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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第九話 せんの扇と氷水流れる崖の里
143/611

九の一

奥飛騨の険しい山の里に住む少女タマは珍しい機械を見つけ、そのそばで気を失っている少年を見つけ、手当てする。少年は無事意識を取り戻したが、少年は自分の名前以外の何も覚えていなかった……。

 そこは世界で一番清らかな水が流れる場所だった。水は奥飛騨の連峰のなかでも最も高い山頂の泉から凍りつくことなく流れてくる。空一面が曇って連峰が隠れるような日だとその水はまるで天からの贈り物に見えた。水はしばらくのあいだ空気と岩以外の何にも触れず、雪の白と崖の黒だけの、ただ陰影だけを残した世界を流れていく。流れは幾筋にも分かれて落ちるような速度で流れていく。そうした滝のなかには、その水があまりにも清らかなので、山裾から風が巻き上がって、水が霧状に吹き上がり、またもといた天へと戻されていくこともあった。水は空中で氷の粒となって、空へと昇っていき、まるで彼らを迎い入れるためのように雲が避け、差し込む陽光できらきら輝きながら、雲の上の世界へと戻っていった。

 この数十年、世界は石炭を燃やして発展する道を選んでいた。そして、それは拡大していた。いずれ、その煤煙がこの神域を穢すことになるだろうが、それは少なくとも今ではなかった。何も知らない水は岩肌をつたい、切り立った山腹から流れ落ちたり、岩にぶつかって気持ちよく砕け散ることができた。

 谷が氷と崖の横腹を見せて、穂高岳ほだかだけが手の届きそうなくらい近くに横たわっているように見える場所があった。そのうち低い場所は葉の落ちた黒い枝の森で、逆に高いほうは降ったばかりの雪がこんもりと盛り上がっている高原だった。高原の入口に種子島を背負った少女がいた。少女はなめしていない革や綿をたっぷり入れた着物ですっかり着ぶくれていたが、そのまるっこい見た目に反して、すいすいと柔らかい雪の上を移動した。足に卒塔婆のような板を縛りつけていて、棒で雪を掻くように突いて、前へ進んでいた。息が吐いたそばから白い凍りついて落ちていくような朝だった。少女の頭のなかは正月に腹いっぱい食べた雑煮と戻ったら食べる汁粉のこと、もうじき帰ってくるタエ姉やのことで頭がいっぱいだった。タエ姉やと呼ぶが、少女とタエ姉やのあいだに血のつながりはない。だが、ガザリの里の少女たちはみなタエ姉やと呼んだ。里で一番きれいで、きっぷがよく、イノシシの罠つくりがうまいタエ姉やは里の少女たちみんなの姉やだった。タエ姉やは外の世界へ出稼ぎにいっている。送ってくるお金と一緒に里の世界のことを手紙で知らせてくれる。だが、正月が明けて間もないころは出稼ぎ先から帰ってきて、みんなのタエ姉やになる。タエ姉やは一週間くらいしかいられない。だから、タエ姉やの帰ってきた日には子どもたちはみんな里でタエ姉やを囲んで、話をねだったり、イノシシを撃ちに行ったりする。タエ姉やは美人だから、帰ってくると子どもたちだけでなく、大人たちまで表情が綻び、里がぱあっと明るくなる。大人たちはタエ姉やがいると、薪を派手に使うので温かくなるし、岩魚いわなを焼くときには貴重な塩をたっぷりふるし、あの気難しいゴン爺ですら目尻を下げるのだ。

 少女はがその心を憧れと楽しみで満たしていたとき、白く輝く高原に黒い何かがポツンとあるのを見かけた。熊やイノシシではないらしいがそれが何なのか、少女にはよく分からなかった。このまま放っておけば、おそらく夕方ごろに降る雪に埋もれて、それは見えなくなるだろう。ひょっとしたら、何か危ないものかもしれないが、好奇心に勝つのは難しかった。少女は突き棒を背中にまわして、代わりにそれまで背負っていた種子島をぐるりとまわして体の前に持ってきた。そして懐から硫黄を塗った杉の薄片に火打ち石を打って火種をつくり、火縄に火をつけた。白い煙が音もなくするすると上がる種子島を構えて、足に結んだ長い板を八の字のようにして、のしのしと見慣れぬものへ近づいていった。まず見慣れぬものの一番上についている奇妙な十文字の羽が見えた。風車に似ているが、里の風車よりもずっと小さく、これでは里で一番小さな臼でも回らないだろう。その風車の出来損ないの下に鉄のかたまりがくっついていた。細い管のような鉄や釜の蓋のような鉄、水車のような鉄がかたまって円柱をなしていて、それが下半分を雪に没する形で斜めに突き出ていた。

 少女は火縄を銃から外して手にぐるぐる巻きにして、種子島を背負いなおし、あらためて、この鉄のガラクタを見つめた。こんなへんてこなカラクリは始めてみた。ガザリの崖を流れる水や風を利用するためのカラクリとは似ても似つかない不細工なカラクリだ。だが、これは鉄でできている。鋳つぶせば、いろいろなものを作ることができる。鍋でも釜でも何でもござれだ。

 この重い鉄のかたまりをどうやって里に持ち帰るか、少女が考えているとき、一本の縄が鉄のわっこに縛りつけられているのを見つけた。引っぱってみると抵抗があったので、その縄の先には何か結ばれていることは間違いなかった。

「こりゃあ、何かいいもんがあっかもしれねえだ」

 少女は頬を上気させ、綱を握り、雪を掘った。

 もうすぐだと思って、雪を掻くと、人の顔が出てきた。

 ひゃあ、と少女は魂消た声を上げた。

 おそるおそるその顔を見ると、真っ青だが、顔の造作がきれいに整った少年のものであることが分かった。少女から見れば、青年といっていいくらいの歳だ。

 一度は驚いた少女だが、遭難者の死体に出くわしたのはこれが初めてではない。ときどきガザリの里には赤ら顔に赤い鬚の異人がやってくることがあった。その異人は変わり者で、世界中の山を登りまくっている。通訳を介して言うには、登るのが辛ければ辛いほど登りたいのだということだ。そして、その異人と通訳が半年経っても戻ってこず、ふと雪解けの季節になって、二人仲良く氷づけになって見つかることがよくあるのだ。

 少女は突然の死人にドクドク打つ胸が落ち着くと本当に死んでいるかどうか確かめるために、少年の口元に耳を寄せた。ぴったりくっつくくらい耳を寄せると、かすかだが呼吸の音がきこえてきた。

そこからの決断は早かった。時間と勝負するつもりで雪を掻き出して、少年を何とか雪のなかから引っぱり出した。伸びた猫っ毛を後ろで束ねていて、襟が首をぴったり覆う黒い上衣と灰色のズボン、そして、腰に刀を差していた。

 少女は自分を包んでいたカモシカの毛皮を剥いで、それの上に少年を引っぱった。カモシカの毛皮はいざというときに行き倒れを運べるよう工夫がされていて、橇のかわりになった。二つの穴に縄を通して、それを少女の腰に結べば、非力な少女の力でも大男を運んで雪の上を移動できる。

 縄は鉄のかたまりと少年をつないでいたものを使い、斜面をゆるやかに下ることにした。少年の容態を考えれば、急ぐべきだが、急な直滑降で速度を制御できず、二人団子状になって谷底へ真っ逆さまに落ちるのはぞっとする。

「う……」

 少年の呻きが聞こえた。

「安心すっぺ。おらが助けてやっからな」

 少女は腰に縄を結んで、カモシカ皮に乗った少年と一緒に高原を滑り降りていった。

ちょっと方言の使い方がいい加減ですが、飛騨弁ではどうも雰囲気が合わなかったので、このようにしました。

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