七の十一
この国の大統領の唯一の美徳は母親に対する孝行だった。大統領に就任したとき、母親はもう七十を越えていたが、大統領は母親のために海岸沿いの一等地に宮殿を作った。そして、食卓にいつでも新鮮な果物や野菜が用意できるようにと、五十二種類の作物を育てる大農園を宮殿の隣に立てて、周辺の住民をさらって奴隷労働に従事させた。また、母親の誕生日を祝日に定め、大統領の少年時代の親孝行にまつわる美談を小冊子にまとめて、学校に配り、子どもたちに暗唱させた。暗唱させることができなかった教師は親衛隊に連れていかれて、こっぴどく殴られた。大統領と母親に関するささいな冗談を言った納豆売りを縛り首にして、ぼろきれのようになるまで町の広場の電柱に何ヶ月も吊るしたこともあった。
大統領がどれだけ母親を愛していたかは、母親の生家は国宝に指定され、そのそばには国民がその生家を訪れることができるよう、日本でも有数の巨大な駅をつくったことからも窺える。大統領の母親が生まれたという茅葺きの百姓小屋以外、何もない土地にヨーロッパの主要都市にあるのと同じ大きな駅があるのだ。十五本の鉄道が集結するようにしたその駅舎は大統領あこがれのサン・ラザール駅を意識したガラスと鋳鉄の五階建ての巨大建造物であった。駅中央は地下一階から五階の天井までの吹きぬけでコリント洋式の柱でガラスと透かし彫りの鉄の屋根を支えていた。一階に乗車券販売窓口が三十ほど並んでいて、欄干から地下のプラットフォームに停車しているフランス製の機関車を見ることができた。駅に組み込まれたホテルやレストランのために製氷工場が付随していて、新鮮な鮭のレモン添えやアイスクリームを食べることができた。あらゆるところに大統領とその母親の引き伸ばし着色写真が貼られていて、土産屋の絵葉書も大統領と母親が並んでいる絵、幼い大統領を抱く若いころの母親、生家の写真を売っている。
この駅の利用者数は年間で三十人を越える。維持費等を差っ引くと毎年、十万円の赤字、万延小判にして十万両の赤字を出していることになる。
さて、砂漠にぽつんと建つ巨大駅舎を扇は正面入口から見上げた。スイスから輸入した巨大な時計がてっぺんにはめ込んであって、両脇には大統領と母親の巨大肖像画がかかっている。フランスというのは文化や流行の発信源として知られているらしいが、そのフランスにかぶれた人間はもれなく悪趣味である。フランスの不思議だ。
あれから扇たちは、関介のホテルの前に散らばった死体の処理を野生動物たちにまかせて、西へ歩いた。ついていないことに爆発と戦闘のせいで厩舎が壊れ、脅えきった馬はみな逃げてしまったのだ。一夜を野宿して豆の缶詰で空腹を満たした。翌朝、人気のない場所へ逃げる必要があると扇がいうと、時乃がこの駅の名前を挙げた。年間に三十人しか利用しない鉄道駅ならば人もおらずガランとしているだろう。
「でも、従業員は?」
扇の質問に時乃は肩をすくめた。
「雇われていることになっている。けど、どの乗車券売り場にも売り子はいない。レストランにも、鉄道ホテルにも、誰もいない。雇ったことにして支給された給料を鉄道大臣が懐に入れてるから、結局、誰もいないの。それに親衛隊のやつらが追ってきてもここなら安全よ。もし、わたしたちを狙った弾が大統領の母親の絵か彫像に命中すれば、その不運な殺し屋は明日にはギロチンにかけられることになるから」
「本当にどうしようもない国だな、ここは。機関車を動かせる機関士は?」
「もちろんいないわ。さっきも言ったとおり、雇ったことにして給料を懐に入れてるの」
「じゃあ、どうやって機関車を動かす?」
時乃はポケットから小さなクランクを取り出した。例のピアノを地雷爆破装置に変えたあれである。ニッケルメッキに磨かれた樫の握りがついている。クランクの差込部分の形は星形をしていた。
時乃は、もしものときはこれを使うようにと関介から、このクランクをたくされたと言い、この国にあるたいていの機械はこれで動かせると扇に説明した。いくつもの金属製の細い棒がクランクの差込部分を構成していて、握りにある目盛りとスイッチを操作すれば、どんな機械にもピタリとはまる。久助がいれば、いろいろ分かるだろうが、少なくともこの小さな金具が昨夜の危機から扇たちを救ってくれた事実がある。それを信じよう。
「そういえば」と泰宗。「懐に入れる、で思い出しました」
泰宗は内ポケットから六代銀行の預り証を取り出して、時乃に渡した。
「それを換金して天原で安全に暮らして欲しいというのが、関介さまの願いですが――」
「あの人の仇を討つ」
「そう言うと思っていました」
がらんとした駅の一階には空っぽの乗車券売り場の鉄格子が監獄のように並んでいて、地下のプラットフォームには機関車はおろか貨車の姿もなかった。大統領は駅をつくった後、幼いころのみじめな生活を思い出す家をわざわざ残すことのあほらしさに気づいて、駅をそのまま放置していた。一階中央の大統領の巨大人形は油を差さなかったばかりに砂を噛んで動かなくなり、レストランのレンジにはゴキブリが盛んに卵を産みつけ、ホテルの部屋は浮浪者や盗賊たちのどんちゃん騒ぎで痛めつけられていた。この駅で損なわれずに残っているものは大統領の母親の肖像だけだった。
「はてさて」泰宗は一本つけて言った。「これからどこに行ったものか?」
「西に行く」と時乃。
「西?」
「反乱軍の支配地がある」
地下のプラットフォームに降りる。鉄道会社は採算の取れない駅には南京豆運搬用の貨車一両だって置いたままにしたくないとして、あらゆる車輌を引き上げさせていた。
ところが、まるで三人が西へ行くことは見えざる手で運命づけられていたかのように、唯一残った車両が西へつながる線路の上に残っていた。四つの車輪の上に板を一枚置いて、片方を持ち上げると片方が下がるシーソーのような手動式推進棒をつけたみじめな代物で、扇と泰宗が自然その棒を上げたり下げたりして、トロッコの出来損ないを西へ進めることになった。
キイキイと耳障りな音を上げながら、人力トロッコはゆっくり西へと走り出した。漕ぎ始めて五分くらいのあいだは左右にも線路が敷設されていたが、時が経つにつれて、線路と線路のあいだは離れていった。左右の線路との感覚が百間を超えるころになると、何もないように思われた砂漠の鉄道にいろいろなものが見えてきた。線路工事夫たちのキャンプの跡地や梯子を引っ込めれば敵は下から上がることができなくなる木造銃舎、丘の上から垂れる一筋の水を貪欲に吸い続ける潅木の林、持ち主が商品を全部酒手にして飲んでしまったために潰れた辺境交易所の焼け跡、根性のない砲兵隊が置き去りにした三十ポンド砲。
線路が弧を描きながら丘のふもとを回りこもうとするところで、扇は鉄の軌道から異様な震動を感じ取った。同じものを泰宗と時乃も感じたらしく、お互いに手を止めて、耳を済ませた。
丘の向こうから上がる異様な量の黒煙に気づいた瞬間、火だるまになった機関車が丘をまわって扇たちのもとへ突っ込んできた。給炭車に月桂樹に囲まれた大統領の肖像が描かれたその機関車は轟々と炎を吹き上げる貨物車輌を三つ引いていて、それが突然目の前に現われたものだから、扇と時乃は左へ、泰宗は右へ体を投げ出さなければいけなかった。彼らの人力トロッコは高馬力の青い機関車に弾き飛ばされ、空中で一回転して潅木の木立に落っこちた。
機関車の前面にある煙室扉には大統領の甥が二人手錠でつながれていた。大統領の威光を笠にきて乱暴狼藉婦女暴行の限りを尽くした悪名高き二人の甥は自分たちを助けたものに金貨百枚を授与するという申し出を半ば絶叫するようにして敷衍していたが、いかんせん機関車の速度が速過ぎて、二人の存在に気づいたと思ったら、もう機関車は東の彼方へと去っている。
正面に大統領の甥を飾った青い機関車が巨大な駅舎の地下へ突っ込んだ瞬間、燃え上がる貨車のなかで火薬樽に火がついた。
十年の月日と奴隷労働と建設費のピンハネの末に完成した巨大駅舎はバラバラに吹き飛んだ。すぐそばに立っていた大統領の母親の生家も爆炎に飲み込まれ、黒くべったりとした煤を含んだ黒煙に拭い取られるようにして消滅した。
反乱軍は二人のクズを処刑するのにだいぶ派手な執行手段を選んだようだ。火薬に関することであれば何であれ、狂気の予兆を感じずにはいられない扇がたずねた。
「反乱軍が大統領よりもマシな連中だって保証はあるのか?」
「ない」
時乃は切り離すように答えた。