七の十九
売店の女房の叫びを聞かずに済むようにと扇と時乃は先を急いだ。いつの間にか銃声と砲声に慣れてしまって、まったく気にならなくなってしまった。自分目がけて飛んでくるのでない限りは弾のことを気にしてもしょうがないのだ。
馬首を並べてカッポカッポと蹄の鳴る音を、扇はぼうっと聞いていると、無聊を慰めるつもりか時乃が人差指で銃をくるくるまわして、銃嚢に入れてはまたくるくるまわすといったことを繰り返していた。よく見ると、人差指は用心金にひっかけてあるのだが、撃鉄は上がった状態だった。
「それも関介から教わったのか?」
「うん」
「天原でやれば、ちょっとした座敷芸になる」
「天原には泉はある?」
「池ならある」
「なら、座敷芸はしない」
「じゃあ、何をする」
「ホテルを経営する」
「それはずいぶんと壮大な夢だな」
「関介さんのホテルほど大きくはないけど、でも小さいホテルからだんだん大きくしていく」
「そのためには総籬株の許可を取らないといけないな」
「泰宗が言ってた。うちの楼主を興に乗せてしまえば簡単に建築許可が降りる」
「へえ。泰宗もそんなふうに裏工作を考えたりするんだな」
「ロースト・ポーク用のアップル・ソースを仕込めるコックと、きちっとしたベッドメイキングができるメイドを雇う。ランチ・メニューはコンビーフ・ハッシュとアップル・パイ。パイは季節によって果物を変えるけど、シナモンは必ず利かせる。どう思う?」
「何が?」
「このメニューのこと」
「おれに料理の良し悪しをきかれても困る。そうだな――天原に食べ物にいやしいやつを二人、甘味のために死ねるやつを一人知っているから、そいつらにきいたほうがいいと思う」
「じゃあ、そうする」
吹く風の機嫌で消えたり生まれたりする砂丘のせいで地図が使えず、あちこちに道に迷った部隊が一塊になって地面を掘っていた。谷があるはずが山があり、山があるはずが谷になると何を信用していいのか分からなくなり、これら疑心暗鬼に陥った部隊はとりあえず地面を掘って塹壕を作り、敵が来ても迎え撃てるようにしようとしていた。
右の砂丘の向こうから尋常ではない量の黒煙が上がっていた。町一つを燃やしたのかと思うほどの黒煙は弱い風に守られるようにして、形をゆっくり変えながら反対方向にある丘を煤だらけにしていた。丘からひょっこり水兵らしい男が現れて、道を通る兵隊や負傷者に四三三番対応のクランクを持っていないかたずねてまわっていた。ない、と答えられるたびに水兵は、四三三番のクランクさえあれば、親衛隊の赤服ともを皆殺しにできるのにと、しきりに悔しがった。帽子を叩きつけて髪をくしゃくしゃにしたり、胸をかきむしったりするその様子は大袈裟滑稽で、お涙頂戴悲劇の主人公のようだった――ああ、四三三番対応のクランクは神秘の霊薬なり、これさえあれば不治の病に倒るる婚約者を救えるのに!
「あんたのクランクは?」
扇に言われて、時乃はポケットからクランクを出した。握り手をカチカチまわし、スイッチを二つ弾く。
「四三三番になったわ」
「貸してやったらどうだ?」
クランクを渡すと水兵は富くじにでも当たったように飛び上がって喜んだ。そして、砂丘の急斜面を登り、「みんな喜べ! 赤服のクズどもを轢き殺せるぞ!」とわめき声を残して砂の丘の向こうに消えた。しばらくしてから、地面がぐらぐらと揺れ始め、崩れそうになった丘の向こうから桁のない帆柱が生えたかと思うと、白い軍艦の艦首が砂の尾根を二つに割って豪快に現われた。陸上甲鉄艦はそのまま前輪をしばらく空回りさせたが、すぐに砂丘を潰すようにしてドスンと乗り越えると、砂に刻み目をつけて、扇と時乃のいる街道と平行に並んだ。やろうと思えば、舷側にある六門の七五粍速射砲で扇たちを木っ端微塵に吹き飛ばし、例の不思議なクランクを横領することができる位置だ。前輪が四つ、後輪は四つ分のキャタピラで前甲板に三〇五粍主砲が二門生えた回転砲塔があった。シモウサで見た軍艦よりは少し小さいが、それでも蒸気戦車や二足歩行装甲兵器とは比べ物にならないほど大きい。
甲鉄艦の側面、車輪のあいだにある扉が開いて、折り畳み式の階段がかちゃかちゃと外へ、つまり扇たちのほうへと伸びてきた。艦の扉からまず見えたのは馬銜がついた馬の頭で、カッポカッポと馬が歩くと、鞍に座った艦長が現われた。紺地に金バンドの軍帽に金モールの肩章をつけた艦長は階段を降りると、軍帽の庇に手をやって扇たちに挨拶をした。
「まずはクランクをありがとう」
艦長はポケットからクランクを取り出して、時乃に渡した。
「このおかげで我が艦は戦列に復帰できる。徽章を見ると、きみたちは柳将軍の伝令兼斥候のようだが――」
「ああ」
「前線へはどうまわることになっているのか教えてもらえるかね?」
「右翼から左翼にかけて見てまわることになっている」と時乃が答えた。
「そうか」艦長は顎鬚をしごいた。「我々は左翼に行かねばならんが途中までなら同道できる。へそ曲がりの四三三番締め具のお礼もしたい」
扇たちは馬にまたがったまま、陸上甲鉄艦に乗り込んだが、艦は最初から馬に乗った人間が通ることを考慮して造ったように天井が高くなっていた。壁には蒸気を送るパイプや赤いバルブ、艦上生活での注意事項や禁止事項をまとめた貼り紙があった。扇はその紙を見たが、馬にまたがって艦内を移動することは禁止とされていなかった。そのうち、艦長は扇たちを秣がたっぷり積まれた艦内厩舎へと連れて行かれた。厩舎のある部屋は風が常に通り抜けていて涼しく、移動に伴う衝撃は壁や床の裏にあるバネで吸収できるようになっていて、さらに熟練の管理人が馬糧にリンゴの芯を混ぜてくれた。
「馬にとってはまるで天国のような空間だよ」艦長が言った。「陸上軍艦は偵察のために飛行船だけではなく、騎兵も使う。蒸気自動車でもいいが、石炭はできるだけ艦のためにとっておきたい」
艦長に導かれて主甲板に出るころには艦は平坦で広い谷間を進んでいた。一歩足を進めるたびに甲板長、当直士官、砲術士官、通信係が艦長に報告を行い、伝声管からは石炭の山がガラガラッと崩れる音とともに機関長の声がこのまま巡航速度を維持するのかたずねてきた。
艦長はそのことに全部答えたが、答えを探すために手帳を読み返したり、思い出そうと口を絞ったりすることなく、まるで相手の顔に全てが書いてあるかのようにスラスラと命令を伝えることができた。
「最前線には何があるか知っているかね?」
二人は首をふった。
「我が軍左翼には農園がある。大統領のお気に入りの農園、つまり大統領の農園だ。主に竜舌蘭を育てていて、その畑が南へ広がっている。つまり中央も竜舌蘭だらけということだ。畑以外にも屋敷、厩舎、機械工の作業場、灌漑水路、焼酎工場、それに焼酎を積み出すための駅がある――そうなんだ。政府軍が鳥取まで全ての線路を引っぺがさないのは大統領の焼酎工場に損を負わせないためなんだ。おそらく大統領は焼酎工場の収益を惜しんだために全てを失うだろう。わたしは兄二人を銃殺にされた。大統領の寿命はせいぜい残すところ四日といったところだな」
「戦争が終わったら、どうするつもりなの?」時乃がたずねた。
「この艦を作った国へ行くつもりだ」
「イギリス?」
「トサ国だよ。あそこで本物の船――海の上を進む船の船長になるつもりだ。もう、軍艦はいい。残りの船乗り人生は大砲を積んでいない船で過ごしたいものだ」
艦長はまっすぐ左翼の配置に向かわず、あちこちの歩兵や騎兵、そして砲兵たちに甲鉄艦を見せた。ただ、相手を吹き飛ばすだけならば、徳利爆弾でも足りる。自分たちの陣営にこれだけの兵器があるという事実は安心感につながり、士気を育む。
事実、左舷の下に走る街道では行軍中の兵隊が歓声を上げながら帽子をふっていた。鉱夫から成る歩兵大隊で銃剣の代わりに片手用のツルハシを腰からぶら下げていた。位置に恵まれた兵隊たちは南の太陽が砂につける艦の影のなかを涼しそうに歩いていた。
道の向こうは砂丘の稜線がゆるやかに上へ触れたり下へ触れたりしていて、さらにその向こうにはイナバに残った緑の山々が望めた。皮を剥がされた白兎のように緑を剥がされた砂の国では他国では当然のものが切なく見えた。遠くに見える緑の山々もそうだったが、ぴかぴかに輝く泉の水面や丁寧に手入れをされた武器も行き先の分からない慕情を誘った。水筒が立てる水の音で残りどのくらいの水があり、どのくらいずつなら飲んでもいいのかばかりを考えるようになるのも切なかった。
水兵たちは一日二回の竜舌蘭焼酎の配給を楽しみにして生きていた。彼らにとって世界は切ないかどうかではなくて、踏み越えられるかどうか、転覆するかどうか、自艦の装甲が破れる前に相手の装甲を貫けるかどうかという形で存在していた。それに歩兵たちがボロ服で戦っているのに対して、自分たちはきちんとした軍服を支給されていることを考えると幸せになれた。何せ歩兵や騎兵ときたら、指揮官の服が司厨室の見習いコックの服よりもお粗末なボロ服と来ている。だから、上は艦長から下は半裸の機関部員までが足と馬で動く兵隊に対して優越感を感じることができるのだ。
相変わらず遠くから銃と大砲の音が聞こえていた。ずっと成り続けているから、突然止まったりしたら、逆に気になってしょうがなくなるような気がした。まだ敵が見えない。左舷へ半里のところに砂を固めてつくった重砲陣地があり、時おりそこから腹に響く音がなって、黒い鉄と爆薬の塊が空へ勢いよく飛んでいくのが見えた。
それを暇な水兵たちが集まって、退屈そうに眺めていた。
「あいつら、ちゃんとどこに撃ってるって分かってるのかなあ」
「分かってないだろ。無線も電信もないんだ」
「なあに、この先に広がってるのは大統領の竜舌蘭畑だ。どこに落ちても、大統領の懐が痛むようになってるって寸法よ」
「そいつはけっこうな話だけどよ、ひょっとしたら味方の塹壕にぶち込んでるかも知れねえぜ。おれたちだって前線に行くんだから、もしあの重砲陣地がアホンダラぞろいだったら、こりゃどえらい目に合うじゃねえか」
「まさか。角度をちょちょいと合わせるだけじゃねえか。そんな難しいことぁねえぞ」
「お前は砲兵部にいないから知らねえんだろうが、砲術ってのは距離と角度だけじゃなくて、風向きとか、空気がどれだけジトッとしてるかとか、いろいろ計算しなきゃいけないんだ。うちだって弾道計算のための蒸気計算機を二つも持ってる」
「重砲陣地の連中は持ってるのかな?」
「蒸気が上がっていないところを見ると、たぶん持ってないな」
「なんでえ、結局適当に撃ってるんじゃねえか」
「うちの軍はそんなに重砲の弾が余ってたか?」
「ンなわけねえや」
会話は甲板長の到来で終わりとなり、水兵たちはそれぞれの持ち場へ散っていった。
艦が北東へ針路を変えることになったので、扇と時乃は艦を降りて、馬で南東を目指す道を取ることになった。
陸上甲鉄艦はさよならの挨拶に号砲を一斉に放った。そのまばゆい砲火で万物の色彩を燃え上がらせたのだが、艦はもうその美しさの余韻をバラバラにするくらいけたたましい音を鳴らして、丘と丘のあいだの谷間の道へと曲がっていった。ただ艦の震動と騒音については、まるで目に見えない陸上艦の幽霊に取りつかれたように、その後も三十分近く付いてまわった。