八の九
〈鉛〉は従業員室のえもん掛けにかかっている制服を見た。黒の地味な洋服に白い前掛け。これが明日から自分が着る服になる。
窓の外は月の光で脱色されて、藍の闇に沈んでいる。〈鉛〉が活動するのに絶好の夜だ。だが、この窓は動かすとひどく軋む。常人ならともかく〈背信者〉の感覚はその音を逃がさないだろう。自分の部屋の扉も同様に軋む。ついでに言うなら、〈背信者〉の扉も軋む。だが、窓は軋むことなく、音一つさせずに開く。
この続き部屋から出るには眠っている〈背信者〉のそばを息を殺して――あるいは〈背信者〉を殺して、窓から出るしかない。
〈的〉を仕留め損ねた上に、生かされ、まるで遊戯のような約定をつけて、玩ぶ〈的〉に殺意が沸いて止まらない。そして、それに与する〈背信者〉も同様だ。
〈鉛〉は足音を忍ばせて、続き部屋をつなぐ開けっ放しの扉から〈背信者〉の部屋をさっと見た。暗いが夜目は利く。〈背信者〉の部屋も〈鉛〉の部屋と普請や家具什器の面で大した差はなく、窓が一つ、寸詰まりの月光を床に落としていた。
〈背信者〉が眠る寝台は窓のすぐ脇にあった。〈鉛〉にとって意外だったのは、〈背信者〉は体をもたれさせて、何かあればすぐ動ける浅い眠り方ではなく、布団をかぶって横になる常人の寝方で床についていたことだった。
外の暮らしで警戒意識が緩んでいる。
〈鉛〉の口の端がかすかに上向いた。音もなく短刀が袖口から手のなかへ滑り込む。
〈背信者〉をこの場で始末することにした。〈鉛〉は〈鉛〉以外の何者でもないということを知らしめるのだ。
〈背信者〉は壁に向いて横になっていて、〈鉛〉には背を向けている。すー、すー、と静かに寝息を立てていた。首の付け根、背骨と頸の骨のあいだへ横にした短刀を滑り込ませれば、瞬き一つする間もなく死ぬ。昼の世界では敵なしの武人たちを葬るのに夜の闇と油断を利用するのは〈鉛〉の常套手段だ。
左手は口を塞ぎ、右手の短刀で急所をつけばいい。その後は〈的〉を始末して任務は完遂になる。
死ね。
心のなかでつぶやいた瞬間、カチリと小さな音が自分の顎の下で鳴った。
持ち上がった布団の下から黒い銃身が伸びていて、それが〈鉛〉の顎をまっすぐ捉えていた。
いつから起きていた? いや、先にこちらの出方を見るために、わざと油断したふりをしていたのか?
「銃の便利なところは――」〈背信者〉は言葉を切り、ふああ、とあくびをして続けた。「音のでかさだ。撃てば、みんなが気がついて、ここに殺到する。それにこの距離で撃てば、お前の皮膚は銃が吹いた火で焼いた豚みたいにこんがりと焼ける」
「貴様――くっ……」
だが、そこから先の言葉が出ない。またしても、しくじった。〈背信者〉は壁を見つめたまま横になっているが、銃を握った右手は左腕の下を通って、しっかり銃口を〈鉛〉に向けている。
「昔のおれもお前と同じくらい馬鹿だったのかと思うと、死にたくなる」
「馬鹿、だと?」
「あんなやつらのために人を殺して、自分を殺して、友を殺した。お前だって、似たような使われ方をしたはずだ」
「ふん。〈背信者〉らしい言い訳だな」
「おれには扇という名がある。まあ、でも呼びたいように呼べ」
「かつての〈的〉の情けで生きるなど、貴様には恥という感情はないのか?」
「あまり大きな声を出すな。客や時乃が起きるぞ。それに恥とは一体どういうことだ?」
「〈的〉を仕留め損なった」〈鉛〉は歯を食いしばった。「この屈辱は必ず晴らしてみせる」
「馬鹿馬鹿しい。お前は〈鉛〉だろう? 道具に恥も屈辱もない」
「それは――」
「だが、まあ、慌てるな。お前には楼主を殺る機会が存分に準備されている」
「ふざけるな。こんな場所で女中の真似をさせられて、何が機会だ」
「ヤマトの機関はお前を切り捨てた」
〈鉛〉は即座に、嘘だっ、と声を上げた。自分でも狼狽が分かるくらいの声で、だ。
「だから、大声を出すな。まったく。おれだって眠いのを我慢して付き合ってることを忘れるな。それとヤマトの機関がお前を捨てたのは本当だ。おれが機関から抜けるとき、ヤマトの諜報局長が二人、たて続けに変死を遂げている。まあ、警告だ。そして、半年以上経って、たぶんほとぼりも覚めたと思ったんだろうな。ヤマトとしては汚名返上でお前を送った。だが、いざ楼主を殺し損なったと分かると、怖くなった。また、機関の幹部が報復の対象になるんじゃないかと」
「そんなはずはない……そんな――」
「全てはお前個人がやった暴走行為だと言っていた。お前については、こちらが好きにしてもいいと言っている」
扇は銃を持った腕をずるずる引っ込めて、片手だけ後ろへ向ける少々疲れる姿勢から普通に横になる楽な姿勢に戻った。
「だから、好きなだけ楼主を狙える。良かったな。おれのときは後続部隊が後詰で控えていたから、時間制限があった。だが、お前は好きなだけじっくり戦略を練られる」
「……〈的〉を仕留めたところで帰る場所はもうない」
「そうだな」
「わたしは捨てられたのだな……」
「道具らしくな」
「……」
「だが、屑入れに放り込まれたのとは違う。楼主は捨てられた道具をうまい具合にまた使えるようにするのが得意だ」
「わたしに〈背信者〉になれと言う気か? 貴様のように……」
「背信というが、先にお前の信を裏切ったのはやつらだ。違うか?」
「それは……」
「それでもまだ楼主を殺りたいなら、好きなだけ試みればいい。全て防いでみせる。だが、今日は何だか疲れた。明日からホテルの仕事をしなければいけない。せいぜい休めるうちに休んでおけ」
〈鉛〉は自分の部屋へ戻り、寝台の上に座って膝を抱えた。
機関がわたしを捨てた――。
屈辱や落胆を感じてはいけない。わたしは〈鉛〉だ。道具だ。道具が恥を感じてはいけない。道具らしく機能しなければいけない。〈的〉を仕留めなくてはいけない。
その後は……。
何も浮かばない。突然与えられた自由を前に〈鉛〉はただ恐れ慄いた。




