八の八
コスモポリタン・ホテルは経師ヶ池の北岸にあった。三階建ての洋式木造建築で、壁は白く、屋根や鎧戸はまわりの松と同じ深い緑色に塗っていた。建物一階二階の東側と南側の外壁は屋根付き柱廊になっていて、図面で見ると、くの字に曲がっていた。一階のくの字柱廊には赤と白の格子柄の庇が垂れていて、東外廊と南外廊がぶつかるところにコスモポリタン・ホテルの看板が飾ってあった。一階は窓ガラスの嵌った南側と東側に受付ロビー、レストラン、撞球室があり、厨房と事務室は北側の奥に引っ込んでいた。
大工は客で賑わう艫のほうではなく、舳先の経師ヶ池に宿屋を建てることについて、立地条件が悪くはないかと心配しているようだった。水辺で旅籠をやりたいというのならば、屋台堤と天原堤のあいだにある篝火稲荷そばの池のそばでもいいではないか、あっちのほうが人で賑わっているし、と親切な忠告をしたが、時乃の意志は変わらなかった。初めて経師ヶ池を見た瞬間、自分はここにホテルを建てるのだと確信したらしい。
「コスモポリタン・ホテルの売りは静寂なの」
扇と舞に時乃はそう説明した。
「だから、栄えている艫のほうよりも、こっちのほうがいいのよ。それにここは景色も素晴らしいから。経師ヶ池はもちろん、西のほうでは風が天原に向かって真っ向から吹きつけてきて、それが防風林にあたってニューイングランドの原生林のような雄大な風景を広がっている」
「そのニューイングランドって場所には行ったことはないが、まあ、あんたがそう言うならそうなんだろう」
この少女実業家は長期的な計画を立てていて、ホテルは設計段階において増築のための遊びを大いに残していた。事実、現在、三階東側の外壁を屋根つきの柱廊にしようと大工たちが鎚を奮っている真っ最中だった。
時刻は四時半で西の舳先の防風林の影が茜色の雲を背景にくっきりと黒く見えた。風は冷たく、天球は蒼ざめ、金星と半月が東の空に浮いていた。
ホテルに入ると、玄関ロビーがあり、右が撞球室とバー、左がレストランになっていた。どちらも腰の高さの板壁でロビーから区切られていて、その胸壁に似た腰丈の壁からはコリント様式の柱が天井へ伸びていた。ロビーにいながら、レストランと撞球室の様子をパッと見られる上に、小さいホテルの弱点である空間の狭さを壁を排する形で解消した造りになっていた。
撞球室では袖をたすき掛けにして鉢巻を頭に巻いた男がゆったりとした半外套を着た男と玉突きを楽しんでいて、白い玉をぶつけるたびに、赤、黄、緑、青の玉が撞球台の隅に開けられた穴へと吸い込まれるように落ちていった。そばの小さなテーブルでは吸い口が煙管並みに長いチャーチワーデン・パイプの火口から紫煙が気だるげに昇っていて、バーのカウンターではアップルジャックといわれるリンゴの蒸留酒のグラスを持った遊女が二人の男の試合を見守っていた。時乃は今のところ、バーテンダーはお酒を出すことしかできないが、いずれはカクテルレシピを買ってきて、本格的に仕込むつもりでいると二人に説明した。
次に通されたレストランのほうはまだ時間がはやいにもかかわらず(時乃は今日はランチの材料がなくなったので特別だと言った)、いくつかのテーブルで夕食メニューの黒胡椒をふったハム・ステーキやチキン・パイがふるまわれていた。機械職人らしい二人組はロースト・ビーフに西洋ワサビをつけて食べながら談笑していたし、いつも騒がしい幇間は食べかけのピーチ・パイと冷めたブラック・コーヒーをそのままにして矢立を出し、小さな紙に小さな筆で小さな文字を真剣に書き込んでいた。それは彼の貴重な収入源である世評風刺のご機嫌節のネタを考えついたそばから書いていたのだった。遊女ではない女性――おそらく料理屋か職人の女房らしき二人が軽い食事を所望してオムレツを注文していた。女性だけで料理屋に入る――それもバーと撞球室がある料理屋に入って食事するなど、本家アメリカでさえ先進的とされ、保守的な人からは後ろ指を指されることだ。だが、天原は女でもっている国だから、こうした大胆なことが何の抵抗もなく、すんなりとなされるのだった。
そして、またロビーに戻ってきた。タイル張りのストーブがあり、二人がけの長椅子と一人掛けの安楽椅子、蒸気機関で動く昇降部屋があった。奥にはカウンターがあり、宿帳とペン立て、硯箱、釣鐘草型の呼び出しベルが置いてあり、後ろの杉でつくったボードには各部屋の鍵が引っかかっていた。部屋のほとんどは埋まっているらしく、鍵は一本しか残っていなかった。
「まあ、最初のうちは新し物好きな人が来てくれる。問題はその人たちがまた行きたいと思えるものをこちらが提供できるかどうか。それがホテルの成功の鍵」
唯一空いている客室は二階の東側にあり、遠くに遊廓が臨める部屋だった。壁は樫の腰壁、蔓と花をひし形にあしらったアーモンド色の壁紙が貼られ、天井から三寸の幅を白い板材で壁の上辺が縁取られていた。灯はガスを用いていて、明るい緑のビロードの椅子、菜種油のランプ、白くさらりと乾燥した清潔なシーツのベッドがあった。もともと騎兵隊兵舎のものだったベッドの真鍮の枠には走る駿馬の透かし彫りが施されていた。
だが、時乃がもっとも自慢とするのは折り畳み式の浴槽だった。一見、寝室用の背の高い戸棚に見えるのだが、扉にあたる部分を前に引き出すと、そのままバタンと亜鉛張りの浴槽が倒れてくる仕組みだった。そして、戸棚のなかにはガスによって湯を沸かす赤い銅のタンクが据えつけられていて、赤い加工革の握りを持つレバーを倒せば、蛇口から熱いお湯が簡単に出てきた。逆に熱すぎると思ったら青い加工革のレバーを下げれば水が出るので、暑い夏の水浴も楽しめるという素晴らしい発明品だった。あえて短所を挙げるならば、音が蒸気機関車並みにうるさいことだった。この折り畳み式浴槽はヤマシロ国で行われた産業博覧会で売れ残った余剰品で、半値以下に崩れたのを見て、時乃が目ざとく買い集めたのだった。
扇と舞はここの掃除とレストランの給仕をする。ひょっとすると、皿洗いもするかもしれないが、どうなるかは分からない。舞は〈的〉の虎兵衛から離されてあからさまに嫌そうな顔をしていた。これはいい傾向なのかもしれない。〈鉛〉は嫌なことがあっても、それを顔に出さない。
それに虎兵衛にしたって、このままほったらかしにするとは思えなかった。おそらく昼間の暇な時間にひょいと様子を見に行くのは間違いない。みなが何度も口を酸っぱくして言ったって、無駄なのだ。
「今日は説明で明日から働いてもらうわ。従業員用の部屋は一階の事務室の裏にあるから」
「部屋は別々か?」
「いえ、続き部屋。普段なら鍵をかけておくんだけど、扇にはちょっと特殊な事情があるので、ドアを開放しておくわ。舞さんが扇に気づかれることなく脱け出せるかどうかは忍び足次第」
――だそうだ、と扇が舞を見る。
舞は不満げな様子を隠そうとしない。
それを見て、扇は思う。
ホテルの仕事は舞をいいほうへ転がすかもしれない。
できることなら、あのときの自分みたいな激しい葛藤に追いつめたくない。あれは一歩間違っていたら死んでいた。だが、ヤマトが舞を見捨てたのならば、あのときよりも、もっと安全な方法で舞から〈鉛〉を引っぺがすことができるかもしれない。
いや、しなければいけないのだ。
そうでないと、興ざめだ。