八の五
〈鉛〉は長い廊下を歩いていた。右手には庭園があり、大きな池が築地塀まで続いていた。左手は障子戸でみなピタリと閉じてあった。空一面を覆う灰色の雲は厚みがバラバラでぼんやり光を発することがあった。そうした光が発するときだけ、廊下の行き止まりらしきものを見ることができた。光が隠れると、行き止まりも消えてしまい、えんえんと続く終わりない廊下の暗がりが取って代わる。
〈鉛〉は自分が庭に入ってはいけないこと、障子を開けてなかへ入ってはいけないことを命じられたことだけは分かっていた。だが、それを命じた機関の上官の顔を思い出そうとすると、すやり雲がかかって顔が分からなくなってしまう。
でも、別にかまわない。私は道具だから。
〈鉛〉はそのまま歩いていく。
突然、足が何か濡れたものを踏んで、驚いて飛びのく。それは一枚の濡れ雑巾だった。いや、一枚だけではない。〈鉛〉の行く先までずっと濡れ雑巾が落ちている。振り返るとさっきまでなかったはずの場所に雑巾が散乱していた。
一瞬、雑巾がぴくりと動いた。やがて、生まれたての猫のように遠慮がちに、だが、好奇心旺盛にずるずると動き出し、床や縁側の柱を勝手に磨き出した。
その薄気味悪さから逃れたいが、庭と障子へ行くことは禁止されている。
だが、どうしても我慢が出来ず、〈鉛〉は障子の戸を開けた……
そこには〈背信者〉がいた。床の間の柱に背をあずけ、刀を抱えるように持っている。〈背信者〉はゆっくり〈鉛〉のほうへ顔を向けた。
「あまりいい目覚めじゃないようだな」
雀の鳴く声が聞こえ、閉じられた障子は白く光っている。朝の光だ。そこに頻繁に行き交う人の影が映っている。
「……」
「武器なら、あんたの部屋に置いてある。それと、面倒なことになりたくなかったら、今日はこの部屋から出ないことだ」
「〈背信者〉の命令は受けない」〈鉛〉と小さな声でぽそりとつぶやいた。
「命令じゃない。忠告だ」
〈背信者〉は、まあ、好きなようにすればいい、と言って、柱にもたれた。
〈鉛〉は背中を見せないよう、〈背信者〉をにらみつけたまま、奥の部屋へ下がり、自分の武器――刀、短剣、棒手裏剣がきちんと納まっている革の装具をを手にとって、慣れた動作で身につけた。
〈背信者〉も同じ装備を持っている。条件が五分五分になったところで余裕が生まれてきた。その余裕を〈的〉を葬る手立てを考えることに使うことにした。〈的〉の前には必ず〈背信者〉を含めた四人の用心番がついている。悔しいが、今の自分には〈背信者〉と戦って確実に勝てるという実感がない。他の用心番たちの腕も未知数であり、自分の暗殺任務にそうした不確定要素を加えたくもない。
となると、何とか〈的〉を用心番と引き離す方法を考えないといけない。
外から足音が聞こえてきた。足音はさっきから引っ切り無しにきこえていたが、この足音は違う。ドスドスと板を踏み割るくらいに激しい音だ。〈背信者〉が小さく舌打ちし、ベルトをまわして腰の刀を背中で背負い、障子に目を向けた。
その途端、障子が左右にスパンと開いて、背の高い険のある顔をした唐残の襟付き姿の老婆が甲高い声を上げた。
「こらっ! 用心番!」
〈背信者〉は抵抗する意志のないことを示すために両手を上げた。
「楼主からきいてないか? おれは今、ちょっと厄介な――」
「なあに、素っ頓狂なこと言ってんだい! 今日は十二月十三日の煤払いの日だよ! 遊女も若衆を掃除するんだから、用心番も掃除するんだ!」
老婆が叫ぶと、〈背信者〉は黙って立ち上がった。
「今日はどこを掃除すればいいんだ?」
「厨を掃除するんだ。ほら、はやく!」
老婆が〈背信者〉をせかすと、次は〈鉛〉の番だった。
「あんた! あたしに付いてきな!」
気づくと、〈鉛〉は老婆の後ろを付いて行っていた。〈背信者〉は厨で定紋入りの手ぬぐいを手にして重箱の山と格闘していた。上は楼主の内証から下は中郎たちの寝床まで白寿楼は大騒ぎだった。潜水装置を身につけた若衆が中庭の池のゴミをさらっていた。回廊状の廊下ではまだ少年の齢を出ていない雇人たちが雑巾がけの競走をしていて、鉢巻を巻いた遊女たちが布団やら着物やらを自分の部屋から引きずり出していた。そのあいだも老婆は手を休めているものを見つけると、老若男女の区別なく叱りつけ、怒鳴りつけ、新たな仕事を叩きつけるようにして与えるのだった。
〈鉛〉はどうして自分がこの老婆の首を刎ねないのか、不思議でしょうがなかった。そこで昨夜の決まり事が思い出され、ああ、任務のためだった、と思いなおした。〈的〉と用心番以外は傷つけない。これを守っている限り、自分には任務を遂行する機会が与えられるのだ。
突然、ぞくっとした。まるで自分が〈鉛〉でなくなるような予感じみたものを感じたのだ。得体の知れないものが自分のすぐ横にいるような気がして、まるで自分を守ろうとするように両腕を胸に引き寄せた。
「ほら! 手を出しな!」
老婆は白寿楼の定紋白地に黒の寿の行書がある手ぬぐいを渡した。
そこは白寿楼の三階の仲町に面した外廊だった。向かいの妓楼でも煤払いが盛んで、二階や三階の開いた障子から布団や服が紐でぐるぐる巻きにされて蒸気洗濯工場行きの蒸気荷車へと降ろされているところだった。
「あんたはこの外廊を磨くんだ。仲町の常桜が映り込むくらいにピカピカにするんだよ!」
老婆は背の高い体を左右に揺らしながら、外廊の角を曲がって、また誰かに怒鳴り散らしていた。
〈鉛〉は手ぬぐいを左手から垂らして、彼女が磨くことになった外廊を見た。目立つゴミが落ちているわけではなく、ほとんどきれいだが、よく見ると、うっすら白い足袋の跡や薄い埃の層にくっきり形を残した足跡が残っていた。
ここで掃除などしている場合ではない。
〈的〉を片づけるべきだ。それはわかっている。ただ、〈的〉を見つける前に用心番たちと鉢合わせる可能性のほうが大きい。どうやって〈的〉を殺れる間合いへ入るか――。
考えながら、外廊を磨いていた。ほとんど無意識に行っていた。三分の二を文句なしにピカピカに磨いたところで〈鉛〉は自分が知らず知らずのうちに鏡砥ぎのようにせっせと仕事に励んでいたことに気がついた。
「やあ、こいつはすごい」
声がして、〈鉛〉はハッとした。目の先六尺ほどのところで障子が開き、虎兵衛がひょっこり首だけ出して、廊下を眺めた。
「この床、常咲きの桜がまるで水面に映るようじゃないか」
そして、顔を〈鉛〉に向けた。
「お前さんがしてくれたのかい? いい仕事ぶりだ」
刀を抜くのでは間に合わない。だが、苦無で殺せる。腰の後ろにつけていた革の装具から三日月のように湾曲した刃の苦無を抜いて、下から顎の付け根を狙って切り上げた。
障子から青みがかった刀身が突き出て、〈鉛〉の斬撃は虎兵衛の顎の下三寸の距離で止められた。
そのまま〈背信者〉が障子を突き破りながら現われて、次の瞬間には手刀を首に受けて、〈鉛〉はがっくり膝をついて、そのまま気を失った。