九の十
タエが帰ってきた日から、里は何だか華やいでいた。あれだけ得体の知れない里の外の世界もタエの口からきかされれば、素晴らしいものにきこえてくる。タエは雪合戦や岩魚比べに引っぱりだこで、休む暇もなかった。
タマは毎夜毎夜、囲炉裏にかかった粥鍋を囲む場で、その日、タエ姉やとどんな遊びをした、どこへ行った、どんなことを話してもらったとそればかりだった。
「おめえは本当にタエのことを好いとるだな」
父の忠吉が言うと、タマは、
「今さらなに言ってるだ、おっとう。里の子でタエ姉やを悪く言う子なんていねえっぺ。きれいで、優しくて、物知りで。おらも大きくなったら、タエ姉やみたいになりてえ」
タエが帰ってきた日から三日ほど経った日に夕方、せんは一人でガザリの里の階段を一番下から一番上まで何度も往復していた。体を動かしているあいだは自分がどんな人間だったのか考えることもなく、激しい運動がもたらすある種の気楽さに身を置くことができた。てっぺんの雪の原の足場から階段を下っていると、自分がこの崖を流れる水になったように感じ、谷川の足場から上ると、上へ上へ泳ぐ岩魚になったように感じた。てっぺんの足場から階段を二つ下った踊り場でさすがに体力の限界を感じて、そこで休むことにした。厳寒のなかであるにもかかわらず、せんの体は熱く火照り、喉が水を求めていた。水は手を岩へ差し伸べれば、簡単に手に入った。手を伝い落ちる水をごくごくと飲み、冷たい水で首筋をこすってやると、ひやりとする感触に最初は驚くが、すぐにほっとするような心地良さを感じることができた。夕暮れの光に染まった薔薇色の雲がせんのすぐ上をゆっくり流れて通り過ぎていた。朱に染まった夕餉の煙がたなびいた。一番星をかけ始めた蒼い空に見守られながら、里は山吹色の優しげな光や薔薇色の雲と戯れ、その日を終えようとしていた。
「せんさん」
突然、後ろから話しかけられて振り向くと、そこにはタエがいた。毛皮に里の女性が穿くふっくらした袴を身につけたタエは一日じゅう子どもたちと遊んでいたせいか、顔が上気して赤くなっているようだった。あるいは夕暮れの光の加減でそう見えただけかもしれない。
「子どもたちは?」
「おらももう疲れたから、放してもらったべ。せんさんは何をしとるけ?」
「運動を。たぶんだが、記憶を失う前のおれはこんなふうに自分を鍛えていたような気がする」
「んだべか」
「といっても、本当は分からないことだらけなのが、怖くて疲れ果てて何にも思いつかないようにしようとしているだけだ」
「タマからきいたべ。町の荒物屋でのこと」
「ああ」
「えれえ活躍だったそうでねえだか」
「そうだな」
「でも、あまり嬉しそうでねえな?」
せんは知らず知らずそらしていた目をまたタエに向けた。まるでタエはせんの心のなかを見透かすように言葉を紡いでくる。
「ここはいい場所だ」せんはタエに背を向けて、手すりから崖の里を眺めながら言った。「だから、おれはこうしていられる。だが、今日倒したような連中のいる場所にいたら、違ったものになっていたはずだ。おれは自分が何者だか分からないまま、誰かを傷つけたり、奪ったり――殺したりするかもしれない。いや、かつてのおれはそうだったのかもしれない。もし、記憶が戻ったとき、おれの居場所がそんな暗闇に閉ざされたような場所だったらと思うと、怖いんだ」
「なぁんだ、そんなことけ?」
深刻さを吹き飛ばす明るい声にせんは振り向いた。
「もし、記憶が戻って、もといた場所に戻りたくないと思ったら、戻らなければいいだけだべ。なりたいと思うなら里の人間になればいい。昔、何があろうと、おめさんはおめさんだ」
せんの顔が少しずつだが、不安から逃れ、安らかに見えた。
「――そうだな。そのときはそのときだ。今、考えてもしょうがない」
「ああ、その意気だべ」
「不思議な人だな」せんは微笑んだ。「あんたと話すと何だか――懐かしさのようなものを感じる。変な話だけどな」
「また、何かあったら相談に乗るから、いつでも話しに来るっぺ」
「いや、あまり子どもたちからあんたを取るのも悪い。おれはもう大丈夫だ」
そのとき、階段の下に出っ張った木床の広場から、タエ姉や、タエ姉やと呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ、おらは行くだ」
「ああ」
紫色の暮れゆく空に一つまた一つと星がかかる。せんはタエが子どもたちのもとへ辿り着いたときに沸くであろう歓声を聞こうと思い、目を閉じて耳を澄ませた。