悪食の徒
蝮草の実のような赤い複眼をグリグリと動かし、細い前足を神経質そうに擦り合わせる。『それ』が現れると、街中に設置されたメガホンから警報が鳴り響き避難を促される。かつてはその警報を無視し、屋外に留まった人間もいたが今では警報が鳴るとともに街の中からは一切の生き物の気配が消える。道を歩いていたものは建物の中へ逃げ込み、自動車はすべて地下通路へ誘導される。人間はみな息を潜めて『それ』が駆逐されるのをただひたすらに待つ。ほぼ無音の世界に『それ』の巨大な羽音だけが異様に響いていた。
警報が鳴った時、私たちは動き出す。『それ』らを捕えるために。
「……今回は何匹、現れましたか?」
「四匹だ。三日ぶりではあるが、まあ悪くない数だろう。」
足早に歩く父の背中を追い街へと向かう。その途中で叔父や従弟と合流し、現れた『それ』のもとへ向かう。
「ぼく今日来てる奴らは大きめだって人が話してるの聞いたよ!」
「ハッ、期待しない方が良い。人間から見りゃ一メートル程度の奴らだって馬鹿でかいって大騒ぎすんだ。」
そうせせら笑う叔父を父は目で窘めると叔父は軽く肩を竦めた。
街に出る。上を見上げると黒い塊が空に飛んでいた。羽音は父の言った通り四つ。
「必ず捕えろ。逃すな。」
「はい!」
父の言葉を皮切りに、僕らは『それ』に向かって一直線に『飛んだ』。
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手筈通り、僕らは『それ』を捕えた。一人一つずつステンレス製の大きな籠に『それ』は詰められている。決して出ることはできないにも関わらず籠の中でバタバタと羽を動かす『それ』に吐き気がした。私が持っているのは一・五メートルほどの大きさの『それ』。叔父の揶揄した通り、『馬鹿でかい』とは言えない。せいぜい平均よりもわずかに大きい程度だ。
「火樂さん、いつもありがとうございます!」
「いえ、当然のことですから。」
上空にいた『それ』が捕えられるとすぐに街中にその旨が放送され、ぞくぞくと人間は外へと戻り各々の生活を再び始める。そして多くの人間が私たちに賞賛を送る。その人間たちに当たり障りのない返事をしつつ、一刻も早く根城へ帰りたいと願った。こうして浴びせられる賛辞と感謝の言葉がひどく癇に障る。もちろんそれを口に出すことはないし、顔に出すこともない。ただ穏やかそうな微笑みに見せるため目を細めて見せた。
「私たちは火樂さんたちの様に、黒王蠅を生け捕りにすることなどできませんから。私たちでは奴らの有害な体液をまき散らさないように処理することは難しいですし。」
せめてあなた達のような翅があれば、などと言ってみせる人間に私は曖昧な笑みを返した。
人間たちの間をすり抜け、私たちは籠を持ったまま誰にも知られることのない根城へと足を向けた。
******
籠を開ける前に、隙間から手を突っ込み抵抗できないように背中の羽と六つの足をもぐ。だがもいでもなお微かに身じろぐ。その姿にまた、吐き気がした。顔を顰めながら私の二の腕と同じくらいの太さのある足に喰らいついた。バリッと軽い音を立てて小さくちぎれた。半透明で粘り気のある体液が口元から顎を伝った。
数百年前、それはアフリカのジャングルで発生した。いや、発生したというより人間の目の届かない場所で確かな進化を遂げ、そして姿をそこで姿を現したというのが正しいだろう。アフリカの地元民がジャングルの中でサルの死骸らしきものを発見した。らしきもの、というのは何かによって喰い散らかされておりもはやほとんど原型を留めていなかったからだ。それ自体は別段変わったことではない。弱肉強食の世界、そのようなことはざらだ。だが妙なことに、周りには動物の足跡らしきものは見られなかった。だが次に見つかったのは人間の死骸だった。装飾品から、村にいた若者の一人であることが判明した。同じように喰い散らかされ柔らかい眼球や内臓のほとんどが残っていなかった。地元民はその死骸を村へ持ち帰り、埋葬した。しかしそれで終わりではなかった。次に襲われたのはジャングルに入った三人組のトルコ人観光客。日が暮れてもジャングルの中から帰ってこないことを不審に思った地元民は、夜が明けてから三人組を捜索した。すると奥の沼地の近くで三人ともそろって発見された。ただそのうち二人は既に残骸と化していた。サルや以前被害にあった地元民と同じような姿だった。ただ一人だけが生き残った。その一人に話を聞いたが錯乱状態でまともな会話にはならなかった。彼の言葉の端々から、被害者を襲ったものの姿がわずかに見えてきた。それは真っ黒い身体で六本の足をを持ち、空を喧しい音を立てて飛び回り、人間の肉を喰いちぎる。何より特筆すべきはその身体の大きさであった。それは明らかに一メートルを超える姿である、と。もちろん誰一人として彼の言葉を信用しなかった。そんな巨大な身体で空を飛行する昆虫のようなものがいるはずがない。可能性としては肉食の昆虫の集団に襲われた、もしくは鳥に襲われたのでは、という推測で片づけられ、生き残った男は哀れみの視線を受けつつトルコへと返された。
数日後、このトルコ人は死亡した。錯乱状態からは脱したものの常に姿の見えない何かに怯え、腹痛や頭痛を訴えていた。痛みはどの薬を使っても取れず、心因性のものであると診断された。しかし、彼の死後原因は明らかになった。彼が亡くなってすぐ、彼の死骸からは肥え太った巨大な蛆虫が発見されたのだ。ジャングルで卵を産み付けられた彼の中で、それらは孵化し彼の内臓や脳みそを以って成長した。人々はその事実に戦慄した。だが人々が恐れたのはその事だけではない。彼の死体にはすでに成長しきって体外へ出てしまったそれらがいるのだ。体内から見つかった蛆虫は通常のサイズの倍以上、しかも未だかつて見つかったことのない種類。そして彼に卵を産み付けた虫はおそらく彼の連れ二人を喰い荒らしたものと同種。それが国内で繁殖すればどうなるか。
それは決して杞憂では終わらなかった。
その虫はじわじわと生息域を広げていった。しかも時間がたつとともに身体は大きなものになっていった。当初は赤道付近以外の国で発生した虫は大きくて十センチ程度であったが、十センチ、二十センチ、三十センチ……今では最大で二・五メートルほどのものが見つけられている。数百年にわたる攻防で分かったことの一つが、この昆虫は喰えば喰う程大きくなる、といことだ。どこまで大きくなるかまでは危険すぎるため研究は進んでいない。ただ、この昆虫は人間に対する絶対的脅威であることが認識された。そして恐るべきことに、彼らは人間を好んで襲う。もちろん、家畜や愛玩動物も関係なく屠る。だが人間と動物が並んでいれば、人間を最優先に襲うことが分かった。自身と同じくらいの大きさ、またはそれよりも小さな人間のことを恐れない。ただ食うためだけに人間を襲う。その姿は大食の王ベルゼブブとも恐れられた。
このとき初めて虫に名前が付けられた。それが”黒王蠅”である。
黒々とした身体にショウジョウバエそっくりな赤い複眼をもつ肉食の蠅。未解明な点も多いが、その姿かたちから蠅の進化したものであるというものが通説となっている。少なくとも遠くから見た姿は普通の蠅と変わらない。
脅威になり始めたころから、どこの国も国民が個人個人で自衛することは不可能だと判断し、対策組織が作られ国ごとさまざまな方法で黒王蠅を駆逐しようとした。だがどの方法も何らかの形で人間が被害を受けてしまう結果だった。黒王蠅は神出鬼没だ。山だろうと森だろうと街だろうとどこにでも現れる。いや、生き物がいるところであれば、どこにでも。しかも奴らの体液は生き物にとって有害である。そのため街中に現れた場合、殺すことができない。銃殺すれば地上にその体液が降り注ぎ、毒ガスで殺しても遺骸が落下すれば内容物が飛び散る。ならば生け捕りにして場所を変えてから氷漬けにしたり焼殺すれば良い、という案が出たが、それは不可能だった。人間にはそれを捕獲することがほとんどできない。蠅はもともと昆虫の中でも非常に飛翔能力が高い。空間に固定されたようなホバリングや、高速での急激な方向転換など複雑で敏捷な飛翔をこなせる。それは身体が通常の数十倍になっても変わらなかった。
人間は頭を抱えたが、良い方法は見つからず、結局、見つけ次第その場で処分するという形しか取れなかった。
だがある日、南アメリカで奇妙な人間が現れた。彼らは背中に透明な翅をもっていた。彼らはその背中の羽で空を飛ぶことができた。その速度は驚くべきことに人間がかなわないとしてきた黒王蠅を凌駕するものだった。そして彼らはいとも容易く黒王蠅を捕獲して見せた。一滴の体液をまくこともなく、無傷で。もちろん最初は、彼らは非常に差別された。背中に生える翅や鋭い歯は人間からすれば非常に異質であり、その翅はどこかの昆虫の翅を彷彿とさせる見た目であったからだ。
しかし彼らは決して人間を襲うことはなかったし、襲う意思もなかった。翅がある以外は普通の人間と変わらず、二足歩行をし、言葉での意思疎通も可能で、何より彼らは黒王蠅を捕えることに関してこの上なく協力的だった。しかも捕えた黒王蠅はすべて自分たちで処理をしており、それによる環境問題や衛生問題も一切起こさなかった。しばらくして、その翅をもつ者たちは世界各地に現れ始めた。いや、現れ始めたというよりもそれまで差別を恐れて姿を隠していたのだろう。どの国も、翅を持つ者たちに黒王蠅駆除を頼んだ。翅を持つ者たちはそれを快く引き受けた。ただ翅を持つ者が出した条件は、捕えた黒王蠅はすべて翅を持つ者が引き取ること、翅を持つ者の後を決して追わず詮索しないことであった。
こうして黒王蠅による被害は格段に減り、いつしか翅を持つ者たちは人間から神からの使いなどと呼ばれるようになっていた
自分の部屋の壁に貼りつけられたいくつもの書籍から集めたコピーを眺めながらまた黒王蠅の足を齧った。
人間は知らないのだ。私たち、翅を持つ者が黒王蠅を捕えたのちにどのようにそれらを処理するのかを。ゆえにのんきに私たちのことを神からの使いなどと呼べるのだ。
籠から羽と足を捥がれた黒王蠅を取り出し、頭、胸、腹に千切り分ける。床や手に粘り気のある体液がつき顔を顰めた。
「汚い……、」
あまりの嫌悪感に、黒い死骸を外へ投げ出したくなるが、すぐに思いとどまりため息を吐いた。次いつ現れるともわからない食料を捨てるほど、私は馬鹿ではない。ただ黒王蠅そのものが不快でならないのだ。
生ごみや死骸、糞尿に集る不潔な生き物が進化したもの。挙句生き物に寄生し数を増やしただただ食べ続け、際限なく成長し続ける。何をするでもなくただ生き物を喰らい一つとして有益なものを生まず知性を持たない奴らが私はひたすらに憎らしい。そしてその屑虫を食べなければならない私自身もまた疎ましい。
人間が私たちのことをよく知らないのと同じように、私もまた私たちについてあまりよく知らない。
ただ生きていればわかることもある。火樂家は関東一帯に住む、翅を持つ者の一族である。随分前からずっと国内の黒王蠅を取り続けてきている家系で、女はいない。背中には青みがかった半透明な色をした翅を持つ。色は特に統一性はないらしいが翅を持つ者は皆二枚の翅を持っている。
そして何より、私たち翅を持つ者は、蠅を食べなければならない。
義務ではない。文字通り私たちは蠅を食べなければ生きることができないのだ。
蠅以外の一切からは栄養を取ることができない。人間が食べるものを食べても私たちにとっては砂をかむのと同義だ。幼い時から口にする物は水と蠅と蛆のみ。
私とはいったい何なのか翅と食以外はほとんど人間と変わらない、にもかかわらずこれほどおかしなことはないというくらい中身が彼らと異なる。
私は常々、私たちは人間の皮をかぶった昆虫なのではないかと疑っている。蠅しか食すことのできない私たちの中身は蠅で詰まっているのだ。いや、むしろ私たちは蠅なのではないだろうか。翅を持つ者という袋に詰められた蠅。蠅や蛆の集合体。それこそが私たちなのではないだろうか。そうだ。結局私たちもまた薄汚い蠅と何ら変わらないのだ。いくら嫌おうとも、死を選ぶことのできない私は蠅を貪ることしかできないのだから。
鬱々とした気分を抱えながら、私は腹を食いちぎった。
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ある日、父は私に女を寄こした。
いや、言い方が悪いかもしれない。その女と結婚し子を成すように言われた。私たちは決して種を絶やしてはいけない。私たちがいなくなれば、黒王蠅は際限なく増え続けると考えられている。自意識過剰でもなんでもなく、私たちは人間に必要とされている。そのため人間と関わりを持たない翅を持つ者のところに人間の嫁を宛がわれる。私自身子孫さえ残すことができれば何の問題もないためどんな女でも構わない。そして人間側は私たちのことを神の使いだのなんだのと祀り上げているくらいだ、たとえ多少人間と違うところがあってもせいぜい翅程度、むしろ美しいなどと称賛されるものであるため嫌がる娘も少ないし世間的に栄誉あることである。だが、一度嫁になったものは私たちの住処を知ることになるため二度と人間の社会には戻れない。にもかかわらず、自ら志願する者がいるというのは全く分からないことである。言ってしまえばそれは社会のために人生をさせ出せと言っているも同じであるのに。
だが、私には疑問があった。何気なく思ったことであったし、以前から思っていたことでもあった。
「父さん。」
「……なんだ、気に食わないことでもあるのか。」
「いえ、そんなことは。……ただ前々から思っていたのですが、」
なんとなく後ろめたい気分になりそこで言葉を切った。父は不審気に片眉を上げてみせた。
「言ってみろ、妙な疑いや疑問は無いに越したことはない。」
「……貴方に、いえ、翅を持つ者の嫁となった者は……いったい今どこにいるのですか?」
一瞬、ほんの寸の間父の動きが凍りついた。それは自信家であり、世渡りのうまい彼にしては珍しい素の表情だった。しかしすぐにフッと笑ってみせた。
「皆、死んだ。悉く、な。理由はお前も、いずれわかる。いや、案外すぐに、かもしれんな……。」
「それはどういう……?」
それきり父は私に背を向けた。それ以上話す気はないという意思表示に、さらなる疑問の言葉がのど元まで出かかるが飲み込んだ。
何故、彼女たちは死んだのか。家の中には誰一人として女はいない。私は母の顔を覚えていない。同じようにおそらく従弟もまた彼の母の顔を知らないだろう。物心ついた時には父しかいなかった。別段恋しいと思ったこともなければ、死んだことを悲しむわけでもなかった。だが、なぜ、一人残らず人間の女は死んだのか。
ただ気になった。父のあの笑みが。
あの笑みはただ私をあしらうだけのものでは無かった。彼自身の自嘲が含まれ、同時に妻を亡くしたという悲しみも見て取れた。だがそれ以上に。
あの恍惚とした瞳は何を見ていたのだろうか。
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特に意見することもなく、父に言われるがままに宛がわれた人間の女を娶った。年のほどは私と似たようなもので成人して間もなかった。だが年に似合わぬほど落ち着き払った女であった。私が構わぬとも文句ひとつ言わぬできた女で、陶器のような色白であった。その肌は白百合の花弁の様に柔らかく滑らかであった。嫋やかで控えめな女は、私のような人外にくれてやるには勿体ないほどであるように思えた。
何故、私の者のようなところに来たのか、女に直接尋ねてみた。
すると彼女はキョトンとした顔をしたのち、仄かに頬を染めてはにかんでみせた。
「子供のころからあなた方に憧れていたのです、神の使いなどとは申し上げません。でも私にとってあなた方は救世主であり英雄なのです。」
そのような方と結婚できるなら、それはとても幸せでしょう?そう返されひどく尻の座りが悪くなった。なぜか血がじわじわと上り首や耳、顔が熱くなった。何かは分からないが顔が火照り彼女を直視できなくなり顔を背けた。横目で見た彼女はコロコロと笑っていた。
満腹感にも似た妙な心地とともに沸々と自責の念が湧き上がり収拾のつかない自己嫌悪に苛まれた。
私は、いや、私たちは英雄なぞではない……私たちと人間の恐れる黒王蠅はある意味では同じ存在なのだ。人は私たちがどのように食事するか、捕えた黒王蠅をどうするか知らないから英雄などと夢見ることができる。だが現実は決してそのようなものではない。私たちの身体は黒王蠅で構成されていると言っても相違ないほどに、黒王蠅という害虫に依存している。黒王蠅がいるから私たちは食を得、極めて人間的な扱いを社会から受けることができる。建前上黒王蠅の駆逐を掲げているが、私たちにすべての駆逐などできるはずがない。
人間が奴らを害虫だと認識しても、私たちにとっては重要な食糧である。言いかえるのなら…………、
「っ…………!」
「どうかしましたか?」
「いや……何でもない、」
立ち上がり外へ出る。私の背中に向けられる心配そうな視線に呵責が内心に尾を引いた。
しゃがみこみ喉の奥に右の指を突っ込み、胃の中身をすべて側溝に吐いた。何度も何度も胸や腹が波打つ。胃液に濡れテラテラと鈍い月明かりを反射する黒い吐瀉物に、また吐き気がこみ上げる。だがもう胃の中は空っぽで後はもう胃液と空気くらいしか出てこなかった。舌に胃液と黒い破片が纏わりつく。
自分が生を受けてから二十余年、汚いと厭うてきた食ではあったが、未だかつてこれほどまでに嫌悪したことがあっただろうか。胃の中の物を戻せども、身体から奴らという汚物を消すことはできない。むしろ私もまた奴らと同類なのだ。私たちは汚物も同然なのだ。胸の中にある黒い感情のやり場がない。
滲んだ視界に一匹の小さな蠅が映り込む。途端に胸の蓋が開き憎悪、嫌悪などでは足りないドロリとしたものがあふれ出した。
私は何を考えるでもなく、つっかけでそれを踏みつぶした。
ミシリ。小さな音を立てた。
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何をするわけではないが、目の前で食事する妻を眺めた。彼女が食事をしている間私にすることはない。同じものは食べられず、むろん私が食事をする姿を人間に見られるわけにはいかない。一瞬だけ、自身と彼女の食事を比較してからすぐにかき消した。考えるだけ無駄である。私たちには選択肢などないのだから。
「あの……そんなに見られていると食べ辛いのですが。」
そう言い眉を下げて微笑む彼女にハッとする。
「いや、すまない。……たんと食うと良い。お腹の子の分もしっかり食え。」
彼女はふわりと幸せに堪えきれないとでもいうような輝かしくも母親らしい微笑みを浮かべた。そしてそっと愛おしむ様に膨らんだ腹を撫でた。私も先ほどまでの想いを忘れ相好を崩した。
彼女は、何も知らない。必要以上に知ろうともしない。故に、無垢であった。夫婦になってから何年も経つというのに一度たりとも食事を共にしない私に不満を零すこともなく、不信感に駆られ問いただすようなこともなかった。疑うことをせずただ側に居り笑う。私が彼女のことを、子を残すための道具だと思わなくなったのはいつであっただろうか。
だが、それとともに数年前の父との会話を思い出す。疑念の種は芽を出し、長い年月を経て成長していった。
何故、この家に嫁に来た人間は悉く死んでいくのか。
彼女もまた、いつかいなくなるのだろうか。
「……なあ、一口くれないか?」
そう問うと彼女は大きな目を真ん丸にしてみせた。それから嬉しそうにあどけなく笑った。
ただ何も考えたくなかった。
いつしか大切になっていた彼女が消えてしまう未来を。人間の彼女と私の違いを。あまりにも汚れた存在である自分のことを。
時節目を伏せて愛してると言ってみせる彼女も、きっと私の中身を知ったなら、幻滅し厭うのだろう。
口に運ばれた一欠片の煮つけは、やはり何の味もしなかった。
壁は厚く、溝は深い。
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子が生まれた。やはり男の子。小さな小さな赤子。傷一つないすべすべとした肌はうっすらと紅潮している。人差し指を彼に近づけると、ふくふくとした赤い手でギュッと掴まれた。キャッキャと笑いながら私の指を引っ張る。ふと、口元が緩んだ。
そんな私を見ながら隣で妻がクスクスと笑う。途端に恥ずかしくなり、ヒョイと指を引き抜いた。目的を失った赤子は不思議そうな顔をしながら手を泳がせる。妻は微笑み彼に指を握らせ、片手で彼の頭をそっと割れ物を扱うように撫でた。少女のようにコロコロと笑っていた彼女は今ではすっかり母親らしくなり彼に愛しむような微笑みを向けている。その微笑みが私にも向けられると気付いた時は、面映い同時に胸の奥にじんわりと広がる温かい何かを感じた。それは決して気分の悪いものではなかった。
「痛ッ!」
「なっ、大丈夫か!?」
彼女は小さな声を上げパッと彼から手を引いた。縮められた彼女の指先を見るとプクリと血の球が浮き上がっていた。どうやら噛まれたらしい。
「とりあえず、洗い流してこい。万が一のこともある。」
「お腹が空いているのでしょうか……?」
噛まれたにもかかわらず心配そうに彼に視線を投げる彼女を洗面所に追い立て、赤子を抱き上げる。またキャッキャと声を上げる彼を見た。
生後数週間にしてすでにほとんどの歯が生えそろっている。我が子ながら不気味に思うが、私たちとはそういうものだと思いなおす。まだ飛ぶことはないが背中に生えた翅を時節微かに動かしている。いつかに父が言っていた。人間と私たちのハーフでも、特徴は絶対的に私たちのものが大きく出る。相手がどんな人間であろうと、翅があること、歯があること、食べるものは変わらない。どこもかしこも柔らかく愛らしい、幸せの塊と言ってもいい彼もまた蠅や蛆を食べるのだ。
このことは無論、妻は知らない。彼に物を食べさせるのは私の仕事だ。奴らを貪る姿など見せることはできない。彼を抱えて昨日捕えた黒王蠅を保管してある部屋へ足を向けた。
しかし何故、彼は妻に噛み付いたのだろうか。今まで一度だって私に噛み付いたこともなければ、与えた黒王蠅や蛆以外の物を口にしたこともない。ぬいぐるみや毛布なども彼の側に置いてあるが、噛み癖は見られない。そんなに腹が減っていたのか、とも思うが彼は腹が減った時はいつも泣いてこちらに知らせてくる。
部屋に着き、扉を開けると腕の中でもぞもぞと動いていた彼が動きを止める。彼の視線の先には既に息絶え艶を失った黒いものがあった。普通の赤子なら泣き叫ぶだろうに、彼は爛々と目を輝かせもごもごと口を動かす。
結局、腹減っていたのだろう。私は二本だけになっていた黒王蠅の足を一本千切り、彼の口元へ持っていった。
******
いつものように籠に入れたままの黒王蠅を片手に裏口から家に入り保管用の部屋に向かう。妻が家で暮らすようになってから、この籠を持ったまま玄関から入ることは避けている。いつかに彼女に黒王蠅を見せてしまったところひどく怯えてしまったためだ。随分とまあお優しくなったことだと自重するものの、それもまあ悪くないなどと思えた。
部屋から出てから何かの臭いに気が付く。私たちからすれば、あまり嗅ぎなれない臭い。だが、何か、何故か懐かしいと感じる臭い。だが、それは私の記憶からして決して喜ぶべきものではない。そして聞こえる微かな水音。嫌な予感は加速し、水音のする方へ近づくほどそれは確信に変わっていく。強くなる臭い。
音源の部屋の襖に立ち、勢いよくそれを引いた。
部屋の中心に、血だまりができていた。横に置いてある白い布団はすでに血に染まり、端の方は茶色に変色していた。
「あ…………、」
何も言えず、ただ見つめる。一音だけ、阿呆みたいな声がのどから零れ落ちたきり、無音になる。
鼻につく、鉄の匂い。血だまりに埋もれるのは、愛した人間。つい昨日まで、愛おしげに私に微笑んでいた。時に子供のような笑顔を見せ、どこかあどけなさを何年たっても纏っていた。彼女の首は不安定で辛うじて、胴体に乗っているだけだった。黒くきらきらと輝いていた穢れのない瞳は、なかった。
脳天を殴られたような衝撃に、身体は棒のように固まった。彼女は、生きてはいない。一筋の希望すら持つことを許さない惨状に呼吸の仕方さえ忘れた。喉はテニスボールでも詰められたように息苦しく、舌は痺れて動かず、ひどく口が、喉が渇いた。
「お、まえ……、何でッ……!」
辛うじて出た言葉。返事がないことなど分かっていたのに、声を掛けずにはいられなかった。つつ、と広がった血液が私の足を濡らした。鉛のような身体を動かす。バシャっと血溜まりに膝をつく。彼女の背に手を回し上体を起こす。
いつもなら、頬を染め目を伏せる彼女。真っ白の頬からは血が引き、ただそこには二つの孔があった。
もう、彼女は私を見てはくれない。
「う、あぁぁっ……、」
無理やり動かしていた手足が再び固まる。関節は錆びつき身体からは熱を失い、頭だけがジンジンと脈打つ血液に弄られる。
なぜ彼女は死なねばならなかった。なぜ彼女は殺された、いやいったい誰が。何者も知らぬはずのこの場所をなぜ知られた。なぜ私たちではなく、普通の人間である彼女が殺された。
考えども、考えども、そのようなものに何の意味もないことを私自身が知っていた。誰であろうと、なぜであろうと、彼女は帰ってこない。彼女は死んだのだ。
ぴちゃっ……
放心し沈黙に包まれた部屋に小さな水音がやたらと反響した。音源を見る。崩れ落ちた私の膝元に彼はいた。血に塗れながらも、泣くこともなくきょとんと何もわかっていないような顔で、私を見ていた。
「お前は……助かったの、か……。」
ひどく重い腕を持ち上げ、片手を小さな頭に乗せた。痺れた手のひらから熱が伝わる。
せめてこの子だけでも生き残ってくれてよかった。
その事実に微かながら救われた気がした。
しかし彼はすぐに私の手を退けた。そして物言わぬ身体となった母親をじっと見た。きっと彼には何一つ理解などできていない。赤く染まった手を、彼女へ伸ばした。
「は……?」
伸ばした手で彼女の身体にしがみつき、そして胸元に噛みついた。
動き出し始めていたはずの志向が再び動きをやめた。部屋を彼の口から零れる水音と咀嚼音が支配した。
呆然とし、止めることすらできない私を視界にすら入れず、彼は一心不乱に母である彼女を貪った。黒王蠅を喰らうのと同じように。
美味しそうに。
私はこの時やっと、火樂の一族に、いや翅をもつ者の家系に人間の女がいない理由を悟った。
そして、いつかの父の恍惚とした表情の理由もすぐに知ることになった。
「……はは、ははははははっ!」
こうして私たちはきっと、私たちが何者であるかを知るのだ。
始まりこそは違ったのだろう。おそらく翅を持つ者が生まれたときは、それはそれ以外の何者でもなかった。黒王蠅も、また然り。だが、今は違う。
「……私たちは、人間だったのだ…………。」
私の口元から一滴の赤い雫が落ちた。