八の六
煤払いの日に障子を一つ駄目にすることは許されざることだったらしく、扇はお登間から偉くこっぴどく叱られた。それが虎兵衛の命を助けるために必要なことだったと言ったところで、お登間の主張を突き崩すことにはならず、それどころか口答えしたことでまたガミガミやられた。そして、お登間は扇と舞に晩飯抜きを言い渡した。
まあ、罰としては軽いほうだ。扇はそう思って、フンと鼻を鳴らす。お登間の恐怖政治は天原遊廓の語り草で様々な噂が見世の内外でもっともらしく語られていた。曰く、掃除をさぼった中郎が当時普請中だった漆喰壁に埋め込まれた。曰く、閻魔大王から不届き者の舌を引っこ抜く下請けをしていて、口答えした新造などの舌を引っこ抜いては地獄の閻魔に送り届けている。曰く、お登間も昔は気の優しい美しい遊女だったが、ある馬鹿野郎が一万日ガミガミ怒鳴り散らせば極楽に行けるというホラをお登間に吹き込み、それ以来、お登間は今のようになってしまった――。
噂は人間の頭の数に十をかけただけ作られては流されて、いつしかお登間の実像と伝説が溶け合って、さらに恐ろしいお登間が出来上がっている。しかし、確かにお登間は口うるさいこと天原一だが、だいたいの見世の遣手婆たちはこんなもんで、むしろ心優しい遣手婆などいたら、そっちのほうが珍しがられるくらいのものらしい。
今日の食事は自分と舞は屋台で取らないといけないな――と、考えていたところに禿がやってきて、客人が来たから、二階の洋間へ行ってほしい、と伝言を告げにやってきた。
気を失った舞を奥の六畳間の布団の上に転がして、掃除に勤しんでいる中郎の邪魔をしないように猫のように慎重に歩きながら、洋間へと通った。
洋間は障子で開き畳こそ敷いてはあるが、洋式の樫材テーブル一つと椅子が八つ、部屋の四隅には石でつくった柱状の鉢植えに冬枯れしない棕櫚と白い花を植え、壁には天原の鳥瞰図を描いたタイル画が端から端まで目いっぱい大きく嵌めてあった。
待っていたのは虎兵衛と時乃だった。虎兵衛はいつもの直垂で、時乃は天原に来て以来、着るようになったリンゴ色のケープ付きウールドレス――アメリカ東海岸の小さなホテルの女主人が着るであろう地味な仕立てのドレスだった。
「おお、来たな。まあ、そこにかけてくれ」
虎兵衛が示した席を引いて腰かける。
「いま、権利と弁償に関することで時乃さんと話していたんだよ」
弁償とは、扉のガラスとシャンデリアのことだろうか? 虎兵衛がすぐに同じものを手配し、もうすっかり修理は済んだと聞いていたが……。
「つまりだな。ガラスとそのシャンデリンを――」
「シャンデリアです」時乃が訂正する。
「そのシャンデイリアを賠償する条件として、舞をホテルでメイデンとして――」
「メイドです」
「そうそう、そのメイドンとして――まあ日本語で言うところの女中として働かせたいと、こう言っているわけだ」
全てを聞くと、扇はその暗い双眸を時乃へ向けた。時乃はまともな思考の持ち主だと思っていたが、それも勘違いだったらしい。殺人術を叩き込まれた〈鉛〉を女中として働かせるというのは、途方もない思いつきであり、すず、久助、火薬中毒者がいかにも考え出しそうな危険極まりない思いつきだった。
「あの――」時乃が言う。「扇が物凄く悲しげな目でわたしを見てくるんですけど」
「あんたは大丈夫だと思っていたんだがな」と扇。
「大丈夫? 何の話?」
「一応、きくが、舞は暗殺者だ。料理や裁縫のかわりに暗殺術を仕込まれてる」
「それは知っているし、九十九屋さんの襲撃の現場にわたしも現場にいた」
「客を女中に殺されたくなかったら、舞をホテルで働かせることは考え直したほうがいい」
「でも、虎兵衛さんと白寿楼の用心番以外の人には手を出さないというのが約束でしょう?」
「正直、あいつがそれをどこまできちんと守るか、おれには自信が持てない」
「そのことなら大丈夫だろ」虎兵衛が口を挟んだ。「なんせ、お登間にガミガミ言われても、我慢して斬らなかったんだ。あれを我慢できれば、たいていのことは我慢できる」
「そうかもしれないが、おれは気が乗らないな」
「おっと。扇。まるで他人事のようだが、舞がホテルで働くときはお前さんもコック助手その他お使い係として一緒にホテルに行く」
「どうして、おれまで?」
「舞を更正させるのはお前さんの役目だ。もし、〈鉛〉の少女を更正させることができたら、お前さんの生き方にも一段落つくんじゃないか?」
「……」
扇は考えた。虎兵衛はいつもこんなふうに心をくすぐって、一見無茶な、だが努力が確実に実る厄介事を考え出す。そして、それを一つこなすごとに扇は扇になり、〈鉛〉だったころの自分から遠ざかれるような気がするのだ。
「わかった」扇はため息をつきながらうなずいた。「どうせ、嫌がれば、おれの部屋に火薬中毒者を送り込むつもりなんだろ?」
「おっ、よく分かったな」
「それなら、まだホテルで舞を見張っていたほうが気が楽だ」
「じゃあ、二人とも来てもらえるんですね?」
「おれはそのつもりだ」と扇。「舞はそのつもりがあろうとなかろうと、連れて行く。ただ、一つ、ききたいことがある」
「なに?」
「舞をホテルで働かせるのは、本当にガラス代とシャンデリアを弁償させるだけのためなのか?」
時乃は扇に視線をすえて、大きな目を二度瞬きさせると、
「そうね。ちょっと考えてみたの。わたしが尊敬する人だったら、こんなとき、どうするだろう? こんなとき、どうしてくれただろうって。それでわたしは舞さんをうちのホテルで暮らさせてみようと思った――扇、またわたしを見る目が変わったわね。なんだか、とても真面目な目になってる」
「いや。あんたはやっぱり大丈夫な人間だった。その正気を少しでも疑ってすまなかった」
そう言って頭を下げる扇を前に、時乃も虎兵衛もよく分からず、小首を傾げた。大丈夫じゃない人間とは一体誰のことなんだろう、と。




