一の十一
「もしかして、道に迷ってます?」
迷ったことに狼狽して、声の持ち主を間合いに入れたことにまったく気づいていなかった。〈鉛〉は自分の油断が慢性的になっていることを心のなかで毒つく。
ふりかえって見ると、少女が一人。洋服男装、折り返しに控え目な桜花模様を散らした黒ビロードの陣羽織を角帯で結び、プロシア拵えの片手打ち刀二本を差している。
「だったらなんだ?」〈鉛〉は天原に来て以来、いったい何度この言葉を吐いたかと考える。
「出口まで案内してあげます」
「案内はいい。道順を教えてくれ」
少女はそれに答えるかわりにくりっとした目が特徴的な幼いつくりの顔にずるっぽい微笑みを浮かべて、藤座の暖簾をちらりと見た。
おごれと言うことなのだろう。〈鉛〉はため息をついた。任務遂行のために協力者を金で釣る術は教えられているが、まさか道に迷ったのを何とかするために食べ物で人を釣ることになるとは。
藤座の暖簾をくぐると、小さな庭に大きな池――と見えたのは玉砂利を敷いた枯山水で岩や常咲きの藤を中心に水の波紋に似た模様が付けられていた。
屋敷の玄関に入るなり、女中がやってきて、座敷か食事か、たずねてきた。
「食事でお願いします」
土間は左の通路へ伸び、一度に三十人が食事を取れる大部屋につながった。いくつもの卓と腰かけが並んでいて、編み籐の衝立で区切られている。ほとんどが職人らしい客で埋まっていた。部屋の四辺の一つはガラス製の蒸気加温台が並んでいて、そのなかには玉子焼きや汁物があった。客は硬貨を入れて、ガラス扉を開け、中の料理を取っていく。〈鉛〉と少女が空いている卓にかけると、早速、女中が注文を取りに来た。
「貝柱ご飯を一つ。あなたも何か食べますか?」
「なんでもいい。腹に入れば」
「じゃあ、同じものを」
女中は「厨」と染め抜かれた暖簾の向うへ消えた。
「あ、自己紹介がまだでした。時千穂すずと申します」
少女はぺこりと頭を下げた。
「帯刀してるな」〈鉛〉がたずねる。
「はい。これでも師範代なもので」
「師範代?」
「はい、時千穂道場の師範代です。時千穂道場では時千穂流兵法、時千穂流剣術、時千穂流棒術、時千穂流居合術、時千穂流二刀術、時千穂流体術、時千穂流手裏剣術といった具合にいろいろな武芸を教えてます。あ、もし良かったら、入門しませんか? 入門料、今ならおまけしますよ」
「必要ない」
「そうですか。生活の役に立つ武芸なんですけどね。今、こうしたわたしがご飯にありつけているのも、時千穂流兵法のおかげなんですよ。時千穂流兵法『敵懐兵糧の計』。敵の弱みをつき自軍の兵糧を敵の懐で賄わせる兵法の妙技です」
「ただのたかりだ」
「まあ、そう言う人もいます。でも、時千穂流兵法にかかれば、たかりも立派な戦術になるのです。時千穂流兵法『偽軍鶏の計』。どんな鶏も蹴爪をつければ、軍鶏に見えるように、生活のほんの些細なこともそれっぽい名前の技にしてしまえば、何となく強そうに聴こえるというわけです。どうですか? 入門したくなってきません?」
「今のを聞いてますます入門がありえなくなった」
「そうですか。あなたもなかなか頑固な人ですね。あ、そういえば、名前をまだ伺っていませんでした」
「扇だ」
この名前を口にするのは違和感があるが、三三二〇番や〈鉛〉では説明をしなければならないのが、わずらわしい。〈鉛〉はそう思って、白寿楼での通り名で通すことにした。
「扇ですか。わたしの名前はすずです。あなたがパタパタ扇げば、わたしはチリンチリン音を鳴らすことになりますね」
どうでもいいことをいうやつだ。〈鉛〉は店の天井に視線を彷徨わせる。
すずの左手首に赤い紐でつけている小さな鈴がチリンと鳴った。
見ると、女中が二人分の飯を卓に置いているところだった。貝柱に刻んだ三つ葉を卵でとじたものが炊き立ての飯に乗っている。
すずが手を合わせて目を閉じ、
「それでは、いただきます」
こいつはおかわりを要求するだろうかと思いながら、玉子と貝柱を口に運ぶ。少女は黙々と食べている。一杯食べ終わると、また手を合わせて、ごちそうさまでした、と軽く礼をした。おかわりはないらしい。
勘定は〈鉛〉が払い、百文銭一枚で四文のお釣り。
藤座を出ると、〈鉛〉は、
「約束どおり、案内してもらうぞ」
「はい。ついてきてください」
すずもまた〈鉛〉同様に西へと道を取った。だが、不思議なことに街並みが少し変わったように見える。これまでなかった横町が口を開け、道の幅がやや広くなり、通り全体が左へと緩い弧を描いている。賑わう人の顔ぶれも以前と異なるような気がする。
ちょうどトの字のように道が分かれるところで。すずが立ち止まった。真っ直ぐ行けば道は続くのに対して、斜めに曲がれば、左右に松の生える道があり、その行く先は瓦葺の大きな料理屋の門につながっている。
すずがまたずるっぽく笑った。
またか。
〈鉛〉はため息をつくが、ここですずがいなくなると、また道に迷って堂々巡りになる気がしたので、仕方なく料理屋の門へ進むことを自分に納得させた。
門の左右には格子に区切られた小さな部屋があり、なかに「千客万来」「魚処天狗」と黒字を走らせた大きな提灯がぶらさがっていた。
門と建物のあいだは一尺の隙間もなく、門をくぐると、そのまま料理屋につながった。高い天井にいくつものランプが下がり、建物の壁を全て取っ払ったような三十間四方の巨大な食堂は人で賑わい、柵で囲った厨が十以上あった。ある厨では寿司を握り、ある厨では煮魚を出し、ある厨では牡蠣をフライにしていた。肝心の魚は床の下の生け簀で泳いでいた。ところどころガラスになった床からは鯛や鯖、海老、蛤、縞鯵がいるのが見える。
すずが選んだのは天ぷらだった。海老天、白魚のかき揚げ、海苔のかき揚げ、鱚天、アナゴ、蟹の爪……次々と揚げられる天ぷらを健啖少女は白米のどんぶりとともに大いに食べた。この小さい体のどこにこれだけの食べ物を詰め込めるのか、〈鉛〉は不思議に思う。
「ごちそうさまでした」
勘定を終え、店の外で出ると、すずは小鳥をくわえた猫のように幸せそうに目を細めた。
「満腹になったか?」
「はい、それはもう」
「じゃあ、帰り道の続きだ」
「まかせてください」
貸座敷の並ぶ通りに出た。幅三間の道を挟んで、竹林と二店が交互に並んでいる。店は大体二階建てで座敷から前庭を見下ろせるように露台が組まれている。前庭には鯉の泳ぐ池と松が一本、敷地は低い柴垣で区切られていた。遊廓ほどではないが、ここもどれだけ派手に金を使うか競い合うような雰囲気があった。道のあちこちではおひねり目当ての幇間が不自然なほど白い歯を見せて笑いながら、羽振りのよさそうな武家や洋髪の当世紳士におべっかを使う一方、燕尾服の蒸気成金は石炭成金と連れ立って芸者を二十人引き連れて、店を一軒貸し切っていた。
すずはもう満腹だと言っていたし、まわりの店も少女が一人で入っていくような店ではなかったので、もう奢らされることはないだろう、と〈鉛〉はすっかり油断しきっていた。
だから、すずが道の脇の竹林の前で足を止めて、例のずるっぽい笑みと視線を行使し始めたときには、〈鉛〉もうんざりした色が言葉に滲んで、
「さっき満腹だって言っただろ?」
「はい。でも甘味は別腹です」
「甘味を売る店なんて、ここにはないぞ」
「ところがどっこいなんです」
すずがニコニコしながら竹薮の根元を指差した。鬱蒼と茂る竹のあいだに狭い木道が走っていて、それが竹薮の奥に通じている。大人一人がやっと通ることのできる幅で、その奥は竹が切り払われていて、軒にからくりカンテラを吊るした茅葺きの甘味茶屋が一軒建っている。
「知られざる名店です。ここの蜜豆は最高です」
「もうなんでもいい」
「そんなこと言っても実際に食べてみれば、わあ、すごいって思うこと間違いなしです」
茶屋には老婆が一人、すずとも顔見知りらしく、すずを見て、〈鉛〉を見て、全てを悟ったかのようにうなずいて、蜜豆を二皿用意し始めた。どうやら、道に迷ったものに出口までの案内と引き換えに食事を奢らせる行為は常習的に行われているらしい。
ひし形に切った寒天、蜜柑、さくらんぼ、桃、そして赤エンドウマメを盛ったガラスの皿に黒蜜を入れた小さな容器が添えられ、冷茶が白い湯のみに入って、一つの盆にまとめて供される。
すずは手を合わせて、いただきます、と言うなり、蜜を全部かけ、果物や寒天を一つずつ愛おしむように味わって食べ始めた。
〈鉛〉も食べてみたが、確かにうまい。黒蜜は濃くとろりとしていて半次郎の汁粉のように見えたが、口にしてみると別物でくどい甘みはなく、程よい加減に押さえられている。
「今度という今度こそ」と茶屋を後にし、通りに戻った〈鉛〉が釘を刺す。「ちゃんと出口まで案内しろ。もう何も奢らないからな」
「はい。じゃあ、ついてきてください」
それからほんの三分、貸座敷の並ぶ道を歩くだけで万膳町の出口に着いた。〈鉛〉は責めるような目で、すずを見たが、すずはどこ吹く風の態でニコニコしている。
「なんだか、納得がいかない。特に最後の甘味について」
「でも、約束どおり出口まで案内しました。それに扇さんもおいしそうに食べていましたよ、蜜豆」
「別においしそうになんて食べてない」
「そうでした。扇さんは頑固なんでしたね。じゃあ、わたしはこれで。自分の道場に戻ります。廓のほうへはこの天原堤の道を取っていけば、十分くらいで着きます。また、道に迷ったら、ぜひ声をかけてくださいね」
誰がかけるか。〈鉛〉は飛び出しかけた言葉を飲み込み、できるだけそっけない顔でその場を離れる。
その背に、時千穂道場に入門したくなったら、いつでもどうぞ、というすずの声がかけられた。