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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第九話 せんの扇と氷水流れる崖の里
150/611

九の八

 早朝、谷川の水が白く煙るなか、毛皮を着込んだ三つの人影がガザリの崖の階段を下へ下へと降りていった。タマ、新右衛門、せんの三人である。谷川の最下部には鱒の網小屋や里で一番大きな水車がまわっていて、木で組んだ道が川下へ伸びている。黒くうねる渓流の上を歩く。時おり手のひらくらいの大きさの鱒が飛び跳ねた。木組みの道は川沿いの崖に沿っていて、しばらく歩くと、雪の積もった森のなかへと曲がっていった。葉の落ちた黒い枝が重なり合って、頭上の曇り空を数千の破片に切り刻んでいた。森のなかの雪は栗鼠りすの走った跡を除けば、まったくの手つかずだった。その白く広がった雪の下ではふきのとうが春を待っている。だが、見慣れぬものには森はまったくの無表情で、どこをどう歩けばいいのかも分からない。せんと新右衛門は先頭を歩くタマの後をついていった。

 奪われた砂金の分だけの塩と米と味噌を持ち帰る。簡単にいくかどうかは相手次第。

「おらには分かんね」タマが不思議そうに言った。「どうして町の連中はそんなに金を欲しがるだか。だって、金は食えねえし、重いだ。ピカピカ光りすぎるから鱒釣りの疑似餌にも使えねえ。それに比べると、塩や米は大切だ。ねえと飢えちまうでな。でも、金はいるときにいる分だけあればいいだ。でも、町の連中は金がとにかくたくさん欲しくて、金のために山を吹っ飛ばすだ。そんなことしたら、山も川も森もみんな死んじまうだ。そうしたら、どうやって生きていくけ?」

「山も川も森もない生き方を探すのだ」新右衛門が雪のなかから藁沓を履いた足を引っこ抜きながら答えた。「今、この国のほとんどはそうやって暮らしている。石炭を燃やして巨大な鉄を動かし、金で全てを購えるように世の中を作り変えている」

「それは人がえばりすぎだ」タマが顔をしかめて言った。「そんなことをしたら山の神さまは怒るべ。そんなことになったら、金も鉄も何の役にも立たねえだよ」

 せんは二人の会話をきいて、ため息をついた。白く凍りついた息はしばらく消えずに漂っていた。頭上を仰ぐと、低い位置を飛ぶ灰色の濁り雲が森の枝をかすっていた。新右衛門の話ではガザリの里のような暮らしはいずれ消えつつあるように思えた。親切な人々、熱いイノシシ鍋、水車と小屋、岩魚で遊ぶ子どもたちがあの崖からいなくなれば、ただ金だけがむき出しになった黒く寂しい谷が残るのだ。

 そのうち、森が疎らになり、傾斜していくと、タマが安全な道を選びながら、ゆっくりと降りていく。杉の黒い森が左手にあり、右手は谷に落ち込んでいた。行く手の先には、ついさっきまでは雲で見えなかった飛騨の連峰が薄緑がかった青い氷河を纏って聳え立っている。

 歩いていた道がそのうち街道らしいものに変わってきた。道が森の中心を二つに分かつようになり、茅葺きの旅籠や民家がぽつぽつ見えてきた。しん、と静まり返っていた山に町の音が風に乗ってきこえてきた。天候にもよるが、町の音はだいたい一里くらい離れていてもきこえてくる。その音は崖や谷に跳ね返りながら、幾重にも増幅して、不明瞭な羆のいびきのようになっていく。

 街道を左へ外れて、歩くこと十五分、ついに町が見えた。盆地で寄せ合いながら建つ家々はどれも山のお情けで立っているような弱々しい代物で、ひとたび山の機嫌が悪くなれば、雪崩なり嵐なりで跡形もなく吹き飛ばされてしまいそうだった。

「二人を殴った荒物屋はどれだ?」

 せんがたずねると、タマは盆地の坂に立つ茅葺きの店を指した。他の家よりも少しだけ大きく、昼食を煮ているのか、煙が上っている。

「では、敵の顔を拝みにいくとしよう」

 新右衛門は刀と脇差の柄袋を取って、懐にねじ込んだ。

 せんは昨夜から感じていた不安を抱えたまま、二人の後ろをついていく。

 荒物屋のなかには棕櫚しゅろホウキや天狗印の黄燐マッチ、それに埃をかぶったガラス製のネズミ捕りや茶箱、刻み煙草を入れた包みなどが所狭しと並べてあった。次の間で端の欠けた火鉢にあたっていた痩せぎすの男がせんたちが来たことに気づいた。

 あわせを重ね着した男はタマの姿を見ると、何の用事で来たか、察したらしく、侮蔑の表情を隠そうともしなかった。だが、後ろにいるせんと新右衛門の腰に差してあるものに気づくと、小心者らしく顔を蒼ざめさせた。彼は下男を町の宿屋に向かわせた。そこで鬼熊屋の雇った五人のやくざものたちがいた。荒物屋の主は外へ走り出そうとする下男に、相手は刀を差しているからやくざたちにも刀を持ってこさせるように言いつけた。

「うぬら、ガザリのもんかい? 何のようだ?」もうじき五人の加勢を得られる安心感からか、荒物屋の言葉は自然と高飛車な調子を見せる。

「先日払った分の塩とお米と味噌をもらいに来ただ。渡してけろ」

 そう言ったタマを見下しながら、

「なんにも払ってもらってなんてねえぞ。砂金なんてもらってねえ」

「おら、一言も砂金だなんて言ってねえ」

「ガキが大人の揚げ足を取ると後悔するだぞ」

「ほう」新右衛門が割り込んだ。「後悔するとはどのようなものか、是非伺いたいものだ」

「な、なんだべ、おめえ。おめえらには関係ねえことだ」

「震えているぞ。変に強がらずともよい。こちらはもらえるものをもらえば、大人しく帰る」

「残念だけど、そりゃあ無理だ。おめえら三人、五体満足には帰れねえ」

 荒物屋が言った。外にヤクザが五人立っていた。サーベル風の軍刀や長脇差、それに槍を持っているものもいた。中央に立つ熊の毛皮を頭付きにして羽織っている頭らしい男が言った。

「荒物屋に因縁つけとるのはおめえらか?」

「因縁なんかじゃねえ」タマが言い返した。「おめえらだな。平助とジン坊をあんな目にあわせたのは」

「だったら、なんだべ?」

 このやり取りのあいだに新右衛門は唇を動かさず、小声でせんに言った。

「それがしは右の三人を。せんどのは左の二人を」

 せんはその二人のやくざを見ながら、小さくうなずいた。毛皮で着ぶくれているのはせんもやくざたちも変わりがないが、せんと新右衛門は四肢の動きを妨げないように工夫して防寒具を身につけていた。その防寒具さえ紐を一本ほどけば、するりと体から外れ、すぐに素早く動けるようになっている。せんは右手でその紐を、左手は刀の柄に添えて、ゆっくり左へ動いた。

 二人のヤクザの得物は二尺を超えない長脇差とまさかりだった。毛皮を羽織って胴衣を巻いていたせいで脇の下に余裕がない。あれでは腰の脇差はすぐに抜けないし、鉞も上段にふりかぶるのに時間がかかる。そんなことを冷静に見抜き敵を無力化する算段をつける自分にせんはハッとして驚いた。自分は記憶を失う前、何者だったのか、改めて恐ろしくなる。自分が普通の人間だったら、恐怖と不安で頭がいっぱいになるはずなのに――。

 右端で何かが閃くのが見えた。そして、頭目らしい男が、アッと叫んで、額を押さえながら仰向けに倒れた。

 せんの体は自動機械のようにひとりでに動いた。紐を引き、防寒具から自由になると、あっという間に抜き打ちの一撃を鉞の男に見舞っていた。一撃目で鉞の柄を斬り、返す刀の峰打ちをこめかみに見舞った。男は青く脹れたたんこぶをこさえて、雪に倒れた。そのころには柔らかい雪の上だったにも関わらず、せんの体は軽々と飛翔し、長脇差を抜こうと手間取っている男の肩口に上空から刀の柄できつい打撃を加えた。悲鳴が上げようと開いた口にいつの間にか手にしていた雪のかたまりを詰め込み、股間を蹴り上げると長脇差の男は得物を五寸と抜かないうちに体を丸めて、声も出さずに倒れてしまった。

 新右衛門のほうの三人も峰打ちをくらって気を失い、雪の上に大の字になって倒れている。

 小型の回転式拳銃を出そうとあたふたしていた荒物屋にはタマの火縄銃がぴたりと据えられた。しゅうしゅうと燃える火縄を見た荒物屋は泣きそうな顔をして、銃を捨てて、両手を上げた。

 三十分後には三人は米と塩と味噌の俵を乗せた雪橇を引っぱって町を後にしていた。

「見事な腕前だった」森のなかで橇を引きながら、新右衛門がせんを評した。

「んだ、んだ」とタマも賛同する。「かっこよかったべ」

 せんは橇を引きつつ気恥ずかしそうな顔をし、頬を人差指でかいた。褒め言葉がこそばゆく、また誰も殺さなくて済んだことに心からの安堵を覚えていた。

 朝のうちは曇っていた空も、今はきれいに青く晴れている。

「ああ、きれいな空だべ」タマが朗らかに言った。「こんな日はきっといいことがあるだ」

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