七の二十四
次の日の朝、まだ太陽が東の地平でぐずぐずしているとき、扇は目を覚ました。扇だけではない。森じゅうの兵隊たちが一斉に目を覚まし、起き上がった。それまで当たり前のように響いていた銃声と砲声がピタリと止んだからだ。腹に響く重砲も、豆を炒るようなライフルも、空中で炸裂し小枝をへし折るような音を鳴らす榴散弾も一様に黙り込んだのだ。
男たちは天幕から出て、あちこちを見たが、見つかるのは焚火の跡を示す冷めた灰と湿った革の匂いをさせる馬具の重なり、杭にカンテラをひっかけた兵隊用天幕の群れで、この突然の静寂の理由を教えてくれるものは何一つなかった。兵卒たちは軍曹にたずね、軍曹は中尉にたずね、中尉は大佐にたずね、大佐は将軍にたずねた。だが、誰も納得のいく答えを返せなかったため、兵隊たちはおのおのの想像力を働かせて、口々に言い合った。
「革命万歳。もう決着がついたんだろうよ」
「大統領が死んだのか?」
「降伏したんだ。今ごろやっこさんの首をちょん切るための刀に水をちょろちょろちょろとかけてるころさ」
「いや、大統領は子分を置き去りにして逃げたに違えねえ。大統領ってのは戦に負けたらそうするって相場が決まってるんだ」
「大統領に味方したやつらはまだ殺してもいいんだよな?」
「さあ、どうだか。それより首都で略奪が始まったのかもしれねえ。こんなところでぐずぐずしてる場合かよ」
「いろいろ好き勝手に言ってるけどよ、こいつぁ、ただの弾切れじゃねえの?」
誰一人、正しい答えを導き出すこともできないまま、時間だけが過ぎていった。金色の曙光が森を切り裂き、ろくに鬚もそっていない男たちは、光が当たるとしぼんでしまう化け物のように呻きながら、浅瀬へ体を引きずり、顔を洗った。扇も水辺で屈むと、生えているシャボン草を引っこ抜き、それを手でぐちゃぐちゃにして、顔や首や胸にこすりつけ、水で洗い流した。それだけでもひどく気分がよくなった。水仕事を終えると、指先までぴったり覆う長手甲をつけて、太腿にネイヴィ・コルトを差した銃嚢を結んだ。刀を差し、棒手裏剣の一つ一つを位置を確かめるように隠し場所に仕込み、馬の背中に鞍を乗せた。
時乃も出支度を終えて、鞍を馬に置き、ひらりとまたがると、二人で泰宗の天幕を訪れた。朝の早い老兵三人が握り飯を食べながら、泰宗が馬にまたがるのを見守っていた。
扇たちが合流すると、泰宗の部隊は森を出発した。
泰宗は昨日の辞令を呼んで、師団司令官である例の老将軍よりも一つ下の将軍の指揮下に入っていることを知っていた。だが、自分の他にどんな部隊がこの将軍の旅団指揮下にあるのかはまったく分からなかった。
扇の泰宗の上役に関する第一印象は「おしゃべりな学者」だった。事実、この将軍は古くはハンニバルがローマを破ったカンネーの戦いから、新しいところではクリミア戦争、普墺戦争、南北戦争、普仏戦争とその報復の仏独戦争、そして清仏戦争について研究し尽くしたと豪語していた。異人の戦争についてはとても詳しく、いつ、どこで、どの連隊が、どんな活躍をしたのかぴたりと言い当てることができたし、過去に行われた戦いについて評論することができた。
「わたしが思うにね、大佐。アルマ川での勝利の後、ラグラン将軍とサン・タルノー将軍はすぐにでもセヴァストポリに殺到すべきだったのだよ」
「わたしが思うにはだね、大佐。マクレラン将軍はアンティータムの戦いではもっと騎兵の斥候をつかって、戦場を把握すべきだった。戦争に決着をつける機会をみすみす逃してしまったのだからね」
「なるほど、ナポレオン・ボナパルトは偉大かもしれない。しかし、世界にはこの偉大な天才を打ち破ったさらなる天才がいるのだよ。カール大公、スヴォーロフ将軍、そしてウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー。ナポレオンが天才ならば、彼らはまさにその采配神の域に達したと言ってもよいと思うが、きみはどう思うのかね、大佐」
将軍の話し相手はいつも泰宗だった。扇は泰宗をこのような生贄にすることをすまないとは思っていたが、将軍は中佐以下の軍人と口をきくことを嫌ったので、どの道、泰宗を助け出す術はないのだった。
このように「おしゃべりな学者」はヨーロッパ諸国の戦いについては詳しいのだが、日本国内のこととなると、もうどうしようもなかった。関ヶ原の戦いで勝ったのが、東軍か西軍かきかれると答えられなかったし、現在進行形で起こっている日本各地の戦争については恐ろしいほどに無知だった。彼は日本の戦争のことをきかれると、決まって顔を真っ赤にしながら日本の戦争に価値はないのだと言い訳をした。
ただ、知識をひけらかしたがるワリには濃紺のフロックコートとチョッキ、それに古い二角帽と言った具合で地味な軍服を好んだ。これは謙遜とか戦場で狙撃兵の餌食にならないよう目立ちにくくするといったことを狙いとしたのではなく、彼の崇拝するウェリントンという将軍が地味な服を好んだことから、その真似をしているということだった。
扇は彼を名前ではなく、「将軍博士」と呼ぶことにした。
将軍博士を先頭に泰宗が続き、扇と時乃がそれぞれ左右の斜め後ろを馬で行き、そして、三人の老兵がそれに続く。すると、森の浅瀬の一角で座っていたキリシタン・ズアーブ大隊三百が立ち上がり、将軍博士の旅団に加わった。大隊長は少佐だったので、将軍博士の下らないひけらかしおしゃべりに付き合わされずに済んだ。
外の砂の街道へ上ると、昨日はなかった場所に装甲列車が連なっていた。昼夜を問わない突貫工事のおかげで線路が敷かれていて、それはもう竜舌蘭の農園までつながっていた。老将軍の姿は見えないが、おそらくどこかの前線の様子を見に行っているのだろう。
扇は装甲列車の銃眼から頭を出して、東のほうを見ていた兵隊に話しかけた。
「どうして大砲の音がしないんだ?」
「今日の朝七時まで休戦だ」鉄道兵はこたえた。「敵味方の死体が何日もほったらかしになってるから、休戦期間を設けて、埋められるだけの死体を埋めるのさ」
と、言い終えた瞬間、まるで水に湧く羽虫のごとく、砲声が鳴り響いた。こんな音を平気で聞いていたのかと思うほどの大音量だった。時乃が懐中時計を開いて、扇に見せたが、まだ午前六時をまわったばかりだった。
「やっぱりな!」鉄道兵は砲声に負けないよう声を張って言った。「やつらが休戦を必ず破るって分かってた。なんせ向こうは退却するだけなんだから、死体のことで悩まされることはないんだし!」