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カムイの森  作者: 墨人
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第43話 降伏

 カナの胸を短刀が貫く光景を誰もが幻視した。

 扱い慣れない短刀であっても悲壮な覚悟がその突きに鋭さを与え、対するカナは感情を乱しまともに反応できていない。避けるも受けるも不可能だと思われたのだ。

 ところが、刃はカナの胸に達する寸前でぴたりと止まっていた。刃だけではない。短刀を握るサンシエ自身が全身を阻まれていた。


 この時、サンシエは体全体を押し戻そうとする力があるのを感じていた。

 風だ。

 サンシエとカナの間に風の塊とも言うべきものが突如として現れ、サンシエの体を押し止めている。ゆるゆると動く空気の流れは上質な織物のように柔らかくもあったが、確たる存在感をもってそれ以上の前進を、カナに短刀を突き立てる動きを封じていた。


 カナの体はもう震えていない。再び感情を失ったかのような無表情となり、突き付けられた刃の先端をじっと見つめている。


 カナの小さな掌がサンシエに向けられると、塊となっていた風が解け、一定の方向性を持って解放された。

 サンシエの足が地面から離れ、ふわりとした浮遊感が生じ、しかし次の瞬間には背中を地面に打ち付けていた。背中から胸へと衝撃が伝わり、応急処置を施したきりの胸の傷を悪化させた。詰まる様な濁った声とともに少量の血が吐き出される。


「サンシエ!」


 咄嗟にシシリクが矢を放つも、横殴りの風に押し流されてあらぬ方へと飛んでいく。


「邪魔をしないで!」


 カナは叫び、両手を鳥の羽ばたきの如く大きく打ち振る。カナを中心にして全方位に撒き散らされた風によってシシリクもコジカも吹き転がされる。風の勢いは強く、大柄なコジカですら踏み止まれなかった。既に倒れていたサンシエまでが風の勢いに押されて地面を滑らされている中、霧嶋だけは強風をものともせずにいる。

 コエイから受け継いだ異能力による風は、霧嶋の周囲でだけ勢いを失い、微風とも呼べないほどに弱められている。


「そうだった……カエデに風は通用しないんだった。忘れていたわ」

「そういうことよ。カナ、覚悟して!」


 霧嶋は短刀を構えて走る。

 本来であればカナに引導渡す役目はサンシエに委ねたいところだ。鋼が言ったように許嫁であるサンシエが手を下すのがカナへの供養になるのか、それは霧嶋には判らない。彼女の感性からすれば逆で、サンシエに殺されてはカナも浮かばれないと思えるのだが、鋼がああ言い、サンシエも疑問無く頷いているのだから、この辺りではそういう考え方なのだろうと納得している。

 つまりカナにとってもそうなのだろうと思えて、また自分が手に掛けるのも気が進まず、できることならサンシエにと考えていた。しかしそうも言っていられない状況だ。カナの操る風は強力であり、サンシエはおろかコジカでも近寄れない。シシリクの矢は言わずもがなだ。

 ここは破神で風を打ち消せる自分が行かねばなるまいと、意を決しての前進だった。


 迎え撃つように、カナは再度手を振る。


「効かないと判ってい……!」


 言葉を飲み込み、霧嶋は全力で横に跳んでいた。

 破神があればどれほどに強い異能力であろうと無効にできる。それは過去の戦いの中で実証されており、霧嶋自身も破神には絶対の信を置いている。

 しかしこの時、歴戦の神狩りとしての本能のようなものが、猛烈に危険を訴えたのだ。

 そして霧嶋は本能には無条件で従うことにしている。もちろん杞憂に過ぎない場合もあるのだが、それで命を拾った経験も一度ならずある。


 今回は後者だった。


 それは瞬き一つにも満たない程度の差だったろう。踏み切りに使ったために僅かに遅れた右足に、霧嶋は何本もの針を差し込まれたのに似た激痛を感じていた。

 まともな着地もままならずに倒れ伏す。確認すれば右足は衣服もずたずたに裂けており、感じた痛みの通りの針で突いたような小さな傷、皮膚の表面を削られてような傷が無数にあり、見る間に血が盛り上がって来る。


「う……っく……つ、礫を……」


 思わず右足を擦った手には滑る血の他に、ざらざらとした砂礫の感触があった。ただの風では破神で無効化されると知ったカナは、地面の砂礫を巻き上げて風に混じらせていたのだ。風そのものは異能の力によるから破神で消せるが、そこに混じり込む砂礫は異能でも何でもない。風が消えても勢いは残り、無数の礫となって霧嶋に襲いかかったのだ。

 もしも全身で受けていたら大変な事になっていた。小石や砂粒と言っても物凄い勢いで飛んで来れば侮れない威力であるし、まず間違いなく目を潰されていただろう。本能に従ったからこそ右足だけの負傷で済んだ。


 だがこの時点で霧嶋の戦闘能力はほぼ失われてしまった。異能力としての破神を除けば、元甲軍兵として鍛え上げた短刀を用いる戦闘術が霧嶋の全てである。右足がこれではまともに走ることもできない。


 瞬く間に四人を地に這わせたカナは無機質な視線を一巡りさせると、物言わず踵を返した。踏み出した足が向くのは北の方向、カムイの森だ。


「行かせねえっつってんだろうが!」


 追いすがったのはコジカだ。為す術も無く転がされた屈辱に顔を染め、猛然とカナに走り寄る。

 振り向きもせずにカナが放った風に対し、コジカは己の大剣を叩きつけた。

 コジカの左右を風が吹き抜ける。膂力に優れたコジカが渾身の力で振り下した大剣は確かに風を断ち割っていた。だが風は吹き続けており、コジカはその先端を斬ったに過ぎなかったのだ。

 再び飛ばされた巨体は地面を削るように二転三転してようやく止まる。


「くそ……」


 悔しげに吐き捨てる視線の先で、今度こそカナは歩み去っていった。




 大剣を杖のように突いて身を起こしたコジカは、首をごきごきと鳴らしたり、肩を回したりして体の調子を確かめていた。受けたのがただの風だったお陰で、打ち身や擦り傷はあっても深刻な怪我はない。

 傍で見ていた霧嶋などには、そんな軽傷で済む飛ばされ方ではなかったのだから、これはコジカがとりわけ頑丈なのだろう。


「あの風を剣で斬ろうだなんて、随分と無茶をするわね」

「岩や鉄は斬れるんだ。あれくらいなら斬れると思ったんだがな……」


 霧嶋から呆れ含みの声を掛けられ、コジカは憮然として言葉を返した。


「キリシマ、足は大丈夫ですか?」


 そこによろよろとサンシエがやって来る。吐いたばかりの血が口元を汚し、頭から垂れていると相まって酷い有様だ。


「いや、お前が大丈夫なのかよ。あの雷野郎と一戦やらかしてんだろ?」

「大丈夫じゃないけど、死ぬほどでもない。それよりも霧嶋の足を治療しよう」

「それよりもと言うならさっさとカナを追うぞ」


 思い詰めた顔のシシリクもやって来て、自然と霧嶋の周りに森の男三人が集まる形になっていた。

 カナの追跡を主張するシシリクに対し、サンシエは緩く首を振った。霧嶋の右足に纏わりついている衣服の残骸を破り取り、負傷の程度を改めている。


「おい! サンシエ!」


 シシリクの声に苛立ちが混じる。

 サンシエは「キリシマ、中に入っている砂を取り除きます。例の力は使わないでください」と前置いて、足に手を這わせた。途端に霧嶋の感覚から自分の右足が消え失せた。そこに自分の足があるのは見えているのに、自由に動かせず、感覚も無い。

 反射的に破神を発動させそうになるのをどうにか堪えたのは、呪いを使用したサンシエの治療行為が京の常識を大きく上回るのと身を持って知るからこそだった。

 何をどうされているのか全く理解できないのだが、それぞれの傷が少量の血を吹き出し、奥深くに埋まっていた砂礫が押し出されてくる。冷静に観察できるのは右足全体の感覚が無いからだ。そうでなければ途轍もない激痛を伴いそうな光景だった。


 そうして霧嶋の足から異物を取り除きつつ、サンシエはシシリクに語りかける。


「今から追っても同じ事の繰り返しだ。きちんと準備をしないと手に負えない」

「……準備をすれば何とかなるか?」

「なんとかなると言い切れるわけじゃない。でも準備も何も無しならどうしようもないとは言い切れる。キリシマの治療もそうだ。狂神になってしまったカナは僕達だけじゃどうにもできないし……このままじゃ追うこともできない。シシリク、周りを見てみなよ」


 言われて視線を転ずれば、遠巻きに東征軍兵に囲まれている。狂神の威圧が消えたと知って宿営地から出てきたのだ。

 成り行きで霧嶋と共闘したものの、依然として森の民は東征軍の敵だ。妙な動きを見せればあっという間に殺されてしまうだろう。


「そう言うわけでシシリク、降伏しよう」

「なっ……正気かサンシエ!」

「至って正気だよ、僕はね。シシリクこそどうなんだい? 今のこの状況を引っ繰り返せると思っているなら、それこそ正気を疑わないといけない」


 シシリクは悔しげに唇を噛んだ。

 サンシエに言われるまでもない。降伏などしたくないという感情的な部分を除いてみれば、もう森の民に勝ち目など無いのは明らかだと判る。ここから引っ繰り返せると言う者がいれば、サンシエの言うとおり、その者の正気を疑うことだろう。それくらいの状況判断をするくらいの理性はシシリクにもある。

 だがそれでも降伏したくないと言う感情は強い。遠い昔から連綿と続いてきた森との関わりを自分の代で終わらせてしまうのは無念過ぎる。


「……これは交渉次第だろうけど、そこまで酷い事にはならないと思うよ」

「何か考えがあるのか?」

「まあね。でもそれは後にしよう。今は……っと、これで終わりです」


 丁度治療が終わった所だった。霧嶋に右足の感覚が戻り、復活した痛覚に呻く。個々の傷の痛みが区別できないほどで、足全体が燃えているようだった。治療に先だってはぎ取った衣服の残骸を取り敢えずの包帯代わりにきつく巻き付けていく。


「それに、カムイは死んだよ」


 作業を続けながらのさりげない付け足しに、シシリクは雷に打たれたような衝撃を受けた。


「それは、本当なのか?」

「カムイの亡骸をこの目で見た。キリシマが殺したそうだよ」


 もう一度「本当なのか?」と言ったのは霧嶋に向けられていた。

 カムイがシシリクの父であるのを知っているため、霧嶋は躊躇いながらの頷きを返していた。実の父を殺したと言う相手にどんな反応を示すかと警戒したのだが、シシリクは「そうか……」と言ったきり、それ以上の言葉を発しなかった。


 森主という上位者を失ったシシリクはどう出るだろうかと霧嶋は思う。頑なに遺志を継ぐなどと言いだされたら厄介だ。


「ふん……サンシエ、ちょっと来てくれ」


 シシリクとサンシエは少し離れた場所でひそひそと話し始めた。時折シシリクの声が大きくなるが、内容までは聞き取れない。

 その話は意外なほど短く、戻ってきたシシリクは霧嶋に言った。


「そちらがいくつかの条件を呑むのなら、俺達は降伏する」

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