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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第九話 せんの扇と氷水流れる崖の里
148/611

九の六

 もちろん、里が完全に他の地に住む人々と関わりを持っていないわけではなかった。タマが崇拝するタエ姉やは外の世界を見て、里に帰ってくるわけだし、また塩や米などの必需品を手に入れるために、里の若者たちは砂金や毛皮を手に山を少し降りる必要があった。

 素朴な里の住人は自分たちが豊かな金脈の上に住んでいることを知ってはいた。だが、それが里にとって全てを飲み込む大雪崩や冬眠し損ねた穴持たずの熊よりも危険なものであることを自覚するものはいなかった。豊かな金脈は常に素朴な人々の足元に現われる。こうしているあいだにもアメリカやアフリカなど世界じゅうの豊かな金脈の上に住む素朴な人々がウィンチェスター銃で武装した青服の第七騎兵隊やマルティニ・ヘンリー銃で武装した赤服のフュージリア連隊によって故郷から追い立てられ、飢え、渇き、嘆きながら滅ぼされていた。

 だから、その予兆がついにとうとうガザリの里にも現れたとき、人々は突如出現した悪意にただ驚き、戸惑い、なすすべを知らなかった。

 せんが里に落ち着いて一週間が経ったある夕刻前、二人の若者が怪我をして帰ってきた。一人は足をやられたらしく、もう一人が肩を貸していた。二人とも唇が切れ、目は青く腫れ、破れた衣を何とか結びなおして、よろめきながら戻ってきたのだった。すぐに薬草師のお婆がやってきて、二人を手当てした。二人の若者――平助とジン坊はその日の朝、里に必要な米と塩を買いに山を降りて麓の町へと行った。里ではそうしたものを買うのに砂金を使っていて、平助とジン坊もむき出しの鉱床から必要なだけの金をとって、谷を下っていったのだ。

 ところが、町で物を買う段になって、荒物屋は砂金を奪って、約束の塩と米を渡すことを拒み、それどころか荒くれ男をけしかけて、こっぴどく殴ったのだった。

「こんなひでえこと、誰がやっただ?」

「何でも、鬼熊屋おにぐまやの連中らしい」

 里のみなが口を閉じ、寄り合いのお堂に重苦しい空気がたちこめた。鬼熊屋はこのあたりで鉱山を経営している大商人で、以前からガザリの里に興味を持っているようだった。これまでもささやかな嫌がらせがあった。塩に砂利を入れたり、米に雑穀をまぜたり。だが、こんなにひどいことは初めてだった。だが、鬼熊屋は鉱山で儲けた金で自分のための軍隊をつくり、山の麓の町をいくつも自分の意のままにしていた。ガザリの里の人間はそれは山の外の話で、この谷には関係のない話だと思っていた。

 だが、今日、平助とジン坊がこんなふうにやられたことで、どうやら鬼熊屋は里がいつも使っている町も支配下に組み込んでしまったことが窺えた。

「でもよ、いくら鬼熊屋でも、ここまで大勢で登ってくるのは無理だべ」

「んだな。そりゃあ無理だ」

 だからこそ、里が塩と米を買っている町を鬼熊屋が支配下に組み込んだのだ。それに気づかないほど里の人間は世間知らずではない。里の鉱床は金や銀、白金は出ても、岩塩がない以上、塩はよそから手に入れるしかない。だが、また若者を送っても、きっと同じような目に遭うのが目に見えていた。

 誰かが町に行く必要があったが、男たちは尻込みした。巨大な熊やイノシシ、急な天気の変化で轟く雷や吹雪、目も眩むような崖に勇敢に立ち向かう男たちも、町という場所の得体の知れなさを恐れた。

 すると、小さな手が一本、ひょいと上がった。

 それはタマの手だった。

「おらが行くだ。長の娘として、行かねばならねえ」

「そりゃあ、いかん! それならわしが行く!」

 そう言ったのは父の忠吉だったが、タマは首をふり、頑として譲らなかった。

「おっとうは里の長だべ。もしものことがあったら、大変だ。でも、おらなら大丈夫だ。まさか、こんな女子に手を上げるような情けねえ男もおるめえべ。それにおらにはこれがある」

 タマは背に負ったポルトガル伝来の火縄銃をサッと前に持ち変えた。

「でも、駄目だ。絶対に行かせられねえ」

「それがしはよいと思う」

 新右衛門が言った。お堂に集まった里のものの目が、タマも含めて、新右衛門を見た。細いが引き締まった体つき、長い髪を昔風に高く結い上げたこの若い侍は凛々しい顔を引き締めて、もう刀と脇差を差して立ち上がっていた。

「余所者が口を挟むことではあるまいが、しかし、タマどのの心意気を汲んであげることも大事だと思う。それにタマどのにはそれがしも付いて行こう」

 そのとき、新右衛門のそばで手が挙がった。

「おれも行く」

 せんが刀を差したベルトを腰に巻きながら言った。

「ここには世話になっているし、その子には命を救われた。恩返しがしたい」

 里の男たちはざわついた。小さな女の子と二人の余所者だけを行かせることは男が廃ると思ったのだろう。こうなったら、みなで行こうという話が持ち上がったが、新右衛門が首をふった。

「事が大きくなるのは向こうの思うツボでござる。相手は里を我が物にするためにこのような挑発をしたのだろう。だが、それがしとここにいるせんは余所者ゆえに動きもしやすい。ここは我らにお任せいただきたい。こうして見送ることもまた勇気のいることでござる」

 こうして話は徐々にまとまっていき、タマと新右衛門、そしてせんは翌朝も早くに谷を下り、もらうべき塩と米を得るために町へと行くことになった。

 夜、タマの家の寝間に布団を二つ並べて、寝間着姿のせんと新右衛門は眠ろうとしていた。

 だが、せんは眠れなかった。初めは誰かと戦い、自分が傷つくことを恐れているのだと思っていた。だが、だんだん恐れの正体がはっきりしてくると、せんは息苦しさを覚え、震え始めた。

「眠れぬのか?」新右衛門がたずねた。

「人を殺すことになるかもしれない」

「まあ、そうなるやもしれぬ。道理を説いて相手が納得すればよし。せなんだら、そのときはそのとき」

「人を殺すのが怖い」

「それは普通の考えだ。それがしも怖い」

「違う。違うんだ」

 せんは苦しげに言った。

「人を殺したら、何かが変わってしまうような気がするんだ。それもいい方向にではない。悪いほうへと傾く気がする。おれは怖い。おれはひょっとして記憶を失う前、大勢の人間を手にかけたのかもしれない。おれは――」

「落ち着きなされ、せんどの」新右衛門が言った。「確かにわ殿が熊を屠った身ごなしは尋常ならざるものがあった。だが、大切なのは今であろう? せんどのはタマどのにそして里の人々に恩返しをしたいと思い、義挙に出た。それだけで十分ではござらぬか? それにできるだけ、人死にがないように、それがしも努めるつもりだ。新当流の剣はやたらと人を斬るためにあらず。これで落ち着かれたかな?」

「……ああ。すまなかった」

「なに、よいこと。それではもう眠ろう。明日は早いからな」

 少しすると、新右衛門の静かな寝息が聞こえ始めた。せんも不安から逃れようと目を閉じ、やがて眠りに落ちていった。

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