九の九
里へ帰ると、里じゅうが大騒ぎだった。
「どうしたべ?」
タマが谷川の家に住む老婆にたずねると、老婆は、
「タエが帰ってきただ」
それをきくと、タマは居ても立っていられずに上り階段へすっ飛んでいった。
それを見ていると自然と笑みがこぼれた。せんと新右衛門は水車の力でゆっくりだが上に上がる足場に俵を乗せた橇と一緒に乗り込んだ。ゆっくり上がりながら、里の子どもたちが嬉しそうにはしゃいだり、男たちがのぼせたような顔をして女房たちにつねられたりするのを眺めていると、足場が止まった。ずるずると橇を引きずり、時には俵を持ち上げて階段を上ったりするうちに人垣が見えた。どうやら、その中心には噂のタエ姉やがいるらしい。
人垣からタマがぴょんぴょん飛び跳ねて、せんと新右衛門にこっちだと合図をしている。米や塩は里のものに任せて、その名も高きタエ姉やを見てみることにした。
人垣を何とか通り抜けた二人はタマに紹介される形でタエと顔を合わせた。せんと新右衛門は呆気に取られた。こんなに美しい女がいたのかと驚くほどの美しさだった。垂髪を垂らし、里の女たちと同様に毛皮や袷で着膨れしているが、それすら様になって見えるのだから、たまったものではない。
タエのほうもせんと新右衛門を見て、キョトンとしていた。
すると、タマが横からタエに、
「こっちが新右衛門で、こっちがせんだべ」
「せん?」タエは驚いた様子でせんの顔を見ていた。
「せんは記憶がねえだ」
「記憶がない?」
「んだべ。どこから来たのかも分かんね。里の上の雪っ原で凍え死にしそうだったのをおらが見つけただ。さ、二人とも挨拶するだ」
「塚原新右衛門高遠と申す。こちらで修行のために世話になっている」
まず新右衛門が背筋を伸ばして、名乗り頭を下げた。その顔は赤面していた。
次にせんが、
「せんだ。それ以外のことは何も覚えていない。でも、あんたのことはタマからよくきいている。タマの言ったとおり、確かにきれいだ」
と、言って、軽く頭を下げた。
「何も覚えていないって、本当になんにも覚えていないんけ?」
鈴を転がすようなタエの声がせんに疑問を投げかける。せんはうなずいた。
「ああ、分からない」
子どもたちがわっとタエを取り囲んだ。
「タエ姉や。お話してけろ」
「岩魚比べすっぺ」
子どもたちに十重二十重を囲まれたタエは水の流れる斜面のほうへと押されるように行ってしまった。
「ふうむ。まさか、かように美しい女子がいようとはのう。世間は広い」新右衛門はかぶりをふった。「いかがした、せんどの?」
「いや」せんは子どもたちに囲まれて笑っているタエを見ながら、「ひょっとして、あの人は記憶を失う前のおれを知っているんじゃないかって」
「ほう」
「まあ、ただの勘なんだがな」
「あのような美人と知り合いであったのであれば、わ殿の記憶、何としても思い出さねばならぬのう」
新右衛門が笑う。せんは釣られて微笑みながら、何かがふっと胸をよぎりそうになるのを感じていた。それが何かは分からないが、自分がどんな人間だったのか、教えてくれるような気がした。




