九の五
せんは相変わらず自分がどんな人間だったか思い出すことはなかった。だが、どうやら自分は普段から体を使っていたらしいことは分かってきた。イノシシ鍋ですっかり体力が回復したせんは、もう翌朝には新右衛門と一緒に薪割りをしたり、水車を運ぶ若者たちに混じって汗を流したりしていた。新しい水車を設置された小屋では老婆が焼いた労いの餅が出され、その香ばしくふくれた餅をはふはふとやりながら食べた。
タマや他の子どもたちは「岩魚比べ」という遊びをしていた。捕まえた岩魚を流れが急な小川に放して、誰の岩魚が一番早く滝を上るかを競うのだが、せんや新右衛門にはどの岩魚もおなじ錆色の背をした岩魚に見えていた。だが、子どもたちは一目で自分の岩魚を見分けることができた。岩魚が泳ぐ川は階段を五十段は上る急で長い流れで子どもたちはその階段をわあわあと上りながら、流れに負けず、上を目指す岩魚を応援した。そして、岩魚が滝の上の水溜まりまで泳ぐと、それで競走は終わりで、その後、岩魚たちは串を打たれて、そばの家の囲炉裏で焼かれて、子どもたちのおやつとなるのだった。
その日は雲が低い位置を飛んでいた。里の上のほうにある家の屋根を白く凝縮した雲がかすり、雪が跳ね返す陽光のきらめきをその腹に浴びながら、連なる峰の岩棚にぶつかっていった。雲が壊れたような重い轟音が響いたが、それは峰の向こうの谷に雷雲が生まれ、泣き声を上げているからだった。空に近い場所で生きる人々にとって、雲は空と山の機嫌を移す鏡だった。雲のほどけ方一つで明日の天気が分かったし、町がある山裾を覆う灰色の雨雲を眺めれば、山を下るときにどの道が通りにくくなり、どの道が逆に通りやすくなるかが分かった。
記憶を失ったものが再出発するのにこれ以上いい場所はなかった。何もないところから思い出を作れば、この地の険しさと優しさがその心を占め、そして、世界全体がそうした険しさと優しさの二面性の上に成り立っていることを理解することができるからだ。麓の町は栄えてはいるものの、険しさばかり、あるいは優しさばかりで、人の五感を鈍らせるか、あるいは心をひどく冷たいものにしてしまうのだ。
「ちょいと来てくれろ」タマよりも小柄な男がせんを呼んだ。新右衛門と木刀で打ち合って、ちょうど一休みしたところだった。ひどく疲れていたのに、かっかと紅潮した体からは白い湯気が立っていて、このまま鳥のように跳んでいけそうな気がした。
「手伝いでござるか?」諸肌脱ぎの新右衛門が細く筋肉質な上半身を氷のように冷たい水でぬぐりながらたずねた。
「そうじゃ。わしでは手が届かんでな」
小柄な男が二人を案内したのは小さな洞窟だった。洞窟というよりは岩肌に開いた窪みで大人が五人も入れば、窮屈で動きが取れなくなるほど浅い窪みだった。その窪みのなかではピカピカ光る黄金があちこちで剥き出しになっていた。まるで精製した金をわざわざ岩のなかに埋め込んだようなその景色は幻想的だった。事実、金を目当てに穴を掘るものたちはこういう光景を夢に見ているのだ。
「もうじき若いのを町のほうへ買い物に行かすでな。あの上のをちっとばかし砕いてくれろ」
小柄な男が指差したのは熊の手のひらくらいありそうな黄金だった。それはざっくりと裂けた岩から盛り上がっていたのだ。鉄の鏨と金槌を取ったせんは黄金の付け根に二度ほど鏨を打ち込んで、深い亀裂を入れた。その後、せんは金塊そのものを金槌で叩いた。二つのヒビがつながって、大きな金の塊はごろりと落ちてきた。
「ありがとうよ」
小柄な男は懐から小さな鏨と金槌を取ると、金をほんの少し削って、結び紐に磨いた木の小さな玉をつけた小さな巾着袋に入れた。
「残りはどうする?」
残りの九割を指差して、せんがたずねると、小柄な男はにまあっと破顔して、
「そのままにしとけば、ほしいやつが勝手に持ってくだ。おらが欲しいのはこれだけだ」
金に対して、里の人間は淡白だった。こうした金の採掘場は里のあちこち――合計で十三箇所もあった。だが、里のなかでへとへとになるまで金を掘ってやろうと思うものはいなかった。おいしい食べ物のためにへとへとになることはあっても、それ以外のことではへとへとになるつもりはないようだった。里の人々はへとへとの重労働はうまいもので報われるべきだと思っていたのだ。
それに里には政治家というものがいなかった。タマの父の忠吉は里の長だが、それよりも前に腕のいい大工であり、一晩中餅をついても疲れない頑丈な体を持っていた。人々の利害を調整するとか、租税について論議することはなく、そのお人よしさで里から慕われて、長になったのだ。お産で妻をなくしたが、それでも立派に娘を育てた。タマは腕のいいイノシシ撃ちになり、タマがイノシシを撃った日には大勢が集まって、一つの鍋からイノシシを食べるわけだが、言ってみれば、これはこの里の議会にあたる。普通の議会は議会開場を国家元首が宣言して始まるが、ガザリの里ではイノシシを撃った銃声が谷にこだましたときに始まるのだ。大人たちは鍋を囲みながら、今度はどこそこの水車を修理しようとか、寺小屋にもっと子どもが入れるようにしようとか、山刀はあとどれだけ欲しいか、といったことを話し合った。
金のある窪みから階段を上って、きちんと防寒着を身につけると、里の最上部――崖の上の雪原へと登っていった。タマが蜜を取るのを手伝って欲しいといっていたのだ。雪原の見晴らしのよい台地があった。その背後には枝にふっくら雪をついたため、全体が包帯で腕をぐるぐる巻きにされたように見える森があり、その上には山棚に刻みつけられた氷河が青と白の冴えた色を放っていた。
「おうい、こっちだっぺ」
タマが台地のてっぺんで手をふっているのが見えた。せんと新右衛門は藁沓に突っ込んだ足を雪から引き抜きながら、何とかタマのいる森の入口までくることができた。
「これから蜜を集めるだ」タマが言った。
「蜜?」
「この森から樹液を集めて煮つめると甘い蜜ができるんだべ」
「それでどれだけ集めるんだ?」
「この森全部だべ」
葉の落ちた甘葛楓の森は静かに息づき、武器を手にした兵士のように待ち構えているようだった。せんと新右衛門が見る限り、森は台地の裾まで広がっていて、その果ては雪の光で眩んでよく見えなかった。そして、そこで初めて、二人はそばに大きな桶を載せた橇があることに気づいた。
甘葛楓の幹には鉄製の管が刺してあり、樹液はその管から吊るした桶へと落ちるようになっていた。樹液は一月の初めと二月の半ば、そして、四月の初めに取ることになっていた。一度の採集で里の人間全員分の甘味を賄うことができた。三度の採集のなかでも一番甘いのが、この一月の蜜であり、一番蜜と呼ばれていた。
木に刺さった桶には雪が入らないようにきちんと蓋がしてあって、蓋を開けてなかを覗くと、焦げ色が薄くのった樹液がたっぷり溜まっていた。樹液は里を流れる水のようにさらさらしていて、これを二十分の一になるまで煮つめると、とろりとして甘い蜜になるのだ。
せんと新右衛門はあっちこっちへ桶を載せた橇を引き、甘葛楓から樹液を取っては大きな桶に中身を開けた。そして、桶がいっぱいになると、煮つめるための小屋へと運んだ。薪小屋と並んで建つその小屋は樹液を煮るための小屋で男が二人、切った石を敷いた露台に薪を組んで樹液を待っていた。
「お、タマ。今年は男手がおるけ、樹液集めも楽でいいのう」
「えへへ。ちょっとばかし甘え過ぎたべ」
「そのようなことはない。こうしているといろいろ学ぶことも多い」新右衛門が言った。「実をつけぬ木にこれだけのものが獲れるとはまったく知らなんだ」
「蜜は外に出ないでな」小屋で火の用意をしていた男が言った。「みんな里で使っちまう」
それからタマの案内と陣頭指揮でせんと新右衛門は蜜集めを続けた。桶がいっぱいになったら、小屋の鍋に樹液を流し込み、また樹液を取りに行く。集め終わったときには日が暮れかけていた。最後の樹液を鉄鍋に流し込む前に男たちは煮つめている液を木さじですくった。そして、それを外の雪の上に三つほどたっぷり垂らした。
「だいぶ煮詰まって甘くなってるだ。雪で凍らせた蜜はうめえぞ」
煮つめた樹液は不思議なことに色はあまり変わらず、薄い焦げ色のままだったが、だいぶとろりとなっていた。熱い蜜を垂らした雪はしゅうしゅうと白い煙を出して溶けていき、蜜はどんどん雪のなかへと沈んでいった。だが、そのうち白い煙が出なくなり、何の音もせず、蜜も沈むのをやめたころにはすっかり冷えて固まっていた。
「さ、食ってみるべ」
タマに促され、せんと新右衛門は冷えて固まった蜜を口に入れた。凍った蜜はとても甘く、シャリシャリと軽い歯ごたえがあり、馥郁たる香りで口のなかをいっぱいにした。それは六時間ほとんどぶっ続けで森じゅうを橇を引いてまわるだけの価値のあるものだった。金を六時間ぶっ続けで掘り続けてもこの嬉しさと安らぎは得られないだろう。
「半次郎が喜びそうだ」
せんはそう言った。
タマと新右衛門はポカンとした。
「せんどの。その半次郎とは、いかなる御仁で?」
今度はせん自身がポカンとしていた。
「それが……分からない。でも、気づくと勝手に口に出していた」
「きっとせんの記憶が戻り始めてきたんだべ」タマが言った。「山の神さまが蜜を集めたご褒美をくれたんだべ」
記憶が戻りかけている? せんはもう一度先ほどの言葉を思い出した。記憶を失う前に見知っていた半次郎という人物は甘いものが好きなのだろう。どうやら、記憶は失われたわけではなく、せんの脳裏のどこかでひっそり甦るのを待っているのかもしれなかった。
だが、記憶が残されているのは脳裏だけではない。その四肢にもしっかり〈記憶〉が残っていた。
三人とも注意が散っていたので、熊が近づいていることに気づかなかった、というよりも山で人間が熊を出し抜くことがそもそも無理なのだ。だが、小屋の裏手の小さな丘から熊が現れたとき、せんは右手でタマをつかんで引っぱり、後ろにいる新右衛門のほうへと突き飛ばした。
熊が害意を持っているのは明らかだった。冬眠に失敗し、腹を空かした寝不足の熊は七十貫はありそうな巨体だった。その熊を前に扇は身を低くして走っていた。左手で刀を逆手持ちに抜いて、熊が振り下ろした前足を左へかわすとそのまま身を巡らせて、熊の肩に乗り、熊の首の付け根に刃を刺し、右手を添えてひねった。
熊が現われて屠られるまで、十秒となかった。熊がうつ伏せに倒れ、毛が萎えていくので、もうこの巨大な獣が息絶えていることが分かった。
せんはハッとして、刀を刺したまま熊の体の上から降りた。
既に抜刀していた新右衛門と、突き飛ばされた勢いで尻餅をついていたタマを見た。二人とも驚いていたが、それは熊ではなく、せんの体に甦った、殺すための流れるような動きに対する驚きだった。