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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第一話 〈鉛〉の扇と〈的〉の虎兵衛
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一の十

 二つの担架は白寿楼を出て、廓の裏道から惣門そうもんのほうへ向かっていた。惣門を通り抜けると、人足たちは、えっほえっほと駆け出した。

 担架に仰向けになった〈鉛〉の目の先には幼い齢の月が絹のように滑らかな灰色の雲のあいだで控え目に光を放っていた。担架はそのうち賑やかな町のような場所に入った。声真似芸や三味の清掻すがかきが二階の座敷から聞こえ、魚の焼く匂いと旨煮の匂いが暖簾越しに鼻をくすぐり、幾十とかかった大きな幟が月を遮った。

「ここァ万膳町」担架人足が言った。「天原の胃袋だ」

 大夜の担架は前を走っているらしく、天ぷらだ、アナゴの天ぷらが食いたい、食わせろ、と大声で駄々をこねているのが聞こえてきた。

 えっほえっほ。客や芸人でごったがえす道を人足たちは拍子を崩さず、走っていく。

「万膳町は気をつけなきゃあならねえ」時おり人足はえっほえっほの調子を止めて、誰に言うわけでもないように言う。「道が生きてやがっておれたちを迷わせようとしやがる。おれたちでも、ときおり迷うくらいでなあ」

 そして、また、えっほえっほと調子を戻す。

 担架はどれだけ走ったのだろうか? しょっちゅう道を曲がっているような気もするし、ずっと真っ直ぐ走っている気もする。意識を集中させるのも疲労のために適わず、気を失わないのが精いっぱいだった。道はますます人でいっぱいになり、大夜の気配がしなくなった。ごま油でニンニクと豆腐を揚げた匂いや鰻の頭に釘を打つ、トン、という音、娘義太夫の贔屓を熱心に論じ合う声、担架人足のかけ声が、えっほえっほ、と途切れることない。

〈鉛〉はずっと夜空を見上げていたが、それでも左右の軒のあいだが狭まってきているころから、自分が今、表通りを外れた横町にいるらしいことくらいは察しがついた。

 担架は料亭の通り抜け通路をくぐり、手ぬぐいが干してある中庭をいくつか抜け、米を炊く釜が十も並んだ細長い台所を通り抜けることもあった。

 そして、喧騒が遠くくぐもって聴こえる袋小路で担架が下に下ろされた。

「おい、兄さん。立てるかい?」

「……」

 言葉の代わりに喉の奥からかすれた呼吸の音がした。

 しゃあねえな、と人足たちは頭をカリカリ掻いて、一人が足を、もう一人が脇の下を持って、行き止まりの町家へ〈鉛〉を運んだ。人一人がやっと通ることができる狭い入口で〈鉛〉の両手が左右の壁にぶちあたり、そのたびに全身に鈍い痛みが走って、ウウ、と呻く。壁が竹材でできた少し広い部屋に出た。粗末な手編みの籠が棚に四つ並んでいて、その反対側には湯船があるらしい暖簾掛けの出入り口があり、時おり風の塩梅で湯気が脱衣所に漏れている。

「さすがに服くらいは脱げるだろ?」

「……」

〈鉛〉は板材の床の上に横たわり、ただ口を閉じて二人の人足の顔を見上げた。すると、二人の人足――髷をゆった大男と洋髪の中背がお互いを見やった。そして、ふう、やれやれ、と言いつつ、〈鉛〉の服を脱がせにかかった。

「おい、甚八」髷をゆった大男の人足が〈鉛〉の上衣を引っぱりながら言った。「まさか白寿楼に出張って、女郎を裸に引ん剥く代わりに野郎の服を剥くことになろうたァ夢にも思わなかったなあ」

「ちげえねえや、熊公」洋髪の人足がズボンを引っぱりながら言った。「でも、九十九屋の旦那からぁ、たっぷり酒手ははずんでもらったしなあ。せっかく万膳町にいるんだから、寿司でもつまんで、一杯ひっかけてから帰ろうや」

「それがいいや」

「そうと決まれば、善は急げだ」

「みろや、甚八。こいつ、すげえ痣だらけだ」

「大夜と殴りあったんだと」

「ひょええ、おっかねえ。なんべん頭ぶつければ、パァになって、そんな馬鹿な真似ができるかねえ」

「おい、足ぃ持て。一、二の三でポイだ」

 人足たちは裸になった〈鉛〉を湯室へと運びこむなり、一、二の三で湯船に放った。背中からザブンと落ちて、溺れかけたが、体に残ったなけなしの力を使って何とか自力で湯船の縁の切石にしがみつき、無事に顔を湯から出すことができた。

 放り込まれたとき、温泉の深さは人の背丈よりもあり、広さは三十畳くらいありそうに思えたが、何とか体を石に預けて、ゆっくり湯につかる余裕ができると、湯船は切り石で囲まれた狭いもので四、五人の大人が入れば立錐の余地もない代物。深さも腰と膝の中間くらいだから、落ち着いてみれば大したことはない。隅には鬼瓦でこさえた吐水口があり、牙を剥いたその口から温泉が流れ出していた。鬼瓦とは羽衣湯の名と雰囲気が合わない。

〈鉛〉は頭をすべすべになった石の縁にあずけ、見上げると、四方を囲む板塀に屋根の代わりに大きな葦簾が一枚乗せてあるだけで、湯気は逃げたい放題になっていた。

 それを見ながら〈鉛〉は、

「あー……」

 締まりのない声を出して、ギクリとしたが、そのギクリさえもほぐしてしまうほど、気持ちのいい湯だった。

 体じゅう棒で殴られて痣だらけだったが、痛みが少しずつ和らいでいく。

「楽園、か……」

 そうつぶやくと、体じゅうをつねられたような恥ずかしさに襲われる。

 三三二一番は楽園を見つけられなかった。

 どうして、やつのことを思い出すのだろう?

〈鉛〉の知る限り、三三二一番は最高の技術を持つ暗殺者だった。人を殺すことに躊躇いを見せないどころか、目的を隠して陽気に近づいて、相手が信用した瞬間を狙って裏切り、そして、ゆっくりと殺す。

 振り返ってみると、三三二一番とはよく組んだ。趣味の悪い殺し方をするやつだとは思うが、腕がいいのは確かだった。任務をより確実に遂行するためなら、趣味の合わないやつとだって手を組む。道具なら当然だ。

 その三三二一番が脱走したとき、〈鉛〉はただ「なぜ?」と思った。理由は死にかけた本人からきいた。

 結局、三三二一番は道具になりきることができなかった。

 三三二一番は楽園を見つけることはできなかった。

 自分はどうなのだろう?

〈鉛〉の脳裏に一瞬だが、自分は三三二一番が探した楽園を見つけようとしているのではないかという考えがよぎる。ほんの一瞬だ。

 そんな馬鹿なことを考える根拠は湯の心地良さだけではない。他にもいろいろある。ただ、それを言葉でまとめるには〈鉛〉の感情は死に過ぎていた。

 鬼の顎から流れ落ちる湯の音に隠れるようにして、表の通りの声と物音が無防備な〈鉛〉の耳に触れてきた。こはだァーのぅ、こはだァー、と高い声と手拍子を打つのがきこえてきた。さっきの二人は寿司をつまむといっていたから、ひょっとすると、鮨売りに声をかけているところかもしれない。

 どうして、おれがそんなことを考えないといけないんだ?

〈鉛〉は外からきこえてくる音を全て無視しようとした。そんなくだらないことを考えること自体、道具にあるまじきことだ。しかし、意固地になって無視しようと思えば思うほど、外の賑わいがかすかに、ただし、しつこく耳に入る。女義太夫で肩衣をつけたのァ吉家きっかが始めだ、いや小伝こでんが先だと言い合い、紐で吊るした竹の筒がぶつかり合ってカランカラン、何に使うのか蒸気機関のぴぃーっと甲高い呼子笛のわめき声、何十という履き物が石畳をヒタヒタカツカツと踏む音、縁起を担いだ火打ち石の切り音。こういった音たちの境目があいまいになり、全ての音が、湯が注ぎ込まれる音に混じるころには、湯の心地良さで〈鉛〉の意識もぼうっとしてきた。

 こんな状態で敵に襲われたら、ひとたまりもない。はやく風呂から出ろと、経験が警告するが、体じゅうの青あざはもう少し湯につかろうと誘ってくる。

 それにいつの間にか抗えなくなった。

 自分が出たくないのは、この湯からか、それともこの天原からなのか、これまで考えもしなかった疑問が浮かび、〈鉛〉は歯を食いしばる。こんなことを考えるのは、この土地独特の雰囲気のせいだ。

 やはり出ようと思い、立ち上がると、痛みが消えていた。心なしか痣の色も薄くなったように見える。薬用は十分あったわけだ。

 脱衣所で服を身につける。刀と棒手裏剣は白寿楼に置いたままにしてある。一朱銀や五文銭、あるいは紙幣の形でおよそ一両分の金子を入れた革の薄い袋が一つ、ズボンのポケットに入ったままになっていた。機関から給付された金の一部で、残りの二十両は行灯部屋に無造作に置いてある。金は〈的〉を仕留めるまでの天原の滞在費として渡されたものだったが、今ではもう使い道はない。白寿楼の使用人と混じって、掃除だの米とぎだのをする代償として、住む部屋と三度の簡素な食事を得ている。

 狭い通路を通って、ようやく表へ出た。〈鉛〉の予想どおり、羽衣湯は料理屋の塀や裏口が並ぶ人通りのない道の袋小路にあった。羽衣湯はそうと教えられなければ、わからないほど小さな廊下を入口にしていて、よく見ると煤で真っ黒に汚れた扁額に『羽衣湯』と筆がすべり、彫り刀が穿った跡が見つけられる。

 羽衣湯は〈的〉の言うとおり、素晴らしい効能を持つ薬泉だった。空を飛ぶ島に湯が湧くことは腑に落ちないが、それでも半刻前まで疲労困憊で打ちのめされて自分で服を脱ぐこともできないくらいに弱っていた体が、今では手の平に熱を持ち、激しい運動の対価と復活の証として栄養を求めている。

 万膳町というくらいだから、料理屋はいくらでもあるだろう。そう思いながらも、〈鉛〉はまずは白寿楼に戻ることを先決にしようと考えた。もし、大夜がまだ温泉に入れば、〈的〉の警護はそれだけ隙を生む。もちろん、半次郎と泰宗の二人がいるだろうが、それでも、ほんの少しでも確率が上がるのならば、今すぐにでも任務を遂行すべきだ。

 最初に〈的〉を仕留めるのに失敗してから二日、天原に潜入してからもう五日経っている。

 たとえ、この任務の後、粛清されるとしても、あの〈的〉だけは自分で仕留めたい。他のやつに仕留めさせたくない。

〈鉛〉は袋小路から歩き出し、通り抜けになっている料理屋の廊下を過ぎ、表の辻へと出た。四方の屋はみな料理屋、空にかかる星で見た限り、東の道は小さな赤い鳥居へとつながっていた。南は来た道戻りで料理屋脇の廊下、西と北は天ぷら屋や湯豆腐を出す店が並んで、また別の辻や曲がり道につながっていた。

 この町は一見迷路のように見える。だが、〈鉛〉は彼を運んだ担架が白寿楼を出てからずっと東へ向かっていたことを覚えていた。星を見れば、西がどちらか教えてくれる。

 西へ。石垣と竹の壁で囲った料亭の外周をなぞるように歩く。竹の壁の向こうからは客の大声や芸者の三味線に負けず、台所の煮炊きがゴトゴトブクブクと聴こえてくる。ちょうど入口の門の前を通りかかる。瓦葺の小さな門にかかる藤色の暖簾には鰻のように太い文字で「藤座」と白く染め抜かれている。

 また別の辻にぶつかる。このあたりまで来ると、もう閑散としているとは言えない。むしろ賑わっているといっていい。羽織袴に山高帽、皇帝鬚を生やした当世紳士風の旦那が人力車に引かれていくのが見えた。料理屋の呼び込みを勤める子どもや老婆が、自分の店の板前がどれだけ優れた庖丁さばきをするかをやかましく主張し、仕入れた食材はどれも最高で唐の皇帝だって手に入れられないと吹聴し、こんな素晴らしい料理を口に出来ないのは生きながらにして死ぬも同然だと、ご丁寧に生死にまつわる哲学まで講義してくれる。軒先に点る提灯の不安定なゆらゆらとした赤みは怪しく、四角い柱行灯の「めし」「なべ」「さかな」「洋食」の文字を縁取る光は異国製の石油を焚いて得たもの、河豚や牛鍋、鯵のたたきを描いた回り灯籠が頭の上でくるくる、料理屋の塀の足元が一部くぼみ、屈んでみると中では小さな地蔵が笑っている。お供えには金平糖をつめた小瓶。

 きっと昨日の屋台で売られているものだろう、と〈鉛〉は思う。

 どうしておれはこんな余計なことを考えている?

 すっくと立ち上がり、早々に地蔵から離れる。はやいところ、白寿楼に戻らなければ。

 幅二間の道に出たが、まるで提灯の博物館にでも迷い込んだようだった。四角、筒型、ひし形、六角柱と八角柱。菜種油、荏胡麻えごま油、ケロシン、ガス灯もいくつかある。多様な灯の下で空きっ腹を抱えて込み合う人々がメダカのように好き勝手な方向へ足を運ぶ。その先には料理屋や貸座敷がある。立ち食いの店では半纏に股引姿の日に焼けた男たちが海苔の浮かぶすまし汁をすすっている。

〈鉛〉は通りを西へ歩き続けた。そのうちまた狭い道に入り、右手には馴染みの客が入った料理屋がいくつか並び、左手には竹の柵がはめ殺しにされた土壁が脹れるように続いている。窓からは魚を焼く匂いがした。

〈鉛〉はおかしいと思い始める。北極星を右手に眺めて、だいぶ西へ歩いているが万膳町を出られる見込みがない。むしろ、ますます深みへと潜っていくような気すらしてくる。人の顔が印象を失い、同じものに見えていて、ぼんやりと点った灯のそばでは、全てのものが輪郭を失いかけている。

 気のせいだろう。〈鉛〉はそう考えたが、何度も同じような店の並びや辻、人ごみを見るうちに堂々巡りをしているのではないかと思い始めた。

 塀の足元が少し窪んでいるのを見つけると、〈鉛〉はまさかと思いつつ屈んで、そして、そこに笑う地蔵を見つけた。お供えは壜詰めの金平糖。

 同じような地蔵があるだけだと自分に言い聞かせて疑念を払いながら、歩くが赤い鳥居を過ぎ、辻にぶつかったところで〈鉛〉は、まさかと思いながら、四方を見た。西と北には天ぷら屋と湯豆腐屋が並んでいて、別の辻や曲がり道に通じている。東は来た道で赤い小さな鳥居がある。そして、南は薄暗い廊下の入口。南へ進み、袋小路に煤で汚れた「羽衣湯」の看板を見つけて、疑念は確信に変わった。

 まるでキツネに化かされているかのように同じ場所をぐるぐるまわっている。北極星を常に右手に見つつ、ジグザグではあるが、ほぼ真っ直ぐ西へ向かったつもりだった。だが、現実は〈鉛〉が出発点に戻ってきたことを告げている。

 道に迷った。担架人足の言葉がふいに脳裏をよぎる――道が生きてやがっておれたちを迷わせようとしやがる。

 辻まで戻り、もう一度西を目指す。料亭「藤座」の横を通り過ぎ、無数の提灯が吊られた通りを西へひたすら歩き――そして、また最初の辻に戻ってきた。

 ぐずぐずしていると、大夜が白寿楼に戻ってしまう。

 焦りを感じ始めた〈鉛〉に、ふと声がかけられたのは料亭「藤座」の暖簾がかかった門の前を過ぎようとしたときのことだった。

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