七の二十
考えてみると、扇は戦争に参加するのはこれが二度目ということになる。ただ、シモウサでの戦いは個人の勇気と知恵が活躍する余地があった。イナバの戦いにはそんなものはなく、兵隊の命は完全に運任せだった。個人の勇気と知恵は食料と酒をいかにして獲得するかに向けられていて、両切り煙草を取ってこようものならば、まるで総大将を討ち取ったように騒ぎ立てていた。
そして、今、ツギハギだらけの白茶けた木綿着を着た老兵が扇と時乃をやかましく批難していた。その理由は、せっかく陸上甲鉄艦に乗れたのに、そこで昼食を取らずにのこのこ出てきたことが許しがたい怠惰だと言うのだ。陸上甲鉄艦の食事の質の高さは全革命軍兵士の垂涎の的であり、その相伴に与る機会をマヌケな家畜のように見逃したことが信じられないと叫んでいた。老兵は我が事のように悔しがり、よれよれのケピ帽を手に握って、蝿を追い払うようにぶんぶん振り回して、わめき散らした。
「馬鹿野郎! マヌケ! オタンチン!」
だが、どう罵っても反応しない二人に老兵はあきらめたのか、帽子を乗せて、頭をふりふり、隊列に戻った。彼の所属部隊は他の部隊と同様に規定の軍服など存在せず、刺子縫いの着物や義経袴、素肌に半纏といった具合だった。隊を率いている少佐だけが紺の軍服で帽子もフランス式の金糸飾りのケピ帽だった。少佐は今日中にも靴がもらえると、部下に約束していたが、その約束はもう十五回も繰り延べにされていた。
「だが、草履があるだろう?」少佐が部下たちに言った。
「でも、素足に草履じゃ砂で火傷しちまいますよ」
「だから、なんだ? おれを見ろ。紺の軍服を支給されたんだぞ。暑くてかなわんし、きっと前線に出たら、格好の的だ。白い砂漠で紺は目立つからなあ」
「でも、わしらは将軍たちの期待を裏切ったことは一度もねえ。将軍たちがわしらを裏切ったことは何度でもあったが」
「じゃあ、将軍に面と向かってそう言うんだな。いいかげんにしろよ。靴ぐらい、前線に行けば、いくらでも手に入るじゃないか。死体から剥ぎ取れるんだからな」
「死んだ野郎が水虫持ちだったら?」
「あのなあ、お前ら。お互い、どうせ明日には弾に当たってくたばってるかもしれない身じゃないか。それが水虫を嫌がってどうする?」
「弾に当たった傷は治せるけど、水虫は治せねえですよ、少佐どの」
「お前ら、自分たちの部隊の名前をもう一度思い出せ。番号は思い出す必要はない。お前たちは第なんちゃら志願兵中隊だ。つまり、好き好んでここにいるってことだ」
「わしらは好き好んで、ここにいるわけじゃあないですよ。毎日、白まんまが食えるというから、兵隊になったんです」
すると、ラッパ卒が昼食準備のラッパを鳴らした。兵隊たちは道の端に寄り、めいめい雑嚢から乾燥野菜と乾パンを取り出して、むしゃむしゃ食べ始めた。
歩兵隊を後ろに残して、進むと、そのうち靴のない政府軍の死体が道のあちこちに転がり出した。赤服の親衛隊や濃紺の短上衣をつけた正規兵、それに獄からの放免と引き換えに兵隊になった盗賊崩れの囚人部隊の白茶けた軍服。歪に縮んだその死体たちは色も質感も土のようになってしまった顔をしていて、口をぽかんと開けていた。金ボタンや肩章、拳銃や弾丸、それにベルトなど金になりそうなものは全て奪い取られていて、兵隊たちの雑嚢に入っている。
丘の麓を回りこむと、剣のような大きな葉を生やした植物が見渡す限り、生えている場所に辿り着いた。
「大統領の竜舌蘭農園か」
馬を進めると、一面負傷兵だらけの涸れ川へ着いた。
「なにがあった?」
扇がたずねると、包帯を巻いた男たちが次々と答えた。
「畑の敵をやっつけろって言われて、中隊が五つ突っ込んだのさ」
「とんでもねえ量の弾丸を食らったぜ!」
「将軍に伝えてくれや。指揮官がいねえから、どうしたらいいか分からん」
「中隊長は三人が鉛弾をもらってくたばった。一人はまだ生きてるが、もうじき死ぬ。最後の一人は行方知らずだ」
「やっこさんなら逃げたぜ」
「逃げる? 逃げ場所なんてどこにあるんだ?」
「反対側の豆の木の茂み。すっ飛んでいきやがった」
「まあ、中隊長も命は惜しいわな」
「おれたちだって惜しいさ」
指揮官がなく、ボロボロになった中隊の兵士たちはみな各人の意志で動いていた。ほとんどのものは涸れ川の土手を半ば登って、頭と鉄砲だけを出して、竜舌蘭に隠れる政府軍を狙い撃ちにしていた。負傷した兵隊のうち、自分の足で歩けるものは後方へつながる道を酔っ払いのようによろめきながら歩き、歩けないものは自分の命をあきらめるために自分自身を説得するという困難な作業にあたっていた。
扇と時乃は老将軍に報告すべき材料を探してうろついてみることにした。しばらくすると、砲弾がつくった窪地で意外な人物たち――長崎の事件で知り合った二人の忍、十鬼丸と陣丸冥次郎を見つけた。もちろん二人ともありふれた絣と袴、刀を差し、剣付き鉄砲を手にして正体を隠している。
最初はどうしてこんな場所で会うことになったのかと思ったが、ちょっと考えてみれば、納得はいった。何の得になるわけでもなく日本じゅうの悪党極道を成敗してまわっている桔蝶とその仲間たちから見れば、この国の大統領は格好の的だ。イナバで一仕事することもあるだろう。だが、大統領を暗殺するにしてはずいぶんと的外れな場所にいる。忍び装束で夜闇に紛れて大統領宮殿へ忍び込み寝首を掻くのが忍びのやり口であり、銃弾飛び交う前線でスナイドル銃を手にする忍者など聞いたことがない。何かの間違いがあったのだろう。どうやら、それは本人たちもわかっているらしい。
ひょっとすると、桔蝶もいるのだろうか?
いた。髪を一束に結って男物のシャツとズボンでまんまと性別を隠せたと一人信じているらしい。
やはり、どこか抜けている。
扇は時乃を桔蝶たちから遠ざけてから、三人に近づいた。
「おお、扇ではないか」
「久しぶりだな。馬上からで失礼する」
「かまわぬ。しかし、長崎以来よのう」
「目当ては大統領か?」
「うむ。それと、いまわたしは男に変装しているが故、桔蝶ではなく、吉次郎と呼んでくれ」
「全然変装になってないぞ。一目で女と知れる」
「そんなことはない。冥次郎も十鬼丸もうまく変装できていると言ってくれている」
その冥次郎と十鬼丸は桔蝶が他の連中の目に触れないよう自分たちの背中で桔蝶を隠していた。だが、通りすがりの二人の兵士はちらと見ただけで、もう桔蝶が少女だとわかっていて、あんな年端も行かぬ少女も突撃に参加するとは惨いものだ、と言い合っていた。
当の桔蝶はそんなことは知りもせず、満足そうに言った。
「任務遂行は隠密を第一とする。これ以上は話しかけてくれるな。つれない言い様だとは思うが、仕方がないのだ。他のものから怪しまれるからのう」
そう得意げに言う桔蝶の腰から四枚の一尺刃がついた鉤爪籠手が下がっていた。少女兵士に似合わない物騒な武器を見た他の兵隊たちは、あれは殺し専門の忍者だ、誰かが大統領の首を注文したらしい、と当てずっぽうだが、さほど外れていない推論を交わしていた。彼らは桔蝶がいくらで大統領暗殺を請け負ったか、好き勝手に予想した。
別に必要以上に話しかけるつもりはもともとなかった扇は三人の忍から離れて、時乃とともに涸れ川を進んだ。
「さっきの女の人は知り合い?」
時乃がたずねた。
「そんなとこだ」
渇いた川は馬にまたがった扇の姿をすっぽり隠してくれる天然の塹壕となっていた。敵と味方の撃ち合いはずっと続いていて、涸れ川の縁で弾丸が弾けて乾いた土が飛び散った。敵の砲弾は涸れ川の後ろのほうへと飛んでいるので、干からびた川底でじっとしている限り、害はない。ただし、時おり臼砲から発射された弾が飛び込んでくることがあり、そうなると、一度の爆発で数人の兵隊がやられる。腕がある場所にちぎれた筋と血管がひっくり返した切り株のようになっていたり、顔の肉が削げたり、その他負傷者は銃を取り上げられた後、すぐに後ろへ歩かされる。そして、まだ銃弾の洗礼を浴びていない兵隊が来ると、軍曹が銃を渡して、涸れ川にべったり体をくっつけて、竜舌蘭のなかに見えた人間全てを撃つように命じるのだった。
涸れ川と竜舌蘭畑のあいだには隠れるもののない平地が五十間ほど開いていた。大勢の味方が倒れていた。革命軍の左翼はあの畑の火線を断ち切って突破しなければいけなかったが、指揮官を失い、からくも生き残った兵士たちはもう涸れ川を登らないし、突撃もしないと言い張っていた。
「突っ込もうにも中隊がバラバラじゃねえか」
「おれはもう突撃には行かねえ。誰か別のやつが行きゃあいいんだ」
「汽車はまだかよ? もう乾パンはうんざりだぜ」
「おい、やばい! 総大将が来るぞ!」
高杉晋作が二人の幕僚を連れて、涸れ川に姿を現わすと兵士たちは気まずそうに目をそらした。高杉は一目でこの前線の問題を把握すると長すぎる太刀を抜いて、涸れ川の緩やかな傾斜を登った。弾が飛んできて頭から麦藁帽子を撃ち飛ばしたが、それにも構わず、ただ一言、
「突撃!」
と、声を上げた。
そして、実際に竜舌蘭の茂みへと馬を走らせた。銃声とともに竜舌蘭の畑に帯状の白い硝煙が湧き、幕僚の一人が馬ごと薙ぎ倒された。高杉ともう一人の幕僚は竜舌蘭畑に突っ込むと、狂ったように刀をふるっていた。そのころには涸れ川で戦えるもの全員が総大将に続け! と騒ぎながら、涸れ川から飛び出した。革命あるところにその人ありと言われただけのことはあって、打ちのめされた各中隊の生き残りを一つの大部隊にまとめ上げてしまった。竜舌蘭の葉の影から放たれた銃弾で、兵士たちはバタバタと倒れていったが、それでも怯むことなく畑に到達し、政府軍兵士を銃剣で突き殺していった。
高杉の叫び声が聞こえた。
「おれたちは何だって分け合う! 戦場の危険、そして勝利もだ!」




