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カムイの森  作者: 墨人
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第07話 鋼蓋と透徹

 走り込んできた若い女と、それを追う巨大な熊。


 森の中で熊に襲われた女性が必死で逃げている。普通ならそう判断するところだが、今はいささか状況が違う。

 こんなに深いところまで用も無いのにやってくる女はいないだろうし、着ている衣服も明らかに町娘とは異なる。体の動きを阻害しないように余裕を持たせた衣服と、籠手、手甲、臑当。どこからどう見ても戦装束だ。


 はがねは「なかなかいい女だ」と思い、その正体は京の東征軍に関係する者だと見当をつけた。

 この近辺にいる武装勢力は松前か京のどちらかだし、若く美しい女性なら松前で見ていたなら憶えているはずだ。見覚えが無いなら、京の手の者としか考えられない。


 ――俺達を追ってきたのか。だが、なぜ熊?


 自分達が逃亡者になっていることは重々承知している。ならばそれに対する追跡者の存在も当然のように考慮して警戒を怠ってはいなかった。いつかは現れるだろうと思っていたのだが、この登場の仕方は予想外すぎる。

 迎え撃つか、それとも逃げるか。一瞬の逡巡を感じた時、


しろがね! 鋼!」


 と、女が叫んだ。

 名前を呼ばれて一瞬思考が止まり、その一瞬が致命的だった。もう逃げるという選択ができる間合いではなくなっている。


 女の背後で熊が前足を振り上げ、横薙ぎに振る。女の体が吹っ飛んで行った。直前に自分から跳躍するような動作もあったが、そんなことを気にかけている暇は無かった。

 熊と鋼の視線ががっちりと噛み合う。


「うぉっ」


 鋼の口から意識せず声が漏れる。熊の意識が彼に向いたと同時に、水の中にいるような異様な感覚に包まれたからだ。


「鋼! そいつは獣神けものがみだ!」


 銀の声が聞こえる。兄の判断に鋼も内心で同意していた。松前で屍神中ししんちゅうを解放した時にも似たような感覚があったのを思い出す。


「あんたらは逃げろ!」


 言いながら鋼は熊を殴りつけた。

 大木を鉄槌で叩いたような重い音が響き、熊の巨体が僅かに揺れた。


「なんだと!?」


 自分の打撃の与えた影響が、相手を僅かに揺らしただけという現実に鋼は目を剥く。彼の法力は恵まれた体格と組み合わさることで強烈な打撃力を生み出す。松前でも京の軍勢を甲冑ごと打ち砕いてきた。


 下から掬いあげるように熊が爪をふるった。後退しながら上体を反らせた鋼の胸元で衣が千切れて宙を舞う。大きく引き裂かれた衣の下、鋼の厚い胸板にはうっすらと四本の爪跡が刻まれていた。浅く裂けた皮膚から血が盛り上がってくる。熊から視線を外さぬまま指先で胸元をまさぐり、その指を目線の高さに上げて確認する。指先に付着した朱を見て、鋼は嬉しそうな笑みを浮かべた。


「さすがは神と呼ばれるだけのことはある。鋼蓋こうがいを破るとはな!」


 対する熊はいやに人間臭い仕草で首を傾げ、己の爪を見ていた。鋼の胸板を胸骨ごと抉り取るぐらいの感触を爪に感じたのに、実際には傷とも言えない傷がついているに過ぎない現実に戸惑っている。さて自分の爪はおかしくなってしまったのだろうか? ちょっと他の獲物で試してみよう。そんな風に思ったのかは分からないが、熊はその場にいた他の男達に向かっていった。

 ひぃっ! と男達が悲鳴を上げる。


「なんで逃げてないんだ!」


 愕然として鋼は叫ぶ。十分に時間を稼げたとは言えないにしても、彼らは最初の位置から一歩も動いていないのだ。


 これは鋼の剛胆がもたらした誤算だった。怖いもの知らずの鋼は特に意識しなかったが、彼ら三人は熊の出現と同時に恐怖に竦んで動けなくなっていたのだ。銀がどうにか連れて行こうとしていたようだが、それには時間が足りなかった。


 猛然と突進する熊。動けない男達に見切りを付けたか、銀だけが飛び退いて距離を取る。瞬く間に三人の男が三つの肉塊に変えられてしまった。悲鳴の上がる暇さえない一瞬の出来事だった。


「なんてことしやがる!」


 熊の背後に追いすがった鋼が拳の連打を叩き込む。轟音が連続するも、やはり熊は僅かに揺れるだけで効いている様子はない。


 鋼の使う鋼蓋は、体を硬くする法力である。刀で斬られても槍で突かれても傷一つつかない、己の肉体を無双の鎧に変える力だ。もちろん無敵というわけではなく、身に付けた硬度以上の攻撃を受けてしまえば傷つくこともある。今、胸に刻まれている四筋の傷のように。それでも人体を軽く粉砕する熊の爪の一撃を、その程度の負傷に抑えてしまうのだから鋼蓋の防御力は相当である。

 こう言ってしまうと極めて防御的な法力に思われるが、けしてそんな事はない。拳を法力で固めて殴りつければ、それは恐るべき威力となる。なにしろ巨漢の鋼が、身に付けた格闘技術をもって繰り出すのだ。まさに鉄槌の一撃に等しい。


 ところがこの熊、分厚い毛皮とその下にある強靭な筋肉で衝撃を吸収してしまう。打撃の効き難い相手で、打撃力が骨や内臓まで届かないのだ。


「兄貴! どうやら俺では分が悪い。手伝ってくれ」

「そのつもりだ」


 声はすぐ後ろから聞こえた。いつの間にか銀が回り込んでいたのだ。


「上からの攻撃を誘って受け止めろ。それで動きが止まる」

「誘えって、どうやりゃ……っと、来た!」


 これは偶然だろうが、熊が大きく振り上げた前足で鋼の頭を狙ってきた。頭上で両腕を交差させて熊の一撃を受け止める。同時に全ての関節を法力で固めて固定する。関節を含めた全身硬化を行えば鋼自身は全く動けなくなるが、代わりに体重の乗った熊の一撃もがっちりと受け止められた。鋼の両足の下で地面が小さく陥没した。


「よし、後は任せろ!」


 鋼の背後から躍り出た銀。気合の声を上げて熊の脇腹に拳を連続で打ち込んだ。見た目の迫力も拳を打ち付ける音も、鋼のそれに比べれば随分と弱々しい。もっとも比較の対象が鋼であっては誰でもあっても弱々しく見えてしまうだろう。銀の拳打も熟練の格闘者のそれだ。


 その弱々しく見える打撃を受けて、熊が明らかに苦悶していた。振り払うように振られた腕も力を失っている。軽く避けた銀はもう一度踏み込み、さらなる連打を重ねる。

 ついに熊は直立を維持できなくなり、両の前足を地面に着けた。こうなると今まで高い位置にあった熊の頭部にも手が届く。

 左右一発ずつの拳が熊の頭部を打つ。

 熊の体が激しく痙攣し、どうっと倒れ伏した。熊の目や耳から赤いどろりとした液体が流れ出していた。


「さすがに兄貴の透徹とうてつは効いたか」


 鋼は感嘆の声を漏らす。

 銀の法力は透徹と呼ばれる浸透打撃の技だ。通常の格闘術においても鎧通しや透かし打ちと呼ばれる技法があるが、透徹も同様かつより強力な効果を法力によって実現している。分厚い毛皮も強靭な筋肉も、それら全てを透過して内臓や脳に直接打撃力を送り込んだのだ。


「それにしても……」


 銀は三人の死体を見下ろした。この三人は松前の有力者で、銀達の寺院が困窮したときに経済的な援助をしてくれたことがある。兄弟が抵抗派に加わったのは、京の支配を良しとしなかったこともあるが、主には彼らに当時の恩を返すためだったし、封神塚ほうしんづかを暴くという禁忌を犯したのも、彼らを松前から逃がす時間を稼ぐためだ。

 そこまでしたのに、こんな所で獣に殺されてしまうとは。


「ここまでであの時の恩は十分返せてると思うがな」

「そうだな……しかしこれから……」


 言いかけた言葉を飲み込み、銀が森の一点を注視した。先刻女と熊が現れた方向、そちらから二人の男が現れた。


 一見して森の民と分かる二人組だった。

 一人は鋼ほどでは無いにせよかなりの上背とがっしりとした体格を持ち、背中に大きな剣を背負っている。

 もう一人はほっそりとした少年で、腰に石刀(石を削って大雑把に刀の形にしたもの。刃物としては使えない)を差している。

 二人は散乱する死体を見て顔をしかめ、倒れ伏している熊を見て目を円くした。


「おいおい、こいつはあんたらがやったのか? 俺達が追っていた獲物なんだがな」


 大男の方が伝法な口調で言った。銀が「そうだ」と頷くと、男はますます驚いたようだ。


「武器は持っていないようだが……まさか素手でか?」

「コジカ、怪我をしている人もいるようだし詮索は後にしよう」


 少年の方が大男を制して、倒れている女に歩み寄った。女の顔を見て「あれ、この人は……」と呟く。

 女の衣服を切り裂いて露出させた傷口を改めながら、少年が名乗った。


「お分かりだと思いますが、僕達はこの森の住人です。僕はサンシエ、そっちがコジカ。あなた達は松前の人ですよね?」

「うむ、私は銀。こいつは弟の鋼だ。その女は……」


 銀が言い淀むと、サンシエが後を続けた。


「この人は見た事がありますよ。京の人ですね。昨日松前にいたからまさかと思ったけど、この顔は間違いない」


 今度は鋼達が驚く番だった。基本的には森の中だけで生活している森の民が、随分と外の様子を知っているようだ。その点を質そうとしたが、さらに数人の男達が現れたため出鼻を挫かれた。

 その男達もまた森の民だった。みな屈強な体で、手に手に弓を持っている。


「サンシエ、やはりあっちは駄目だ。もう全員死んでいる」

「そうですか……でも、この人は助かりそうです」

「いや、そいつは」


 思わず口走った鋼に、サンシエが鋭い視線を向けた。


「敵方だから助けないでくれ、と言うつもりならやめておいてください。僕らにとっては京も松前も森の外、どちらも同じ。それにこれ以上森の中で死んでほしくない」

「う、うむ」


 サンシエの意外な迫力に、鋼は反射的に頷いていた。


 一方でコジカや他の森の民達は熊の骸に群がって解体作業を始めていた。狩猟を生業とする森の民らしく見事な手際なのだが、どうにもおかしい。狩猟民が獲物を解体するのは、当たり前だが食料にするためだ。ところが目の前で行われている解体には、その前提が欠けていた。普通なら傷つけないよう丁寧に取り出すはずの内臓をその場で切り開いていたり、切り出した肉片を無造作に地面に放り出していたり。


 銀も疑問に思ったようで、その点をコジカに質していた。返ってきたのは、「こりゃ喰えない肉なんだよ。勿体ないがここに捨てていく」との事だった。だとすれば何のために解体するのかという疑問になるが、その答えはやがてわかった。男の一人が肉塊の中から小さな球体を取り出したのだ。


「見つかったようだね。こちらも当面の処置はしたよ。後は、彼らを弔わないと」


 手に着いた血を拭いながらサンシエ。見れば女の上半身には、彼女自身の服を裂いて作った包帯が巻かれている。


「弔う?」

「使者を放置すると悪念を出すからね。だからあなた達にも協力してもらう。松前の人は松前のやり方で弔ったほうが良い」

「……そうだな、分かった」


 もともと恩もある者達だった。山中の事だから正式な葬儀はできないが、略式の弔いくらいはできるだろう。


「あっちの人たちは……京の弔い方なんて知らないし、僕達のやり方でやらせてもらおう」


 散乱した人体の破片をできるだけ集めて遺体を整え、京と松前双方の死者の弔いが行われた。

 やるべき事は終えたとばかりに森の民は帰り支度を始める。意識を失ったままの京の女を担ぎあげたコジカが鋼達を見る。


「さてと、あんたら松前から逃げてきたんだろ? で、追ってきた奴らはこのありさまだ。ちょいと話も聞きたいから俺達の村に来ないか? ちなみに、嫌だと言ったら無理やり連れて行くぞ」


 挑戦的なコジカの発言だったが、表情や声の調子から本気で言っているわけではないのはわかるので腹は立たなかった。


「行くあてがあるわけじゃない。なあ、兄貴」

「そうだな、世話になるとしよう」


 こうして鋼達は森の民の村に行くことになった。

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