第06話 熊の狂神
森の中を駆ける一団がいた。
松前から逃走した銀と鋼の兄弟を追う、甲軍の者たちだ。
その一団の中に神狩の霧嶋がいた。
昨日の松前での決戦の後、逃亡した銀と鋼を追って東征軍から離脱、一昼夜にわたる追跡の最中である。
北に向かった銀達を追う内に周囲は緑が濃くなり、今は完全に森の中だ。
甲軍の男達は走り難い地形でも構わずに駆けていく。一般に異能の力に頼る神狩は身体能力において甲軍に劣ると言われるが、霧嶋は甲軍に劣らぬ走りを見せていた。
それもそのはずで、今年十八才になる霧嶋が神狩の異能に目覚めたのは二年前。それまでは甲軍になるべく訓練を積んでいた。同行している男たちの中には、当時共に訓練していた仲間もいた。
追跡は順調に進んでいる。一見すれば何の異常も無い森の中でも注意深く観察すれば逃亡者の痕跡は無数に発見できた。行きすぎざまに押し倒された草は、その後元に戻ったようでいて茎に皺を残している。踏まれてずれた落ち葉の下からは微妙に湿り気の異なる地面が顔を覗かせている。
些細な痕跡を拾い集めていけば、銀達が何処をどう通ったのか、手に取る様に知ることができた。
しかし。
――このままではカムイの森に入ってしまう……いえ、もう入ってしまっているのかも。
森の中にどこからがカムイの森かという線引きがあるわけではない。ここが松前なのか、カムイの森なのか霧嶋をはじめとして誰にも分からなかった。
痕跡からすれば銀達がここを通過したのはつい先刻の事のようだ。一刻も早く追いつきたい。
先行していた甲軍の男が立ち止り「止まれ」と手で合図を送ってくる。足を緩めて追いつくと男は前方を目線で示した。
大きな木の根元に男が五人。なにやら言い争っている様子だ。
遠目に標的を観察する。。
兄の銀は外見的に際立った特徴を持たない。平均よりは高いくらいの身長で、良く鍛え上げられた体は引き締まっている。墨染の衣をまとっているのは彼が僧職だった名残だ。
弟の鋼はとても大きい男だった。ただ背が高いだけでなく胸板は分厚く腕も足も太い。肥満しているのでなく膨大な量の筋肉が全身を覆っているのだ。鋼もまた墨染の衣を着ている。
他の三人も松前の残党なのだろうが、霧嶋はこの三人には特に注意を払わなかった。それほどに銀と鋼の存在感が大きい。
「先に銀をやるわ。その間他の奴らをお願い。ただ鋼には迂闊に手を出さないで牽制だけにして。銀を片付けたら私が鋼の法力を抑えるから、そこを狙って」
瞬時に手順を指示する。松前の戦では直接相対する機会が無かったが、銀と鋼が使う法力についての情報は離反者達から聞いていた。どちらの能力も霧嶋にとっては脅威ではないのだが、それでも鋼の巨体を見ると自分との相性の悪さは感じてしまう。おそらく法力無しでも相当な強さだろう。
霧嶋の指示を妥当と判断して甲軍の面々が無言で頷く。
そして突入の機を図るために、今一度銀達を注視したその時、いきなり背後に強烈な気配が現れた。
体中にまとわりつく異様な感触に、全員が凍りついたように動けなくなった。単に動きを阻害されたというのではなく、その存在の気配を感じた途端に物凄い恐怖が湧きあがり、体が竦んでしまったのだ。
「っ!」
咄嗟に自らの能力を発動する霧嶋。途端に体にまとわりついていた何かは消え去った。
これが霧嶋が生まれた家系の神狩としての能力『破神』だった。破神は異能の力とそれに類する全ての物を無効化する能力。松前で屍神中を殺したように、触れさえすれば神でさえ消し去ることのできる破格の能力である。同じ破神使いでも発動の形態は様々で、過去には視線に破神の力を持ち、見るだけで相手の術を消し去るような強力な使い手や、右手だけにしか力が宿らない者もいた。霧嶋の場合は全身に効果があり、短刀程度の長さの武器なら破神の力を宿らせたりもできる。
見るだけでという例に比べれば劣るとされるものの、全身を覆う破神の力は異能や術による攻撃を完全に防ぐ。見なくても、と言いかえればけして劣らないだろうと霧嶋は考えていた。
破神の力で体にまとわりつくものを振り払った霧嶋は、恐怖に竦む体を叱咤して振り返った。
熊がいた。
だが普通の熊ではない。普通の熊が甲軍や神狩を竦ませるような強烈な恐怖を撒き散らすわけがないのだ。
熊が直立すると、それは見上げる大きさだった。先ほど鋼を大きいと思ったが、それ以上に大きい。
鋭い爪が並んだ前足が横薙ぎに振られると、棒立ちの甲軍の男の上半身が消えた。横の方で重い湿ったものが地面に落ちる音がする。残った下半身が断裂面から血を噴き出しつつ地面に倒れた。
「や、やめっ……」
出てきた声は喉に引っかかったように掠れていた。そんな霧嶋の見る前で、見知った顔の男がまた一人、爪の一撃で絶命する。このままでは全滅するしかない。
破神によっていち早く行動の自由を回復した霧嶋ではあるが、自ら熊に立ち向かうような愚は犯さなかった。彼女の力は異能力者を相手にすれば絶大な効果を発揮する反面、単純な膂力と鋭い爪を武器とする熊に対しては無力なのだ。
どうすればこの熊を倒せるか。めまぐるしく考えると、答えはすぐに出た。
霧嶋は短刀を抜いて熊に投じた。短刀は熊の毛皮を傷つける事も出来なかったが、熊の注意を自分に引き付ける事はできた。
――こっちに来なさい!
念じながら方向転換、全力で走りだす。
向かうのは銀達のいる方向だ。背後に追ってくる熊の息遣いを感じ、上手く釣れた事を確信した。
走る霧嶋の前方で、銀達が驚愕の表情を浮かべている。見知らぬ女と巨大な熊がいきなり現れれば、それは驚きもするだろうと、なんとなく場違いな事を考えてしまう。
霧嶋の目論見はこうだ。熊に自分を追わせたまま銀達に接触し、上手く離脱してしまえば熊を銀達になすりつける事ができる。銀達の法力は破神使いである霧嶋には効かないが、熊に対してなら有効なはずだから、否応なく巻き込んで始末を任せてしまう。もしも銀達が熊に倒されるような事があっても、もともと補殺の対象であるから構わない。その間にこの場を離れてしまえば良かった。
「銀! 鋼!」
熊をなすりつける前に逃げられては堪らないから、大声で名前を呼んでやる。見知らぬ相手にいきなり名を呼ばれれば、状況はどうあれ一瞬でも反応してしまう。その一瞬が今は貴重だった。
背後の気配がいよいよ危険な間合いになった。鋼まであと数歩、まだ遠い。さらに一歩、二歩を踏み、そこで限界を悟った。前に踏み出した足に一瞬力を溜め、横方向に跳躍する。
これで熊の視界からは霧嶋が消え、代わりに鋼が目の前にいる、という状況を作れるはずだった。
霧嶋は己の脚力以上の勢いで宙を飛んでいた。背中の肩甲骨の上あたりに熱いような冷たいような感覚がある。飛び退き際に爪で引っかけられたのだ。かする程度の一撃でも体重の軽い霧嶋は勢いよく飛ばされてしまった。
その勢いのまま地面に叩きつけられ、霧嶋の意識が暗転した。