九の三
翌朝、太陽が姿を見せ、谷間に光の洪水が押し寄せた。雪も水も谷底の川も命を得たように輝いた。里のものは日が昇る前の、青く薄暗い水の底のような時刻から起きていて、仕掛けた罠を見に行くものもあれば、崖に開いた浅い坑道に入って、むき出しの金の鉱床から必要な分だけの金のかけらを砕いてとって、山裾へ塩と米と引き換えにすべく旅立つ男たちに渡すものもいた。
まばゆい光は里長の家にもあたり、油紙の障子を明るく染めた。若者はまた目を覚ました。目を覚ますと、若者の枕元には若い侍が一人、折り目正しく膝を揃えて座っていた。
布団が舞い上がって若者の体が跳ねた。横になったままの態勢から三間の間合いを開けて、背中を壁にぴたりとつけて立った。その手には壁にかかっていた山刀がいつの間にか逆手持ちで握られていた。目はおびえた動物のように見開いていて、まるで狩人に囲まれた狼のように左右をうかがっている。
侍は何も言わず、若者の無駄のない動きを見ていた。
沈黙が続いた。若者の目が侍の目とぶつかった。お互いの目と目は同じ紐でくくられたようにかち合い、火花が散りそうだった。
「……あんたは?」若者が低い声でたずねた。
「それがしは塚原新右衛門高遠。わ殿と同じでこの里長の家に厄介になっている廻国修行中の武芸者だ」
「武芸者?」
「ああ、そうだった。記憶がないそうだな」
「おれは……」
「タマどのがいうには、わ殿の名は、せん、と申すそうだ」
「タマ? せん?」
「タマどのはわ殿をここまで運んでくれた少女の名だ。記憶がなくなってもまた新しく物を覚えることはできよう。タマどのの名。ゆめゆめ忘れぬように。タマどのがおらねば、いまごろわ殿は凍りづけだ」
「……」
「そして、これも覚えておかねばな。わ殿の名はせんという。うわ言で、おれはなまりではない、せんだ、と言っておったそうだ」
「せん……」
「しかし、こうして見ると、わ殿も相当の武芸をやると見える。今だって気づいた途端、飛び上がり、それがしの間合いから外れ、武器を手にした。この手の動きは一朝一夕の鍛錬で身につくものではあるまい。それになかなかの得物を使う」
新右衛門は、見てもよいか、と若者――せんにたずねた。せんは、それが自分のものなのかも知らなかったが、ただ、素直にうなずいた。新右衛門はせんの刀を手に取った。刀は部屋の出っぱりから革の装具でぶらさがっていた。若侍は刀を鞘から抜き、その刃文を読んだ。
「ふむ。見事な玉垣刃。南蛮鋼の是永か」
「おれは武芸者なのか?」
新右衛門は刀を鞘に戻し、それは分からぬ、と答えた。
「そこにわ殿の着ていたものがあるが、武芸者というよりは忍びの好みそうな衣服だ。それに――」きちんとたたまれたせんの服をさわり、黒い上衣の袖から一本の棒手裏剣を引き出した。「これは戦国の世ならともかく今の時勢、これを使う武芸者はそうはいない」
「じゃあ、おれは何者なんだ?」
「それはこちらがききたいこと。わ殿は本当にここへどうやって来たのか覚えておらぬのか?」
「分からない……考えても、思い出せないんだ」失う前の記憶の代わりに優しく撫でながらかけられた声がふと甦った。「そうだ、おれを助けてくれた、そのタマという娘は……」
「わ殿に食べさせるとイノシシを狩りにいった。弱った体にはイノシシ鍋が一番だと申してな。夕暮れまでには帰ってくるだろう。さあ、起きて、手伝え。病み上がりとはいえ、ゴボウを切ることくらいは出来よう」