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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第八話 〈背信者〉の扇と〈鉛〉の舞
132/611

八の二

 意識が戻ると、そこには三三二一番がいた。髪は白く、柔らかそうな白い洋服を着ているが、間違いなく三三二一番だ。機関を脱走し、〈背信者〉――かつての三三二〇番に粛清された〈鉛〉。

 それが今、目の前で面白いものでも見るように〈鉛〉の顔を覗きこんでいた。

 場所はホテルの床の上だ。照明用の鋳鉄製シャンデリアの残骸が広間の端に寄せられていて、ガラスが割れた扉には外気を遮断するために油引きした布が張ってあった。凍てつく風が通るたびに、なめした革のような布が内側へふくらみ、釘が軋む音がした。

〈鉛〉は死者に――三三二一番に目を戻した。今の〈鉛〉には見ることしかできない。体を動かすことも声を上げることもできない――そして自決することも。自害用の毒が仕込んだ仮面は外され、手と足は縄でくくられて、変に動くと首に巻いた縄が絞まるように縛られていた。口には布を突っ込まれ、それを吐き出せないように口を覆うように布を結びつけてあった。

「地獄へようこそ。五五三九番」三三二一番がにこりと笑って言った。

「ここはキミが殺されたあのホテルの玄関広間だ。先に地獄に落ちた先輩としてキミに教えてあげよう。まず、閻魔大王はいない。あれは悪い子を言いなりにさせるために大人たちが作ったうそだった。針山地獄も血の池地獄もない。地獄には、ただ、ホテルの玄関広間があるのみ。そうなんだ、五五三九番。地獄ではね、生前、その人間にとって、もっとも恥とする場面が何度も繰り返されるんだ。キミの場合はキミが油断して任務にしくじって、時乃ちゃんと扇に反撃されて、扇に頸を折られた場面――これが何度も繰り返される。自分の意思で逆らおうとしても、体が勝手に最期の瞬間の動きを繰り返し、キミにとっての恥ずべき一瞬が長く長く引き伸ばされた時間のなかで延々と繰り返されるんだ。何度も、何度も、何度も――」

 三三二一番は、くすり、と笑った。真鍮の笠とガラスの火屋を持つ洋灯がカウンターやテーブル、床や積み重ねた本の上に置いてあり、三三二一番の影が部屋じゅうへ飛んでいた。そして、明かりがゆらめくたびに影もゆらめいた。背後の影の蠢きが三三二一番の中性的な顔立ちを悪魔じみた色で彩った。

 宿帳とペン立て、硯箱が置かれたカウンターの向こうでドアノブがまわる音がした。開いた扉から出てきたのは〈背信者〉、ホテルの少女だった。〈背信者〉は刀を納めているが、〈鉛〉はその素手で絞められて、こうして転がっている。やろうと思えば、藁しべを折るように簡単に自分の頸を折れる。少女のほうは着るものは先ほどと同じだったが、腰に弾薬ベルトを巻き、そこに六連発銃を差していた。そして二つの銃身が並んだ大きな猟銃を持っていて、その筒先を油断なく〈鉛〉に向けている。

〈背信者〉が三三二一番に話しかけた。

「何か吹き込んだだろ?」

「へ?」

「こいつ、おれのことを尋常じゃない目で見てくるぞ。何を吹き込んだ?」

「さ、さあ」三三二一番は肩をすくめた。

 はあ、と〈背信者〉はため息をついた。

 どうやら、地獄の話はホラだったらしい。だが、それではもう一つ疑問が残る。なぜ三三二一番は生きているのだ? 〈鉛〉は支援部隊の一人として、三三二一番の抹殺任務についていた。そして、この目で〈背信者〉がその頸を刎ねたのを見たのだ。

 だが、もうそんなことはどうでもいい。ここで自分は死ぬのだ。

〈背信者〉が床に転がされた〈鉛〉を眺めた。そして、銃を持った少女と目を見合わせて、うなずきあうと、

「もう来ても大丈夫だ」

 と、カウンター裏の部屋へ呼びかけた。

〈的〉が現われた。紫の直垂に白の薄い衣を肩にかけていた。そのとき、表の扉が開いて、冷たい風が吹きこんだ。

〈的〉が肩にかけた衣がふわりとふくらんで、カウンターの端にある陶器の釣鐘草でつくった呼び出し鐘に触れて、りん、と鳴った。

 開いた扉からは女が一人、男が二人、それに冷気と一緒に白い雪片が吹き込んできた。三人ともみな背が高く、刀を携えていて、一人は上衣が銃を懐に入れているのか、少し服がふくらんで見えた。

「おーっ、さむっ」大柄の女が言った。広間の端にある陶器製ストーブへまず体の表、次に裏といった具合にくるくる回転して、ストーブから発せられる熱と薪の匂いをまんべんなく取り込んでいた。

「どうだった?」

〈背信者〉が三人にたずねた。

「他には誰もいねえな。こいつ一人だ」

「死人は?」

「出てない。確認も取れた」

〈背信者〉と大女が話している横では男二人が、例のものを持ってきて欲しいとホテルの少女に言っていた。少女はちらりと〈鉛〉を見やると、猟銃をカウンターに置いて、奥の部屋で消えた。

 まもなく、氷バケツに入ったアイスクリーム製造器と琥珀色の酒らしいものが入った壜が持って帰ってきた。

「おれは冬が一番好きだ」さほど厚着していない侍風の大男が顔を綻ばせて言った。「四季のなかでどれか一つ挙げろと言われれば、冬だな。なにせ冬なら簡単にアイスクリームが作れる」

「でも、半次郎どの」背の高く顔立ちの整った洋装の侍が言った。「あなた、数ヶ月前には夏が一番好きだと言っていたではありませんか」

「夏になるころには夏が一番好きになるんだ。水羊羹や水饅頭、カキ氷がたまらなく愛おしいんだよ」

「よし、お二人さん。そこまでだ」

〈的〉がパチンと手を打った。その場にいる全員の視線――もちろん〈鉛〉の視線も、〈的〉に向けられた。

「どこかで見たような覚えのある光景だな」

〈的〉がニヤニヤしながら、〈背信者〉を見やった。〈背信者〉は憮然としながらも気恥ずかしそうにうつむいている。

「まあ、それは置いておいてだな」〈的〉が歩いて、〈鉛〉を見下ろす位置に立った。「また懲りずにヤマトの連中が刺客を送り込んできた。ひょっとすると、これは、明けましておめでとうの挨拶なのかもしれない。三週間ほど早いがな」

「どうする?」

〈背信者〉が〈的〉にたずねた。

「狙われたのはおれの命で、ガラスとシャンデリアで迷惑をかけたのは時乃さんだ。まず時乃さんの考えをきいてみようじゃないか」

 時乃は肩をすくめると、ベルトに差した銃を抜き、〈鉛〉の頭に狙いをつけた。

「五秒あげる。祈りなさい……と言いたいところですけど、九十九屋さんに譲ります。どうも、この手のことの対処に慣れているようですから」

「では、おれのやり方で対処するとしよう」

〈的〉は〈鉛〉へ目を向けて、いたずらっぽく笑いかけた。

 その笑みに何かを感じた。虐殺者の笑み、冷酷な笑み、こびるような命乞いの笑み。だが、今、自分に向けられている笑みはそのどれでもない。

 急に恐ろしくなって目をそらした。正体の分からないものが胸をよぎるのが怖い。

 だが、〈的〉はそんな〈鉛〉のすぐ前にしゃがみこみ、たずねた。

「お嬢ちゃん、興が分かるかい?」

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