一の一
挿絵:exaさまよりいただきました。
暗殺者〈鉛〉は〈的〉九十九屋虎兵衛の命を狙うも、しくじって、捕らえられてしまう。
死を覚悟した〈鉛〉に対して〈的〉は意外な条件を出す。
「おれ以外の誰も傷つけず、大人しくしている限り、おれを殺す機会をやる。つまり、お前さんにとって命よりも大事な任務が遂行できるわけだ。いい話だろう?」
〈鉛〉と〈的〉の奇妙な命のやりとりが今、始まる。
四階建ての遊女屋の軒や橋に屋号の書かれた提灯がぶらさがり、灯が行きかう。
賑わっている遊郭仲町からは幾千の灯が点り、影が四方八方に飛び散っていく。
だが、〈鉛〉はそうした灯と灯のあいだにうっすら染み込むような夜闇があるのを見つける訓練を受けている。客を送る手燭や飛行船乗り場の筒型提灯、それに遊郭の揚屋から派手にこぼれる光の隙を狙い、〈鉛〉は音一つさせず、駆ける。
回転羽根で空を飛ぶ「天原遊廓」は廓の外で常に風が吠えている。人のいる場所はみな三味を鳴らすか手拍子を鳴らすかで騒々しい。それでも音をさせないのはこれまでいつもそうしてきたからだった。
顔を隠す仮面と夜戦用の戦闘服で夜に溶け、打刀一振り、それに棒手裏剣を脇の下に吊るせるよう作った革の装具を身につけている。どれも体の動きを阻害しないよう特別なあつらえがしてあった。
〈鉛〉には余計なものが存在しなかった。ぜい肉のない引き締まった体。削ぎ落とされた感情。余り物と言えば、ただ少し癖のある髪の余りを頭の後ろで紐で縛っているくらいのものだった。
その思考はいかにして〈的〉を葬るかの一つに集中し、経験と観察の結果、客や店の使用人に変装して〈的〉に近づくことは不可能と知れた。〈的〉の店は遊郭でも最上の一つであり、一度寄っただけの客がすぐ〈的〉に近づける可能性は低い。
かといって店の雇人、出入りの料理屋、大工、衣服商といったものたちもすっかり顔の知れたものたちなので、使用人として潜り込むことも時間がかかりすぎる。
任務の期限はわずか一週間。そして、今は四日目。
〈鉛〉は時間は掛けず、策も労さず、隠密裏に〈的〉の店に侵入し、可能な限り手早く〈的〉を屠ると決めた。
誰にも見咎められず、店に忍び込めた。隣の大部屋は遊女たちの休息所となっているらしく、〈鉛〉のいる人気のない廊下から〈的〉の私室へは左の階段を昇ればいい。
二階へ上がる。すっかり酔った客たちの笑い声や歌声が遠くから聞こえてくる。
二階に人がいないことはあらかじめ調べてあった。運のいいことに今日は何かの祭りでもあるのか、店のものはみな客を相手するのに忙しいので、店の裏方である休息所や部屋に人気はない。
お帰りやす、お帰りやす、と声が遠くから聞こえる。〈的〉が店に帰ってきた。〈的〉は得意の客を飛行船乗り場まで見送っていた。その道で襲うことも考えたが、店のある町と飛行船乗り場までのあいだは屋台がぎっしり詰まっていて、ちょっとした縁日のようだった。
やるなら、できるだけ静かな場所で仕留めたい。人ごみに紛れてやることもできるが、それは他に手がないときの手段だ。〈鉛〉の見たところ、まだ、その段階ではなかった。
〈鉛〉は階段を上がった後ろにある小さな物置部屋に半身を隠し、〈的〉が二階へ昇ってきたところをやると決め、静かに抜刀した。黒く仕上げられた刀は薄暗い廊下の闇に吸い込まれそうなくらい暗い色をしていて、光を放たない。
ガラス行灯を手にした遊女には見えない若い女が一人、前を歩く。
これを殺すのは〈的〉の後でいい。〈鉛〉は女のすぐ後ろから続く〈的〉――白寿楼の楼主、九十九屋虎兵衛を見た。紺の直垂に桜花散らしの衣を肩にかけ、二尺に伸ばした髪を一尺余りで縛り、酔いの入った声を低めにおさえて機嫌よく唄っていた。
酒に明徳の誉れあり 然も百薬の名を献ず
万年を延ぶる玩び 皆情を催す仲立ちなり
り、と言い切った瞬間、〈鉛〉は身を低くしたまま、ツツっと飛び出し、二階の階段の欄干を飛び越え、〈的〉の首を一太刀で刎ねた。
刎ねた、はずだった。
硬いものに刃があたり、そのまま〈鉛〉は二階の廊下へ跳ね飛ばされた。
咄嗟に身をめぐらせて、受け身を取り、ろくに相手を見ないまま、装具に差した棒手裏剣を二つ手にした。
その手が鷲づかみにされて押さえられる。
ハッと気づくと、〈的〉の前を歩いていた女の顔――正確には自分の額目がけて思いっきり振り出された頭突きの額が見えた。