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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第七話 荒野の扇とネイヴィ・コルト
130/611

七の三十一

 師走とはよく言ったもので、師匠もあっちこっちに走り回る。常盤津の師匠が天原遊廓の仲町を忙しく走っていた。もうじき、十二月になるころには年賀行事の準備で天原も忙しくなるのだ。

 三週間前に天原に帰ってきて、それ以来、時乃は経師ヶ池に西洋風のホテル〈コスモポリタン〉を建てるべく大工を集め、コックや部屋係のメイドを探し、食材の卸しを相手に交渉してと、あちこち動き回っていた。経師ヶ池でのホテル営業の許可が出たのは、九十九屋がかつての用心番にして友人鏡条関介の遺志を汲みたいと思ったからだったし、また時乃は十四歳にしてホテルの帳簿をつけていたので西洋式複式簿記の付け方を希望する見世に教えることができたことも大きかった。

 扇は鳥取で約束した通り、食べ物にいじきたないもの二人と甘味のために死ねるもの一人を連れて、経師ヶ池北岸の工事現場へ向かった。工事が始まって三週間も経つと、二階建てのホテルの八割方は建築が終わり、後は壁紙選びと撞球室と喫煙室の内装など細かい仕事が残るのみだった。

 職人相手に細かい采配をしていた時乃は扇が連れてきた三人の健啖家――大夜とすず、そして半次郎を見ると、自分が住んでいる仮住まいの丸太小屋に案内した。

 テーブルクロスの上にはホテルで出される予定の料理が全部並んでいた。まんまるのチキン・クロケット、鉢に入れた香草入りマヨネーズ、バターで焦げ目をつけたジャーマン・ポテト、香味野菜と一緒にローストしたポーク(アップル・ソースとジンジャー・ソースが用意されていて、好みのソースを客が選ぶ仕組みになっていた)、鱈とポテトのスープ、フライド・チキン、チョップハウス・ステーキとベイクド・ポテト、コンビーフ・ハッシュ、オイスター・ロックフェラー。デザートはアップルパイ、ライムパイ、レモンケーキ、粉砂糖をふったフライド・アップル。飲み物はコーヒー、アップル・ジュース、ウイスキー、ビール、クランベリーアップル・ワイン。朝は、パンケーキ、ハム・エッグ・サンド、ベーコン・エッグ・サンド、フライド・ビスケット、胡椒をふったサワークリーム・トースト、ステーキ・サンド。

「うめえな、これ。なんつぅーんだい?」

「万膳町では食べられない味ですね」

「この揚げたリンゴ、もう一個食いたいな」

 三人は、タダメシを食わせるんだから、ちゃんとした意見を言うよう、扇にしつこく言い含められていた。

「カタカナの横文字じゃあ、どんな食い物かピンと来ない。メニューって言ったっけ? この品書きに簡単な絵を描いたらどうだい?」

「ステーキ・サンドはとてもお腹にたまるから、夕食でも出せると思いますよ」

「うまいんだけど、甘さが足りないな。もうちょっと砂糖をどばっと入れたほうが――」

 役に立つ意見と立たない意見が玉石混合となったが、この三人はおそらくうまい具合に広告塔になると扇は見ていた。これまで扇は、この三人に、いつ、どこで、あれを食べたが実にうまかったとか、今、あそこで売ってる、あれを食べたいといった話に何度も付き合わされてきた。この場合はいい具合に作用するだろう。西洋式ホテルという無駄な敷居の高さをこの三人がうまい具合に取っ払ってくれる。

 テーブルの上にあった料理は時乃が考えていたよりもずっとはやくなくなり、おかわりが欲しいと言い出した。扇が時乃に、無視しろ、と一言言うと、三人を追い出しにかかった。

「ほら、もう役目は終わりだ。これからは金を払って食べるんだな」

「なんだよ、扇。ケチなこと言うなよ。もうちょっとくらいいいじゃん」

「師走ですよ。師が走るんですよ。走り回る師範代を労わっても罰は当たらないと思うんですけど」

「やっぱり砂糖が足りねえな。もっと、こう、どばーっと――」

 扇は三人を引っぱるようにして遊廓のほうへと連れ帰った。

 時乃はため息をついた。まったくよく食べる三人だった。だが、ホテルが開業すれば、もっと忙しくなるだろう。レストランは宿泊客だけでなく、天原の住人も顧客にしようと思っている。食べ応えがあって、庶民的な、だがこだわりの西洋料理をお手ごろの値段にして昼食として定着させる。いずれはイギリスのフォートナム・アンド・メイソンを真似て、ピクニック用バスケットを売り出そうとも思っている。コスモポリタンの屋号を焼き付けた籐の手提げ籠に陶器の白い皿、食器一式、スモークチキンのサンドイッチや小さな果物のパイ、寸胴なリンゴ酒の壜や蜂の巣から滴ったばかりのような水割りシロップの壜といった具合に昼食になるものが全て入っていて、その籠さえ持っていけば、どこでも好きなところでピクニックを楽しめるというわけだ。

 だが、今は食器の後片付けが先だ。

 流し場は家のなかにあった。とてもではないが、外では寒くて長時間の水仕事などやっていられない。何十枚という皿を磨き砂とシャボン液をまぜたものでこすり、油汚れや砂糖のべとつきを落とそうとしたのだが、あの三人の使った皿はまるでなめきったように何も残っていなかった。そういえば、三人が千切ったパンでソースやシロップを一生懸命拭っては口のなかに放っていた。

 自然と笑みがこぼれてくる。

 やはり、自分にはホテルが性に合っているのだ。

 食器を洗い終えると、建設中のコスモポリタン・ホテルが窓から見える位置に椅子を置いて眺めた。

 いつもなら、このくらいの時間に電信所の使いの小僧がやってきて、イナバで発行された一枚新聞を持ってくる。だが、今日は来ない。これまでの代金を払って、もう来なくてもいい、と言ったのだ。

 そのかわりに泰宗が来た。

 厚手の外套の後ろから吊るした太刀の鞘が飛び出している。

「こんにちは」と泰宗が挨拶したので、時乃は立ち上がり、挨拶し、さっき三人組に試食をしてもらったばかりでもてなおそうにもクッキー一つない、と肩をすくめた。

「いえ。食事は済ませました」

「じゃあ、ここにはどうして?」

「まあ、ホテルの進捗を見に来たのと、あなたがもうイナバからの新聞を取り寄せるのをやめたと伺いまして」

「ええ。お金の無駄だから」

「でも、取り寄せずには入られなかった」

 泰宗は煙草を取り出して、いいですか、とたずねた。

 時乃はうなずいた。泰宗の煙草の匂いが好きだった。関介が好んで呑んだ甘いパイプの匂いを思い出させたからだ。

 エジプト煙草の先が赤く光っている。吸い口から口を離すと、

「結局、大統領がどうなったかは分かりませんでしたね」

 ――と、言った。

 あの日、あれだけ憎かった大統領を撃たずにその場を去った。

 それを後悔する気は不思議なことにまったく起こらなかった。

 そのうち、風のたよりで本物の大統領が見つかって、衆人環視の場でギロチンにかけられるかもしれないし、あるいは海が干上がるその日まで復讐者の予期せぬ襲撃に脅えながら、母親のまぜる麦粥に不安な目を寄せているかもしれない。

 だが、もうどうでもよくなっていた。時乃がイナバの新聞を取るのをやめた最大の理由は別のところにあった。

 あのとき、大統領を倒すために集まった革命軍は今、八つの派閥に分割して、イナバは内戦寸前にまで陥った。大統領がいなくなったことで、大統領がそれまで握っていた富と権力に目が眩んで、革命軍の将軍や大佐たちが兵をかき集めているのだ。それが毎日のように新聞に載り、一つの新聞で激しい批難の応酬がなされていた。それで、見ていてうんざりしてしまった。

 高杉晋作とその右腕の老将軍――柳彦蔵は高杉の予想どおり、革命が終わった途端にお払い箱にされた――余所者の烙印を押されて。

 だが、圧政あるところにあの男ありなのだろう。今ごろ、どこかでまた革命をやろうとしているかもしれない。

 地上には、いろいろな「かもしれない」が転がっている。大統領が見つかるかもしれない、イナバが内戦状態に陥るかもしれない、高杉晋作がまた別の土地で革命を起こすかもしれない。だが、そこの窓から見える建設中のホテル〈コスモポリタン〉はまぎれもない現実だ。出来上がった正面のポーチを見ていると、安楽椅子に寄りかかった関介が空に切なげな茜と紫の色が投げかけられるそのとき、西日に目を細めながらパイプを燻らしていそうな気がした。そして、あの渋い声でいうのだ――大丈夫だ、時乃。やっていけるさ。

 そんな思いに馳せる時乃を泰宗はじっと見守っていた。

 初めて天原へ来たとき、あの光の渦に目が眩んだあのとき、関介が彼を見守ったあのときと同じように――。


 ――こんなに明るいのは初めてみました。

 ――何が明るいと映るのかね?

 ――建物、声、人、全てが目を開けてみていられないくらい明るいです。

 泰宗と関介は惣門に立っていた。青い葉を茂らせた桜が遊廓を貫いていて、花が咲いていない分の絢爛を見世は女と灯と賑わいで補おうとしていた。十二歳の自分を心の牢獄のなかに閉じ込めた少年にはあまりにも眩すぎてくらくらしてしまいそうだった。

 ――わたしは駄目かもしれません。

 ――どうして?

 ――わたしは必要のない子です。ここでだって、きっと……。

 関介は大笑いした。

 ――なんだ、そんなことを心配していたのか。自分を世界に――これまで想像もしなかった世界に晒すのが怖いのかね?

 小さな泰宗は、こくん、とうなずいた。

 関介は指を二度弾いて、うつむき気味の泰宗の視線を上げさせた。

 ――大丈夫だよ、泰宗。やっていける。やっていけるとも!


                             第七話〈了〉

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