねる。
「こちらも対空砲を置けばいい」
「そんなことをしたら、天原じゅうが傭兵と大砲だらけになる。そんな天原を客が見て、どう思うか?」
「左文字屋さん。先ほどからきいていると、どうもあんた、戦に消極的なようだが」
「実際、消極的ですよ。戦は気が進まない」
「こっちは九十九屋さんが危うく殺されかけたんですよ? 悔しくはないんですか?」
「そりゃ、悔しいですよ。もし、九十九屋の旦那が死んだら、ヤマトの連中には地獄を見せてやりたい」左文字屋はそう言って、少し目を伏せた。「でも、ヤマトと戦端を開けば、カワチとヤマシロが参戦してくる。ヤマト・カワチ・ヤマシロの三国同盟が相手では勝ち目が限りなく薄い。戦をするなら勝てる見込みがないといけない。もし、天原が戦火で焼けるようなことになれば、それで天原はおしまいです」
「危険は覚悟の上だ。なめられたままじゃ、ヤマトが付け上がる。いや、天原の利権に目がくらんでいるのは何もヤマトだけじゃない。行動を起こしていなくても、野心のある国はいくつあるか知れたもんじゃない。そいつらに警告を送る意味でも、今度のことは断固たる抵抗をするべきなんだ」
「誰も抵抗しないとは言わない。抵抗はするし、思い知らさせもする。それでも、まずヤマトからカワチとヤマシロの離間を謀らないといけない。全てはまず、そこからです」
「そんな悠長なことを言っている場合じゃないんだ」
結城屋が煙管で煙管盆を打ったが力が強すぎて、羅宇が折れてしまった。
会議は強硬派の結城屋と慎重派の左文字屋の応酬になった。結城屋が熱くなるほど、左文字屋は冷静になる。だが、どちらの意見も筋は通っていて、甲乙はつけがたかった。
議論は平行線を辿り、かといって他のものに代案がない状況がやってきて、会議が煮詰まった。
誰も発言することなく小雨が吸い込まれるように池に染みる音がきこえるだけになったときだった。
「いや、遅れてしまって申し訳ない」
明るい声。襖がガラッと開き、袴は白、上衣は藤色で藤紋様が白く染め抜かれている直垂姿の九十九屋虎兵衛が六十畳間に現われた。
「九十九屋さん」蓬玉楼の唐鍵屋甚三郎が呆気に取られた様子でたずねた。「怪我のほうは? もう、大丈夫なんですか?」
虎兵衛は矢の刺さった胸をポンと叩き、
「ええ。一時は地獄の閻魔の前に引き出されましたが、どういうわけだか、此岸へ突っ返されまして。いや、どうやらみなさん、やや険のある雰囲気だ。きっと原因はわたしの胸に刺さった矢じりのことでしょう。まあ、そう怖い顔しなくとも大丈夫です。矢じりとは言っても、金物ですからねえ。ということは、身に金が入ったのだから、縁起もいいってもんで」
そう言って笑いながら、自分の座布団に正座した。
「それで、今、話はどんなふうになっているんです? 教えてくれるとありがたい」
一通り説明を受けると、虎兵衛は感服したように呻りながら、
「そりゃあ凄い。結城屋さんも左文字屋さんも言っていることに筋がぴしりと通っている。これじゃあ、議決も難しい。ところで、お二方におききしたいんですが、お二方は今度のこと、天原全体でけじめをつけるおつもりで」
二人は、そうだ、と答える。
虎兵衛は扇子を抜いて手でいじりながら、
「それはまずいと思うねえ。上方にも贔屓筋は大勢いる。たとえ相手がヤマト一国だとしても、天原が総出で戦をやれば商売に影響が出る。それに、もしまかり間違って勝ったりした日には、それ、天原は空飛ぶ要塞ぞ、といって国という国が狙ってくる。かといって、何もしないんじゃあ、今度はみなさんが危ない。結城屋さんも左文字屋さんも正しいことを言っているとなれば、ここは一つどちらでもない意見を挙げてみますかな」
「どちらでもない意見とは?」左文字屋がたずねる。
「この揉め事を天原とヤマトではなく、九十九屋とヤマトのものにすり替えるんですよ」
総籬株たちがどよめいた。
「ヤマトの圧力を一人で受け止めるつもりですか?」
「いえ。それはさすがに無理だ。ヤマトにはきっちり分かりやすく、かつ商売に影響の出ない方法で天原に手を出すことの愚を教えるつもりです」
「どうやってそんなことを?」
「まあ、一つ考えがあります。飛び切り興が乗ったのが」
「ですがねえ、九十九屋さんも興はほどほどにしないと、本当に死んでしまう。いくらなんでも、お一人で一国の圧力をいなすのは無理ですよ」
「もし、天原がヤマトと正面で事を構えれば、天原にはいっさいの戦争を持ち込まないという原則を天原自身が崩すことになる。天原はあくまで天原であるべきなんですよ。それにね、遊女屋一軒が国一つを相手にどこまでやれるか。どうもこいつはなかなか興が沸く」
「そんな無茶な」
そう言って桝屋は二人の長老の意見を――年齢が生み出す節度ある意見を仰いだ。
天狗屋と仙王寺屋はお互いの目を見合わせた。そして、仙王寺屋がうなずいて言った。
「九十九屋さんの興狂いは、なに、今に始まったことではない。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。それより、いま、わしらの頭を悩ませている問題を思案しよう。それはヤマトの専横であり、危ぶまれているのは天原の中立だ。九十九屋さんの言うとおり、天原はあくまで浮世の憂さを忘れるためにある。それがヤマトとの関わり合いで、本道を忘れてしまうと天原そのものがいま、下の世界で行われている戦争にもろに巻き込まれてしまう。それでヤマトを退けたとしても、もうそのころの天原は天原ではない別の何かになっておるだろう。試合に勝って勝負に負けるわけにはいかんのだ。わしらは天原の存在する意味を重視しつつ、ヤマトに牽制を行わなければいけない。わしは九十九屋さんにお任せするのがいいと思う」