九の十五
不安な夜が明けた。
朱菊が何なのか、里のものには皆目検討がつかなかった。
鬼熊屋は本気で里に大砲の弾を撃ち込むだろうか? とりあえず、正午になったら、鬼熊屋が降りてくるのだから、そこできちんと話をきいてみようということになった。
里のみなの顔は浮かなかった。彼らの頭上には里に照準を定めた大砲がある。無表情な雲のようなその船はずっと里のみなに見える位置に浮いていた。
新右衛門は悔しげに空を見ていた。
「おのれ、陸でなら負けはしないものを」
「おれたちにできることはない」せんが言った。
「それはわかる。しかし、口惜しい。朱菊とはいったい何なのだろう?」
「さあな。それを渡さないと里を吹き飛ばすといっている。本当にやると思うか?」
「これはきいた話だが――」新右衛門は表情を暗くして言った。「以前、ある鉱山の鉱夫たちが給金のことで抗議をした。鬼熊屋にな。すると、鬼熊屋は主だった鉱夫を捕らえて銃殺にした」
「やつらはその朱菊を手に入れてもやるかもしれない」
「うむ」
正午まで後二時間。灰色の腹を見せる空中砲艦を睨んでいたが、そのうち首が痛くなってきたのでやめた。新右衛門はいつも一人で稽古している裏の広場へと行ってしまった。空の不快な鉄の雲を心から締め出すべく木刀を素振りすることにしたらしい。せんは一人そこに残って、どうなるだろう? と思い、砲艦が落とした影のなかで寒気を感じた。
すると、タエが一人、廊下の出口から階段を上がって、崖の上の雪原へ向かっていくのが見えた。
タエは雪原の真ん中に立った。空の軍艦からピカリと光った。それは真鍮製の望遠鏡で甲板から何者かが雪原のタエを覗いたらしい。
間もなく、砲艦から小型飛行船が飛び立ち、ぐんぐん高度を下げて、タエのいる雪原に着いた。
せんは自然と風下のほうへ移動した。タエも飛行船から降りてきた男たちも気づいていない。
船から下りてきたのは二人の男でどちらもがっしりとしていて、毛皮の帽子をかぶり、ラッコ皮の襟をつけた外套を身につけていた。一人は厳めしく目も鼻も口の大きかった。もう一人はすっきりした顔に端が跳ねた口鬚をたくわえていた。このうちのどちらかが、今、里でささやかれている鬼熊屋かもしれない。
三十間まで秘かに近づいて、耳を澄ませると、声が途切れ途切れきこえてきた。もう十間近づくと、おどろいたことに会話がほとんど耳に入った。どうやら自分は記憶を失う前に地獄耳にでもなる練習をしたらしい。
「噂に違わぬ美貌よ。やはり、おれの女になるのがふさわしい」
男のうち細工の悪いほうの顔が言った。
「しゃれなんすな。大切な里を人質にとられたのなら、他にどうしんしょう」
タエが言った――はずだった。だが、その言葉はこれまできいたことのないものだった。
タエではない誰かが話しているかのようだった。だが、そのしゃべり方をきくと、なぜか懐かしい気がしてくる。
いったい、どうなっているんだ?
「鬼熊屋さん。よその見世に馴染みをつくりながら、うちの見世にやってきて、それを袖にした仕返しがこれかえ? げびぞな生野暮。わちきは好きいせん」
「遊女がずいぶんな口をきくじゃねえか。しかし、天原随一の太夫の名は伊達じゃないらしいな。そんな色気のない野良着でも見てるだけで辛抱ができなくなるわい。おい」
剣付き鉄砲を手にした兵隊らしい男たちが四人降りてきて、タエを囲うように立った。そして、後ろにいた兵士がタエの腕をつかもうとした。
「触れなんすな」
ただ振り向いて言っただけの言葉に途方もない冷たさを感じ、タエを囲む男たちが思わず一歩後ずさった。鬼熊屋とその隣の男もたじたじとした感じだったが、子分の目があるのか、すぐ二人はすぐに立ち直って、傲岸な目でタエを見返した。だが、タエの持つ冷たさに比べれば、そんな男たちの視線など物の数ではない。タエの視線の冷たさは今もこうして雪をかぶって見守っている高い山々のようだった。
「打掛も提灯もないこんな無様でも太夫の道中でありんす。傘をさせぬなら、そこに立っておりゃれ」
タエは粉雪が舞い上がらないくらいのゆっくりとした動作で前へ――飛行船の舷梯へ歩いていく。
タエが舷梯を半ば上ったとき、
「タエ姉や!」
――タエを呼ぶ声が雪原に響いた。
タマだった。里から上ってきたばかりらしく、顔を赤くして、白い息をはあはあと荒くしている。
「タエ姉!」
声は届いていた。男たちの無法を相手に気を張っていたタエが初めて表情を暗くしてうつむいた。
「女郎じゃ!」鬼熊屋らしき男が声を上げた。「こいつはタエなんて名じゃねえ。朱菊。女郎屋でも一等の女郎、朱菊太夫だ。穢れた女だ」
「女郎? タエ姉が?」
タマが呆然としている。
タエが唇を噛みしめるのが見えた。
その横で下品なドラ声を張り上げて笑っている鬼熊屋も見えた。
そのとき、せんは刀を抜き放った。雪の上を跳ねるように走る。どす黒い殺気が腹の底から湧き出して、体の隅々まで満たしていく。その焼き腐る酸のような感情のままにこの男をなぶり殺しにしたかった。タマとタエと里の人々に与えた痛み全てを思い知らせてやりたかった。
走っているのはタマも同じだった。連れていかれそうになっているタエを追いかけるように走っていた。鬼熊屋の連れの男と兵士たちがタエの肩をつかみ、強引に飛行船に引きずり込もうとする。
鬼熊屋が懐から六連発銃を取り出した。その狙いをタマにつける。
引き金を引く。
発射された弾は厚い雪に突き刺さった。
タマは横から跳んできたせんに抱きかかえられて、銃弾をかわせる下り坂へと転がっていく。
第二、第三の銃弾がそばをかすめた。雪にできた窪みに伏せたときには残り三発の弾が無駄弾として見当違いの方向へ飛んでいった。
危ないところだった。
せんは自分の心臓は激しく打つのを感じていた。鬼熊屋がタマを狙った瞬間、自分の殺気がとけなかったら、今ごろタマはあの雪原に赤い血を滲ませながら倒れていただろう。
「タエ姉!」
タマが悲痛な声を上げる。飛行船はもう雪原を飛び立ち、空の砲艦へと帰っていくところだった。




