一の十四
壁にもたれかかり膝を片方抱えた状態で目を覚ましたとき、窓格子から差し込んだ曙光は出入り口の障子に当たっていた。
もちろん三三二一番はいない。
刀と棒手裏剣は部屋に戻してあった。武器を身につけ、外に出る。
早速、遣手と目が合い、湯気若衆という、花魁道中の際に傘を持って歩く蒸気人形をきれいにするように命じられる。何も頭に入れず、真鍮製の腕や役者の顔を模った面をただひたすら磨く。
気づいたら、正午になっていた。
正午は白寿楼が最も暇になる時間で、花魁から禿、番頭から中郎まで、好きなことをしていられる時間だ。
今日という最後の日。〈鉛〉は〈的〉を探した。
〈的〉はカエシにある中庭の一つで禿たちを相手に竹馬で遊んでいた。肩にかける衣を手水鉢のそばに吊るした竹にかけ、紫の直垂をたすき掛けにして、竹馬に乗り、禿たちを相手に追いかけたり追いかけられたりしていた。
〈的〉は弾けるような禿たちの笑い声に囲まれていた。〈鉛〉と目が合うと、竹馬を降りて柱に立てかけた。
「よし、童ども。ちょっと疲れたから休もう。あっちに行ってな」
だが、禿は一人として動かなかった。〈的〉のそばから、ただならぬ様子の〈鉛〉をじっと見つめている。
〈鉛〉は庭に降り、刀を抜き、その場に立ったまま、まっすぐ〈的〉の顔に向かって切っ先を伸ばした。〈鉛〉と〈的〉の距離は五歩もない。
「さあ、あっちに行くんだ。向こうの部屋にカルタがあるから、それで遊んでな」
〈的〉が禿たちに優しく伝えるが、禿たちは〈鉛〉と〈的〉のあいだに立ち塞がり、代わりに斬られるつもりか〈的〉の足にしがみついた。
パチンと鯉口を切る音が背後からきこえた。おそらく半次郎がいるのだろう。撃鉄を上げる音が二階の回廊からきこえた。泰宗が銃でこっちを狙っている。気配は感じないが、この調子なら、大夜もいるのだろう。
それでいい。
〈的〉を殺したくないなら、自分が殺されればいい。
どうせ殺されるなら、同じ〈鉛〉よりも白寿楼の三人に殺されたかった。
ああ、と〈鉛〉は思う。
三三二一番も死ぬ前、そう思ったのか。
それでおれに殺させたのか。
殺気立った用心番たちに〈的〉が待てと言う。
「半次郎、抜くな。泰宗も撃つなよ」
なぜ、この〈的〉はおれの命を永らえさせようとするのだろう?
誰かを殺させるためか? これまで自分が生かされてきたのは誰かを殺すためだった。
そうだと言ってほしかった。興のために生かすなんて、〈鉛〉の理解を超えることを言ってほしくなかった。
〈的〉にしがみついていた禿の一人、太夫付きの禿が〈的〉から離れて、〈鉛〉のそばまで歩いてきた。
それを見て〈的〉の顔に初めて動揺が走り、息を呑んだ。
禿は〈鉛〉の前に立つと、懐から紙を取り出した。
それで初めて気がついた。
〈鉛〉の目から涙が溢れ、頬を伝い落ちていた。
おれが、泣いてる――なぜ?
何かが切れた。刀を持つ手が下がり、脚が力を失い、膝をついた。涙は止まらず、流れ続ける。
「おれは……」
禿が紙を涙に濡れた頬につけて、涙を拭き取ろうとする。
気づくと〈的〉がすぐ前に立っていた。涙を拭き取る禿の頭を撫でながら、屈んで、〈鉛〉の目を覗き込むようにしながら言った。
「おれの命を取れないのが悔しいか? それとも、おれがお前を死なせてくれないのが辛いか?」
「楽し、かった」
言葉が切れ切れに〈鉛〉の口から止めようもなく零れ落ちる。
「そうだ。ここにいて、楽しかった。でも、それは、長くは、続かない。いられない、そう、わかっていた。おれは、道具。おれは、鉛だから」
〈鉛〉は顔を上げた。〈的〉は竹馬遊びをしていたときと同様に優しい笑みを浮かべていた。
「機関が――」〈鉛〉は言う。「新たに〈鉛〉を五人送ってきた。おれにあんたを人気のない場所に誘い出せ、と」
「早速調べさせましょう」
半次郎が言うが、〈的〉が制する。
「いや、見つけたところで下手をすると、こちら側に死人を出すかもしれない。それは避けたい。そもそも、これはおれの興から起きたことだ。おれがきちんと自分でケツをもつ」
「しかし――」
「頼む、半次郎。おれに興を冷めさせるようなことをさせてくれるな」
半次郎も泰宗も、そして襖一枚隔てた場所で長脇差を構えていた大夜がぐっと息を呑んだ。
〈的〉は立ち上がった。
「さて、扇。おれとお前で、これから舟遊びと洒落こもう」