一の十五
定期便飛行船発着場とは別の方向に歩くと、底が見えるほど澄んだ大きな池がある。
経師ヶ池と呼ばれていて、五つの小さな島がある。島も池の畔もも古老の松が植わり、水面まで長く伸びた枝が水の中に落ち込まないように漆で黒く塗られた棒を池に刺して支えていた。
ここは遊客の舟遊びなどをするための池で畔には舟宿の他に、納涼床のように池へ張り出した座敷や甘味処、川魚料理屋があり、また早乙女楼が所有する外輪汽船の乗り場もある。島はどれも小さく、小さな亭一つと石灯籠一つの他は生い茂る松に覆い隠されている。ただ島の中でも一番大きな島には籬堂と呼ばれる屋敷があった。天原遊廓の重大事を話し合うための寄り合い所で、地上の国が言うところの議会だった。
〈鉛〉と〈的〉を乗せた舟はその籬堂のある島を遠くに見ながら、ゆっくりまわり、深い緑彩の影を懐に持つ樹齢二百年の松のある島へと近づこうとしていた。
櫂を漕ぐのは〈的〉自身である。〈鉛〉は〈的〉の操る舟にもう半刻は乗っている。
「年に一度、この池で漕ぎっくらがある」〈的〉が誇らしげに、だが、少々悔しさも滲ませて説明する。「天原の住人のなかでも我こそはと思うものが参加する舟競争だ。こう見えても、おれは三年連覇をしていてな。だが、去年、仙王寺屋の新しい見世番に負けた。きけば、陸地じゃ本業の漁師をやっていたって話だ。いくら漕ぎっくらに自信があるおれでも漁師には叶わん」
太陽は濃く青い空に焼きついている。はるか西では雲が散り始め、風が池の面にさざ波を立たせる。古松の島が見えていた。岩があり、苔生した石灯籠が一つ立っていて、それ以外は松の葉と影に覆い隠されている。
〈鉛〉は舟の舳先よりの位置に腰を下ろし、口を閉じて、ぼんやりと目の前の島景を眺めている。
「お前さん、ここにいて、楽しいって言ったな」〈的〉が話しかける。「つまり、それは、ここがお前さんの興に乗ったってことだ」
「……楽しむことが興なのか?」〈的〉の言葉に息の苦しさを覚え、〈鉛〉はたずねる。「おれと同じ〈鉛〉の一人に楽しみで人を殺すやつがいた。それも興か?」
「そいつは心の底から楽しがっていたか?」
「……いや。本当はやめたかったのを、すり替えて我慢していただけだった」
「なら、それは興じゃない」
「教えてくれ。あんたは何でおれを生かした?」
「道具、道具とひねくれた若人に興が分かるか試してみただけよ」
「教えてくれ」と、〈鉛〉。「興とは何なんだ?」
「実はおれもよく分からん」
〈的〉の答えに〈鉛〉は拍子抜けしたような顔をした。音がなるとすれば、ポカンと鳴ったことだろう。
それを見て、〈的〉はアハハと笑う。「偉そうに興、興と馬鹿の一つ覚えのように言っているが、じゃあ、そりゃあなんだいときかれれば、実のところ、おれも答えに困るんだ。ただ、分かることもある。興ってやつは急に沸いたり、冷めたりする。乗ったり、添えたりもできる。興が何か分からなくても、その真っ只中にいるとわかると――そうさなあ――祭りの縁日の真っ只中にいるような感じがする。この感覚は分かるか?」
「わからない……」
「言い換えれば、体の芯から、今いる場所、時間、人々が楽しいと思える。ずっとそれが続いてほしいと思える。だが、結局、それは永遠に続きはしない。やがては冷める。でも、それを残念に思ったり、悲しいと思ったりする必要はないんだ。興ってのは、また、ひょんなことから急に沸いてくるからな」
櫂を動かすのをやめて、舟の勢いだけでゆっくりと進めながら、〈的〉は言う。
「正直な話、お前さんがおれを襲ってからの状態がそれなんだ。今、おれはこの時間と場所、人を楽しんでる。間違いなく興に乗ってる。下手をすると死ぬかもしれないのにな」
「あんたは死にたがっているのか?」
「冗談じゃない。こんな面白い世の中、そうそう死んで終わりにできるか。たとえおれが九十九まで生きたとしても、もう百年生きたいと思うだろうな。生きるにゃあ辛いこともひどいこともかなりある浮世だが、まあ、それを差っ引いても、この世は生きる価値はあるし、人もそれに値する。おれはそう思う」
「おれから見ると、あんたは馬鹿に見える」
「そりゃ、そうだ。自分を狙ってる刺客にヤッパを持たせて、二人っきりで舟に乗ってるんだぞ。自分でも思う。おい、虎兵衛、お前ときたら、とんだ大馬鹿野郎だぞって」
「ここにいるやつはみんなあんたみたいなのか?」
「いや。おれだけだ。こんな馬鹿、世の中に二人もいちゃあ迷惑千万」
「わからない」
「それがいいんだ。何でも分かっちゃ興が冷める。手品はタネを知らないから楽しめる。楽しく生きるのに、物知りになる必要はない。とはいっても、ほんとに何も知らんと困ることもあるが」
〈的〉は櫂で水を押し動かし、舳先を桟橋のあるほうへ向ける。
「やつらが待ち伏せしている」
近づく岸辺の藪を見ながら、〈鉛〉が警告する。
「そうかい」
〈的〉は他人ごとのように答える。
「あいつらはおれとは違う。本気であんたの命を取ろうとしている」
「そいつぁ面白い。ぞくぞくするほど興が乗ってきたな」
「怖くないのか?」
「お前さんがいるから大丈夫だ」
「おれは――」
桟橋と舟は横に並んでいる。〈的〉は櫂を水から引き抜き、船底に寝そべらせ、竹でつくった階段を昇る。
〈的〉は桟橋に立つと、〈鉛〉に振り返って、
「お前は扇だ。鉛でも番号でもない。道具だとしても、ただのつまらん道具じゃないぞ。ひとさしの舞いや涼を取るのに欠かせない、小粋に生きる男の逸品だ」
〈的〉はそう言って笑いながら、舟を降りようとする〈鉛〉に手を差し出す。
それを握ろうとしたとき、弩の張りつめた弦が軋む音がきこえた。
扇が虎兵衛を突き飛ばしたのと同時に短い矢が三本、風を切って飛んできた。
二本は外れたが、一本は虎兵衛の右胸に命中し、虎兵衛は桟橋に仰向けに倒れた。
扇は抜き打ちでさらに飛んでくる二本の矢を打ち落とし、左手で棒手裏剣を二本手にして、左の藪へ一本放つ。待ち伏せしていた〈鉛〉の一人が手裏剣の突き刺さった右目を押さえながら悲鳴を上げ、藪から出てきた。二本目の手裏剣が飛び、今度は喉を貫く。
残り四人の〈鉛〉が一斉に扇に襲いかかる。
扇は後ろへ跳びながら、身を低くし、刀の柄を逆手に持ちかえ、刃を水平に構える。
桟橋に飛び込んだ三三〇四番へ跳び違いにざまに斬撃を浴びせ、頸に走る血の道を断つ。ぱっくりと開いた赤紫色の傷口から血が間欠泉のように噴き出す。
身を返す途中で、背中に一太刀食らい、前のめる。追撃をかける背後の〈鉛〉の突きをいなすと懐に飛び込み、手首に隠した棒手裏剣を左手に滑り込ませ、それを相手の顎へ下から脳を突くように押し刺す。骸は後ろへたたらを踏み、池に落ちた。
残り二人。
少女の〈鉛〉が左、三三一五番が右に位置して、挟撃の機会をうかがっている。
背中の傷の痛みと出血で意識を保つのが難しくなる。
後ろにいる虎兵衛のことを考える。
自分が死ねば、虎兵衛も死ぬ。
ならば、絶対に死ねない。
〈鉛〉の少女が切り込み、三三一五が手裏剣を二本放つ。
手裏剣は左肩に命中し、首をかする。痛みをこらえ扇は刃を寝かせ、〈鉛〉の第一撃をかわし、第二撃の胴を狙った切り上げを靴底に鋼を仕込んだ長靴の踵で踏みつけて封じると、がら空きの胸に剣を突き通した。
左足でふんばって、右へ避け、骸と身を入れ替える。
三三一五の手裏剣が盾代わりの骸にグサグサっと四本突き刺さる。
痙攣する〈鉛〉を刃から蹴り外し、飛び道具のきれた状態で三三一五と向かい合う。
扇は喉から叫び声を迸らせ、何も考えずに順手に持ち替えた刀を振りかぶって上段から一気に襲いかかった。
餓獣の咆哮のような扇の叫び声に気負された三三一五が剣を横にし、扇の切り落としを受けようとする。
振り下ろされた扇の剣が相手の剣を断ち切り、驚愕に歪んだ三三一五の顔を両断し、そのままヘソまで切り下げ、切っ先はついに桟橋の横板に突き刺さった。
頭から真っ二つになった三三一五の骸が桟橋の左右に落ちる。
扇の手が刀から離れた。倒れないように何とか気力を振り絞って、虎兵衛のそばへ行こうとした。
そのうち、日の光が恐ろしく眩くなり、水面のきらめきが一段と強くなって膨らみ、扇の目の前の世界を、血を、剣を、そして倒れている虎兵衛を包み込んだ。
そして、自分が何をしているのか分からなくなった。
生きているのか死んでいるのかも分からなくなった。