九の二
里は鋭く切れ込んだ谷にへばりついていた。三十丈ほどの高さのガザリと呼ばれる崖があり、そのほとんど垂直に近い急斜面を上の雪原の入口から下の暗い谷川まで家々が杉材の骨組みに支えられて建っていた。家と家は階段か、小さな広場、からくりで動く昇降床でつながっていた。というのも、ガザリの崖は幾十筋もの水が流れていて、里の家はみな――少女の家も、まじない師の家も、鍛冶屋も、カラクリ師の店もその流れの上に立っていた。羽根飾りのように震える細い流れ、水草や鱒が棲む太い流れ、滝のように落ちて岩を打つ激しい流れ。それら全てに水車をかけて、暮らしに役立つあらゆるカラクリの原動力にしていたのだ。それに里の人々は崖に吹く風もまた粗い布を張った風車で捕まえて、利用していた。こうしたカラクリはみな木で出来ていて、鉄は少しも使われていなかった。
少女が謎の若者を里の一番上の回廊に運び込むと、大人たちが手伝って、崖の中腹で二つの細い滝のあいだにある少女の家へ連れて行った。すぐ里の薬草師が呼ばれ、毛皮で着ぶくれた老人が少女の家にやってきた。
「運のいい小僧だべ」薬草師は少年の容態を見て、手足を確認し、呼吸の強さを感じた。そして、不安げにしている少女に笑いながら答えた。「雪に完全に埋まっていたので助かっただな。雪んなかは人が考えるよりもあったけえでな。下手に表面で頑張るよりもそっちのほうがずっとええんじゃ。凍傷も見当たらん。少し衰弱しておるが、布団でくるんでやれば、そのうち目を覚ますっぺ」
「しかし、変なこともあるもんだべ」里の長である少女の父親が太い腕を組みながら、首を傾げた。「上の雪の原にはここを通らないといけねえはずだべ。そんなのに、おらたちは誰もこんな若いのが通ったのを見たことがねえと来てる。まるで、空から降ってきたみてえではねえだか」
「そういや、おっとう」少女が言った。「そばに変な鉄のガラクタが落ちてたべ。それと何かつながってるんじゃねえだか?」
「そうかもしれねえなあ」少女の父親は暢気に言った。「まあ、気がついたら、きけばいいべ」
それから大人たちは少女が見つけたという鉄のガラクタを取りに出かけていった。つぶして鍋や簡単な刃物をつくるのだ。少女はというと、まるで拾ってきた狼の子を育てるように若者のそばで付きっ切りになっていた。ときどき、苦しそうに呻くと、少女は手をさすってやり、子守り唄のように優しい言葉をかけてやった。
「心配ねえっぺ。ここにいりゃあ、もう安心だべ。里のみんなは優しいだでな。いたけりゃ、雪解けまでいても、誰も文句は言わねえだ。里は客人を歓迎するのが慣わしだべ。今だっておらの家には若いお侍がいるんだべ。何でも剣の修行だっちゅうて、えらく張り切ってる人だ。目が覚ましたら、話してみるっぺ。きっと面白いでよ」
ときどき、少年は悪夢にうなされているのか、おれはなまりなんかじゃない、せんだ、とつぶやいた。
「せん。それがおめさんの名前け?」少女は若者の額の汗を拭いながら言った。「でも、せん、のあとに何かつくんじゃねえのけ? せん、太郎。せん、吉。せん、ノ丞。せん、助。せん、蔵。まあ、ただのせんでも別におらはいいだよ。今はゆっくり体を休めるだべ」
やがて、外が騒がしくなってきた。大人たちが帰ってきたのだ。鉄のガラクタをその場でバラバラにして鋳物屋に持ち込もうとしているようだったが、男たちのほとんどはつぶすのに燃やす薪がもったいないといって、そのままの形でつっかえ棒や吊るし鍋にしているようだった。こんなふうに里のものが集まって、何か一仕事すると決まって酒を飲むことになっていた。少女の父もしばらくは戻ってこないだろう。
「男衆はすぐこれだっぺ。なんかしらあると、すぐに宴会を始めて、次の日には気持ち悪くなってゲーゲー吐くだ。でも、おめさんはきっと違うだでな。あの若い侍と同じでかしこそうな男前だべ。まあ、ちょっと細い気もするけれど、里に生まれていたら、きっともてたべ。ああ、おら、何を言ってるんだろう? すまんこっちゃ」
額に浮いた汗を拭いてやろうと手巾を近づけると、若者の閉じられた瞼がぴくっと動いた。少女はハッとして息を飲んだ。瞼はゆっくり開き、鳶色の目がまっすぐ屋根の梁を向いたまま現れた。
「ひゃあ! 目が覚めたっぺ!」少女ははしゃいで声を上げた。「よかった、よかった! ほれ、おらの言ったとおりだべ。少し休めば、大丈夫だって」
少年の目が少女のほうを向いた。そして、顔がゆっくり倒れるように横を向くと、少女の嬉しそうな顔へ目がいった。
「……ここは?」
かすれた声で若者がたずねた。
「ここはガザリの里だべ」
「ガザリ?」
「そうだべ。飛騨の奥だ」少女は言った。「おめさんは雪の原にへんてこなガラクタと一緒になって倒れてただ。おめさん、どっから来たんだべ? あそこにはこの里を通らないと行けないはずだけんども――」
「……わからない」
「わからない?」
「わからないんだ」
少女の喜びが少し引いた。ひょっとしたらと思って、どこから来たか、どんな生業をしているのか、そして、名前は何というのか、たずねた。だが、少年は気を失っていたときのように苦しげな表情で首をふりながら、
「分からない。何も分からないんだ。おれは、いったい誰なんだ……ここで何を……」
少女は若者の頭をまるで母親みたいに撫でてやった。まるでこうして撫でれば全てを思い出すかのように。体が休息を求めているのだろう、若者は弱々しく息を吐くと、また眠るように気を失った。