九の七
飛騨では五年ほど前から金の産出量が上がっていて、一儲けしようと各地の山師たちが集まっている。山裾には新しい鉱山町が出来上がり、遊女や博徒の類も引きつけられて、賑やかな、だが退廃的な町が次々と産声を上げていた。
そんな鉱山町のなかでも最も栄え脹れ上がった町が〈鬼熊〉である。飛騨鉱山業界の総元締め鬼熊屋の屋号をそのまま町の名にしてしまうことからも鬼熊屋の勢威と傲岸ぶりが窺える。鬼熊は鬼熊屋の金に対する飽くなき渇望でますます大きく脹れ上がり、渡りの鉱夫や芸者、やくざたち、それに異人までがこの山間の町へと引きつけられていた。
鬼熊屋の主、徳三郎が飛騨のあちこちに所有する大きな屋敷の一つが、この鬼熊の町にある。せんが不安を感じながら眠りに落ちている時刻、鬼熊屋徳三郎はその屋敷の三十畳はある大広間で、一人の客と鶴の焼き物という贅沢な肴をつまみながら、酒を交わしていた。
羽二重の着物を着た徳三郎は今年で四十三の男盛り、鬼熊の名に恥じない強面で、昔、喧嘩でつぶれた獅子鼻の上に大きな目がぎょろぎょろしていて、いかにも好色そうな出っ張った額の持ち主で、唇を焼いた鶴の脂でてかてかさせていた。
相手の男は他所の出身らしく、黒い背広に懐中時計の鎖を垂らしていて、体つきは徳三郎と同じくらいがっしりしていたが、物腰はずっと柔らかく洗練された様子がある。面長の四角い顔に立派な白い皇帝鬚を生やして威容をつけていたので、徳三郎とさほど年齢が変わらないのにこちらのほうが十も年上に見えた。
その二人が酒を飲む、そのずっと下座の開いた襖で一人の男がヒラメのように平べったくなりそうなくらい身を低くしていた。その男は昼にガザリの里の若者から砂金を奪い取り、鬼熊屋が雇ったやくざに襲わせた荒物屋の主人だった。
「すべては鬼熊屋の旦那さまの言いつけどおりにしました」
徳三郎は荒物屋の報告を聞きながら、酒をあおった。
「あのう……」荒物屋がたずねた。「それにしても、、どうして急にここまでやることになったのでしょう? いえ、旦那さまのすることを疑うわけではございませんが、これまで、わたくしどもがしてきたことは、まあ、相場の倍の価格で塩を売りつけたり、米に砂利を混ぜたり程度で、あんなふうにすることなど、これまでありませんでした。あ、いや、本当に旦那さまの為さることを疑うわけではないんですが、ここまですると、その巡査とかがうるさく言わないか心配で、で、もし、その、よろしければ、急にここまでやることを決めたことをお教えいただければ――」
そこまで言って、ちらりと荒物屋の主人は目線を上げた。すると、ずっと向こうの鬼熊屋の目が不機嫌そうに細められていた。その目はこう言っていた――そんなこと、お前の知ったことではない。
荒物屋の主人はますます恐縮して、平身低頭した。そのうち、番頭が現われて、旦那さまはお客さまと大切なお話があるので、といって、荒物屋の主人を下がらせた。番頭は荒物屋の主人に対して、田舎町の荒物屋が旦那さまにこうして会えただけでも光栄なことだと思わなければいけないと言外に匂わせつつ、今回の報酬を一円金貨三枚で支払って、屋敷から追い出した。
褌一つで金を掘る金掘と迷路のような坑道を描いた金箔襖に囲まれ、徳三郎と洋装の男の二人だけになった。洋装の男が徳利を手に取り、徳三郎の猪口に燗酒を注ぎ、徳三郎も同じように洋装の男の猪口に酒を注いだ。二人はそれを飲み干し、心地良い温さが胃の腑へ落ちていくのを感じながら、荒物屋が来るまでしていた話を再開した。
「それで、鬼熊屋さん」洋装の男が言った。「その崖の金脈というのは、そこまでの利益が見込めるので?」
「そうだな」鬼熊屋徳三郎ががっしりと肉のついた顎を撫でながら、「年に千万円は堅い。たぶん、日本で、いや世界で最も豊かな鉱床だ。しかも、鉱脈はほとんど露出しているから、操業に金がかからん。ツルハシで砕いて、舟に載せて、川を下るだけでいい」
「それなのに、追加の融資の話を出しましたね?」洋装の男はさぐるような目を鬼熊屋に寄せた。「わたしも立場上、その用途をきかなければいけないんですよ。きいた限り、設備投資は必要ではない。かといって、無頼漢や先ほどの小物を雇うには十万円は大金すぎる。セッツ国の商工会議員たちに何と言って説明すればいいのでしょう?」
「空中戦艦を買うと伝えればいい」
「と、いうことは武力行使は次の段階へ上がるわけですか」
「何か問題があるのか?」
「去年、罷業をし鉱山を占拠した鉱夫たちをあなたは銃殺しました。あれが少々、問題でして――」
「問題というのは、それのことか?」鬼熊屋が目をぎょろつかせて驚いたふうに言った。「年に一千万円の金が出る鉱脈が手の届くところにあるのに、あんたはおれがクズどもを片づけたやり方が気に入らないなんて理由でふいにするのか? 金島さん、あんた――」
「わたしは気にしていませんし、ふいにするつもりもありません」
鬼熊屋の機嫌が悪くなっても、洋装の男――金島は落ち着いたもので、荒物屋のようにヒラメになったりはしない。なぜなら、彼は融資をする立場だからだ。彼は銀のタバコ入れからエジプト煙草を一本取り出し、それをつけた。そして、紫煙をたっぷり呑んでから言った。
「ただ、セッツ国では六代実篤の影響力が銀行業界と商工会議において非常に大きいのです。そして、賭けてもいいが、六代氏はあなたのやり口を手厳しく非難するだろうし、融資もしない、いや、それどころか、こうしてわたしがあなたと会っていることを知っただけでも不信感をもたれる」
「六代実篤? ただの若造だ。おれはあいつが母ちゃんのおっぱい吸っていたころから山で金を掘ってきた。そんなガキにおれの邪魔を――」
「お言葉ですが、そのガキは、セッツ国立銀行の理事の一人で、また自身でも鉱山開発向けの、非常に成功した投資銀行を持っていて、不平士族による二度の反乱を鎮圧して、セッツにおいて並ぶもののない名声を手に入れたガキです。加えると、大阪の造幣寮の運営に深く関わっていますから、彼の機嫌を損ねると、あなたの肝心の金を金貨にすることができない」
「そんなガキはクソ食らえだ」鬼熊屋が畳を力いっぱい叩いた。漆塗りの台の上で徳利が跳ねて倒れ、鶴の焼き物を酒で水浸しにした。「だからこそ、あんたに融資の話を持ち込んでるんじゃないか。年に一千万の利益を上げる金山の開発に関わることができれば、あんたが六代に取って代わることができる。なんといっても、商売の根本は金を儲けることだ。そして、おれとあんたはそのやり方を知っている。邪魔なやつは吹き飛ばすなり、追い落とすなりすればいい。確かにあんたは危ない橋を渡る。セッツの金を十万、理事の会議にかけずにおれに融資するんだからな。しかも、六代実篤が最も嫌うであろうこのおれに。だからこそ、あの鉱脈の生産額の百分の一をあんたにピンハネさせてやるって言っているんだ」
「勝算を一応お聞きしたい」
「別に。簡単なことだ。空中戦艦で空から弾を撃ち込んで、あの崖にへばりついた家だの水車だのを全部谷川に落としてやる。その後、無人の崖をおれの鉱夫たちが登って金を取る」
「大勢の死者が出るでしょうね」
「そして、大金が転がり込む」
金島は銀の煙草入れを玩びながら、考えた。砲弾で砕けた石の塊が老婆や赤ん坊を薙ぎ倒しながら谷川へ落ちていく。そして、そのあとに鉄の足場が崖に組まれて、彼の懐に入れるための十万円分の金を鉱夫たちが掘っていく――。
「分かりました。十万円出しましょう」
「よくぞ言ってくれた」鬼熊屋はパチンと手を打った。「戦艦はもうすぐそこで待機している。頭金に一万を支払い次第、おれのものになり、そして世界で最も豊かな金山がおれのものになる」
「ですが、一つ、気になることもあります。あなたはこれまであの金山を牛耳るためにいろいろと手を打ってきました。それが、突然、手持ちの現金が不足している時期に追加融資をさせたり、里のものを半殺しにしたりし出しました。そのように事を急ぐ理由をお聞きしたいものです」
鬼熊屋の顔が下品な笑みに崩れた。
「なに、面白いことが分かったのよ。それがな――」
鬼熊屋は金島に耳打ちした。
金島は、まさか、と驚きの声を上げた。
「それは本当なんですか?」
「間違いない。おれも知ったときは驚いたさ」
「それで、あの里にこだわるわけですか」
「そうだ。金と女。一石二鳥は確実だ」