八の十二
傷は浅く、毒も塗られていなかったので、時乃の肩の負傷は軽くで済んだ。
ヤマトの機関が舞を狙ったのはある意味で虎兵衛を守るためだった。野放しにした状態の舞がまかり間違って虎兵衛が殺せば、きっと厄介な状態になると判断して舞の抹殺を図ったのだ。
扇は知らなかったが、ヤマトではかつての〈鉛〉である扇がセッツの六代実篤、トサの坂本竜馬といった西国上方の有力者とつながりがあるという事実が思ったよりもヤマトの独裁者たちに危機感を抱かせていた。どこまでのつながりかまではつかめていなかったが、虎兵衛の死がセッツ国とトサ国とのあいだに不和を持ち込む可能性が捨てきれない以上、野放しになった舞を始末するのが上策と判断したらしい。
だが、虎兵衛はといえば、ヤマトが舞を狙ったことについて、自分が狙われたときよりも憤っていた。
「ヤマトの連中は見下げ果てたやつらだな。歳の暮れでなきゃ、やつらの頭の上に飛んでって、爆弾の雨を降らしてやるところだ」
だが、もう舞は〈鉛〉ではなくなっていた。結局、一連の騒動の末、ヤマトには二人目の〈背信者〉を作り出したという惨めな失敗だけが残った。
十二月二十日。午後五時。提灯を手に和装に裁着袴の扇はコスモポリタン・ホテルの前にいた。ただし、今回は給仕兼皿洗いではなく、レストランの客である。寿もついてきている。提灯の火を吹き消して、ガラス扉を開け、カウンターにいた時乃に軽く挨拶する。時乃はレストランのある左手の部屋を指差した。
メイド服姿の舞が二人の職人の給仕をしていた。扇と寿が厨房に一番近い席に着くと、舞がやってきた。
「やあ、舞ちゃん」と寿が顔を綻ばせる。
「何の用?」やや無愛想に舞がたずねた。
「キミがしっかり働いてるか見に来たんだよ」
あれ以来、舞はコスモポリタン・ホテルで従業員兼用心棒として暮らしている。時乃曰く、ホテルには人を育てる力がある。今度は自分が関介の役割を負う番だと言ったらしい。とはいっても、コスモポリタンの売りは静かな安らぎの空間であるから、用心棒としての腕を奮う機会はまずないだろう。
「それに食事だ」扇が言った。「このチキン・クロケットをくれ」
「それはディナーよ」
「ディナー?」
「夕食用ってこと。六時まで出ない」
「でも、品書きにのってるだろ?」
「別のを選んで」
「じゃあねー」と寿。「チョップハウス・ステーキとベイクド・ポテトをお願いするよ」
「それもディナー」
「わあ、おれたちが食べたいものは全部ディナーってわけかい?」
「ステーキ・サンドを二人前」扇が言った。
「それならできる」
舞が厨房へ消えると、寿が、ふふん、と笑った。
「何かあったのか?」
「なんでもないよ、扇。ときどきね。思うんだ。こうして、ただ息吸って、吐いてるだけでも幸せだなあって」
「何か変なものでも食ったのか?」
「ひどいなあ。まるでおれが犬みたいじゃないか」
「神さまも腹は減るんだな」
「別に食べなくても生きていけるけど、食べられるなら食べたい。それって、とても人間っぽいからね」
舞がステーキ・サンドを持ってきた瞬間、暮れ六ツを知らせる鐘の音が聞こえてきた。
「あーあ、もうちょっと遅ければ、ディナーが食べられたのに」
「だが、ここのステーキ・サンドはうまいって大夜とすずが言っていた。まあ、あいつらにしてみればみんなうまいんだろうけど――今度はどうした?」
寿は女給として、せっせと働く舞をじっと見ていた。そして、目線を舞のエプロンの結び目あたりに向けたまま、
「こうしてさ、〈鉛〉がやってくるたびに、世界が広いこと、自分を拒んだりしないこと、そして――とにかくいろいろなことに気づいたら……」
「気づいたら?」
「最高に素晴らしいことだよね」
「それは結構だがな」扇はステーキ・サンドに噛みつき、もぐもぐやり、飲み込んでから言った。「今度〈鉛〉が誰か殺しに来たら、お前が面倒みろ」
「いいよ。だって、扇は手伝ってくれるもんね」
「手伝わないぞ」
「ええっ、そんな。つれないねえ、キミってやつは」
扇は肩をすくめて、またサンドイッチに噛みついた。
寿も噛みついてみた。塩胡椒で味をつけられたオニオンフライと肉汁たっぷりの牛肉は毎日お供え物にしてもらいたいほどうまかった。
第八話〈了〉