第41話 再会
ここまでシシリク達森の民は東征軍側と弓戦に終始してきた。当初はカムイやサンシエと時を同じくして突入し、カナと鋼を救出に向かうはずだった。しかし東征軍側に発見されて弓戦に移行してしまっている。現在、銀一人が単独で宿営地に潜入しており、シシリク達は東征軍の注意を引きつけるための戦闘を続けていた。
弓戦の推移は膠着状態の一語に尽きる。
夜とはいえ篝火などの灯火があるため、宿営地内を動き回る兵の動きはある程度見て取れる。弓使いとして目を鍛えているシシリク達なら問題無く狙い撃ちできる距離でもあり、最初は効果的に敵に被害を与えていた。
しかし敵も落ち着いてくれば盾やらを持ちだして防御を固めてしまうので、到底一射一殺などできない。
宿営地からの反撃はについては正直それほど厳しく無い。
遮蔽物の無い平地ではあっても、夜の闇がシシリク達の姿を隠してくれている。森の民側からの攻撃が散発的かつ移動しながらのため、位置を特定され難い。物量任せの反撃があったとしても、これならそうそう当たるものではない。
シシリクは自分での突入はもう諦めており、誰かがカナ達の元に辿りつければ良いと考えていた。この場合、戦力的には劣るものの、単独で動いている銀に期待している。獣神や幽鬼を連れている他の二人は戦力的には大きくても、その大きさが邪魔をして隠密行動などできない。
銀であれば単身で動けて、近接戦闘もこなせる。体調に不安はあるが偶然出会った敵兵を無力化するくらいならば文字通り片手でやってのけるだろう。
「なんだ? なんだか様子が妙だぞ」
闇を透かすようにして宿営地を眺め、シシリクは傍らのコジカを顧みた。
「妙? 打って出て来たのか?」
コジカの声には少しばかりの期待が滲んでいた。
近接専門のコジカは弓戦では出番が無い。大きな体と大きな剣が目立つから潜入もできない。ずっと手持無沙汰でいたから、東征軍が打って出てくるなら望むところなのだ。
「いや、違うな。退いているように見える」
「それは……確かに妙だな」
距離があるせいでコジカにははっきりとは見えないが、飛んでくる矢が急に減ったのは音で判断できる。やがて飛来する矢は完全に止み、不審に思った森の民側も手を止めれば場は静寂に包まれた。遠く、どこかから低く重い轟きや獣の咆哮など聞こえてくる。
「カムイ達か」
音の聞こえてくる方向に顔を向けて、シシリクは誰に聞かせるでもなく呟いた。その声には隠しきれない嫌悪感が混じっていた。否、誰に聞かせるつもりも無いのなら、端から隠すつもりも無かったのだろう。
本人に聞かせるつもりが無くても、側にいれば聞こえてしまう。コジカは聞かなかった振りをして宿営に意識を集中していた。
二人の耳に宿営地から微かな声が聞こえて来た。
「おおーい! 森の奴らよー! もうすぐここに狂神が来るぞー! 人間同士で争っている場合じゃないぞー! お前達も退けー!」
声は同じ内容を二度繰り返して聞こえなくなった。
「狂神が来る、だと? 何かの罠か?」
コジカが首を傾げる。『狂神』という言葉が東征軍側に伝わっているのは霧嶋経由だと思えば頷ける。慣れていないと恐怖に竦んで動けなくなり、そのまま殺されてしまう危険もある。狂神とは単純に数を揃えれば勝てる相手ではないから、東征軍の兵が退避したのも不思議と言うには当たらない。
引っかかるのは、それをわざわざ敵である森の民側にも報せた事だ。
「どういうつもりかは判らないが……何かが来るのは本当らしい。あれを見ろ」
「見ろと言っても俺の目じゃあ……って、なんだありゃあ!」
それは弓使いほどの視力を持たないコジカにもはっきりと見えた。宿営地の中で天幕が高々と空に舞い上がり、遠く離れた場所に落下する。重く轟く音が遠く離れていても聞こえて来た。
さっきから聞こえていた音の一つの正体が判明した。
「東征軍の奴らを襲っているならこっちの味方……とは限らない。用心した方が良いな」
通常であれば、敵の敵は味方とばかりに一時的な共闘関係を築く目もあるのだが、狂神となればそもそも敵味方の区別が無い。もともと味方だったとしても狂神になったのなら森の民にも牙を剥くだろう。
次から次へと吹き飛ばされる天幕から、対象が明らかに自分達のいる方に向かっていると見て取り、シシリクは配下の森の民の男達に一時的な退避を指示した。
やがて外縁部に面する天幕も吹き飛んだ。シシリクの目には開けた視界に一つの人影が捉えられていた。距離と暗さで詳細は見てとれないながら、随分と小柄なのは見て取れた。
「あれは人だぞ……」
「なに? 東征軍め、やはり何か企んだか」
「いや、確かに人に見えるんだが……あれは本当に人なのか……」
自信無さげにシシリクは言葉尻を濁した。目が見ている光景をそのまま信じるなら、あそこにいるのは人だ。だが、天幕を吹き飛ばすなどという明らかに異常な力を持っている人間をシシリクは知らない。
そして遠目に見ているだけで酷い不安感に襲われ、体にまとわりつく冷気のようなものがじわじわと忍び寄って来る。どちらも狂神に出会った時に特有の感覚だった。
人の形をした狂神。
状況を素直に理解すれば、そう結論付けるしかない。
「まさか……!」
脳裏をよぎった最悪な想像に、シシリクは愕然とした。
人の形をした狂神というなら、真っ先にカムイの狂神化を疑うところだが、あの小柄な人影はカムイではない。となれば、誰かが新たに神喰いを行ったことになり、東征軍宿営地にいて神喰いを知っている人物の心当たりは一人しかない。
「カナ……なのか……!?」
「なに!? シシリク、どういう事だ!?」
無意識に漏れた言葉に、コジカが驚きの問いを放ってくる。シシリクには答える余裕は無く、心を見出す恐怖心と体を締め付けるような悪念の渦に晒されながら、それらとは関係ない理由でシシリクは動けなくなっていた。ひたすらに近付いてくる人影に目を凝らしている。
そして最悪な想像は、最悪の現実となって現れた。
「兄様? そこにいるのは兄様なの?」
聞こえてきたのは紛れも無くカナの声だった。向こうからはシシリクをシシリクとして確認できるほどには見えていないようだが、シシリクの目はそれがカナであるとはっきり映っている。
「ああ、俺だよ、カナ」
「兄様!」
カナの声が嬉しそうに弾み、小走りになる足音が聞こえた。
軽過ぎるほどに軽い足音とは裏腹に、狂神の威圧は体を圧し潰しそうなほどに重くなる。
「こ、これをカナが……」
森の男達は狂神の気配を感じるや否や安全な距離を取ろうと後退し、豪胆なコジカまでが無意識に一歩二歩と後退る中で、シシリクだけは前に一歩を踏み出した。恐怖心も悪念も、そんなものを気にしている余裕など今のシシリクには無かったのだ。
東征軍に捕らわれていたカナがどうして神喰いなどできたのかという疑問は残るが、カナが狂神になってしまったのは疑う事も許されない厳然とした事実だった。
指呼の間となった所でカナが立ち止った。もうコジカにもカナの表情まで見て取れる距離だ。
兄に再会できた喜びから走ってきたのだろうに、カナは残った距離を詰められない。シシリクもまた先の一歩より前に出る事はなかった。
本来なら無事の再会を喜び合う場面なのだが、そうはできない理由が双方にあったからだ。
「カナ……お前、神を喰ったのか?」
それは言葉上は問いの形を取っていたが、その実確認だった。カナは無言で頷き、顔を上げられずに地面に視線を落としている。
「っ! どうしてそんなことを!?」
シシリクは自然と叱る様な口調になってしまい、カナは怯えたようにびくりと肩を震わせた。
昔からカナは聞き分けの良い妹だった。シシリクの言い付けはきちんと守るし、してはいけない事だと教えられれば素直に従っていた。なのに、最もしてはいけない事である禁忌を犯して神を喰うとは。
「わ、私は……森に帰りたかったから……」
「だからこうして迎えにきたんだ。カムイもサンシエも来ている。どうして待てなかったんだ!」
「!」
再びカナが身を震わせ、俯かせていた顔がゆっくりと上がり、それを見てシシリクは息を呑んでいた。カナの面貌からは一切の感情が抜け落ちていた。
「父様もサンシエも死んでしまった。朝になれば兄様も殺されてしまう」
「カムイとサンシエが!? な、何を言っている?」
「私はもう駄目でも、コエイだけは森に帰してあげたかった。コエイと一つになれば自分で森まで帰れると思ったから」
「だが失敗すれば死ぬところだったんだぞ!」
「それでも良かったから。父様も神喰いは止めるように言っていたけれど……みんがいなくなって一人になるくらいなら……それならコエイのために私の命を賭けてあげようって……」
淡々と、声の起伏さえ微かになって、人間ではない何かの声のように聞こえる。
「兄様だけでも生きていてくれて良かった。一緒に森に帰ろう」
そうして差しのべられた手を、シシリクは取りに行けなかった。それどころか避けるように飛び退いていた。カナの顔から感情が消えるとともに、放たれる悪念はさらに濃くなっている。これに触れて蝕まれれば自分もまた狂神に似た何かになってしまうのではないかという、そもそも感じているのとは別の新たな恐怖に駆られての事だった。
「兄様?」
表情は僅かにも変わらないのに仕草だけは以前と同じに、どこか傷ついたようにカナは首を傾げた。どうして兄に拒絶されたのか理解ができないというふうに。
「……おい、シシリク。これはまずいぞ」
コジカは息が詰まったような声になっていた。
狂神になってしまったとはいえ相手はカナだ。森に帰りたいと言うなら帰らせてやりたい。そもそもカナを森に連れ帰るためにここまで来たのだ。
だが、それがカナだとはいえ、やはり狂神なのだ。しかも狂神狩り歴の長いコジカやシシリクにして過去に出会った事のない強い悪念の持ち主になっている。
カナが森に帰れば、カムイの森はもう獣神の住めない森になってしまう。
――それでも良いのではないか?
そんな考えがシシリクの胸中をよぎった。多少様子のおかしい所はあるものの、カナはこうして普通に言葉を交わせている。狂神になりながら理性を残しているのだ。それならば人としては暮らしていけるのではないかと思えたのだ。例え気易く近付くこともできない存在だとしても、だ。
それで狂神が発生するなら狩り尽くせば良い。
以前コジカが似たような事を冗談交じりに言った時には窘めたシシリクだったが、今は半ば本気で考えていた。森の民にとって獣神は特別な存在なのは間違いない。しかしシシリクにとってはカナの方が大事だという、それだけのことだ。
「……? 森に帰らないの?」
重ねて言われてもシシリクは即座には答えられない。
兄としてはカナを連れて帰りたい。村長としては狂神を森に連れて行けない。
二つの思いがぶつかり合い、シシリクは逡巡した。
その逡巡をどう解釈したか、カナは「ああ」と得心したような声を上げ、同時に表情を取り戻していた。
「もう森に入って来ないように、あの人達を殺してしまおうということね。うん、それがいい。父様とサンシエの仇だし、みんな殺してしまおう」
シシリクとコジカはぞっとして身を震わせた。
声に重なって直接届くカナの意思。それが殺意に塗り潰されている。
シシリクの中でぶつかり合っていた二つの思い、その一方がこの時消えた。




