第38話 狂神喰い
軍馬を暴走させての脱出が阻止された後、カナと鋼は霧嶋の使っていた天幕に収容されていた。神狩りとして東征軍の中でも確たる地位を持っている霧嶋の天幕は、中心に一際大きな姿を誇る本営からも程近い。
鋼は相変わらず厳重に拘束されたまま、さらに天幕を支える支柱に縛り付けられている。支柱はしっかりと地面に打ちこまれており、不自由な姿勢で拘束されているのも合わせて、いかに鋼でも僅かな身動ぎしかできない。
不快極まりない状況だったが、鋼は自分のことよりもカナの身を案じていた。
宿営地から獣がいなくなれば無力であると、そう判断されたカナは厳しい縛めは受けていない。手は前で縛られ、腰に結ばれた縄で支柱に繋がれてはいるものの、縄は十分な長さがあるので天幕の中はある程度自由に動けるだけの余地がある。
しかしカナは一つ所に座り込んだままほとんど身動きもしていなかった。
泣いてこそいないが、見ている鋼の方が辛くなるような落ち込みようだった。
生来気の優しいカナにとって、意思を交わせる獣を戦いに用いるという行為自体が大きな負担になる。自分の言葉一つで多くの獣が命を落とす。悲壮なまでの決意が必要だっただろう。
それは敵中の軍馬に対しても同様だ。森に帰りたいという自らの願いを叶えるために多くの軍馬を利用し、しかし失敗した。しかも心を許していた霧嶋の手によって。
加えれば霧嶋には家族同然に思っていたコエイを殺されていもいる。
友達のはずの霧嶋が酷いことばかりする。
大人の鋼であれば、敵味方に分かれてしまえば友情などあてにならないと、きっぱり割り切ることもできる。友情を信じないのではなく、友情よりも優先しなければならないこともあると知っているからだ。
それを判れとカナに言うのは酷だろう。
小さな子供が得意でないのもあって、鋼は慰めの言葉をかけることもできなかった。
鋼にとっての居た堪れない時間は、意外なほどに早く終わる。
遠くから複数の獣の咆哮を契機に、宿営地は俄かに騒然となった。
群れを為した獣神の来襲と、突如現れた幽鬼の集団。そして森の民の襲撃。
本営に近い場所柄から、天幕の外を多くの伝令兵が行き交った。外を見れなくても声は聞こえ、大凡の状況を知ることができた。
希望を見つけたようにカナが顔を上げる。
獣神はカムイが集めていた。それがここまで来たということは、カムイが率いて来たと見て間違いない。
そして突如発生した幽鬼の集団。
幽鬼は自然に発生することもあるが、それを人為的に起こせるであろう力の持ち主を鋼もカナも知っている。
「みんなが……父様もサンシエも来てくれた!」
カナはとても嬉しそうだった。
シシリクだけでなく、これまで戦に参加していなかったカムイとサンシエも出て来た。しかも獣神や幽鬼という大きな戦力を引き連れて。
「ふむ、お前の言うとおり、シシリクは俺達を見捨てたわけじゃなかったんだな」
ほっとして鋼は言った。見捨てられていない、助けが来た。それ以上にカナが元気を取り戻してくれたのが何よりだった。
ところが雲行きは怪しくなっていく。
まず聞く者の魂を震わせるような咆声。遠く宿営地の外れ辺りから発せられただろうそれは、鋼達がいる天幕をもびりびりと震わせるほどだった。
鋼にとっては喧しいだけだったが、カナは「父様!?」と弾かれたように咆声が発せられた方向を振り返った。そうして続けて言葉を紡いでいく。
声は小さく、聞こえるのは断片的な単語だけだった。『コエイの血晶石』『神喰い』『危ない』などだ。天幕の布に向かって相手もなく話し続ける姿は、普通なら精神に異常をきたしたのかと思うところだ。しかし鋼はカナとカムイの能力を知っている。カナは遠く離れたカムイと明らかに会話をしていた。
「あ……」
カナが戸惑ったような声を上げた。
「どうした?」
「父様の声が……聞こえなくなった。なんだか様子がおかしかったの」
「……お前を助けるために東征軍と戦っているんだ。悠長に話しもしていられないのだろう。それにしても、こんな時にいったい何を伝えてきたんだ?」
鋼は嫌な予感しかしなかった。戦闘中のはずのカムイに、そうそう余裕があるとも思えない。余裕の無い中でわざわざ伝えてきた内容に興味もあり、また話をさせることでカナの不安を紛らわせようという意図もあった。
「父様は私がコエイの血晶石を持ってるって知ってた。神喰いは危ないから止めておけって言っていたけど……」
「それはまた、随分と今さらだな」
神喰いは森に民にとっての禁忌であり、誰も積極的に話したがらない話題だ。とは言え寝食を共にし、肩を並べて戦っていれば、それなりに立ち入った話しも聞けるようになる。鋼が知り得たのは表面的な部分に過ぎないのだろうが、得た知識には神喰いという行為が具体的に何を示しているのか、それを実行したカムイ以外の者がどうなったのかくらいは含まれている。胸の悪くなるような話だと思ったものだが、余所者である鋼に話しても良い程度の内容でこれだ。幼いとはいえカナはカムイの娘である。鋼が知った以上に神喰いについては知っている。
カナは敢えて禁忌を犯すような性格ではないし、そうでなくても家族同然に育ったコエイを「喰おう」などとは考えないだろう。
何故、カムイはこんな状況で、そんな事をカナに伝えたのか。
そう考えて、鋼は背筋に冷たいものを感じていた。
が、それを言葉にして口から出すのは憚られた。
単なる想像に過ぎないそれをカナに言ってしまえば、間違っていた場合でも藪蛇になりかねない。
当たり前のことであっても、そぐわない時と場所で言われれば不安を煽られる。
そうして気を揉んでいるうちに、その報せはやって来た。
――カムイを霧嶋が討ち取った。
――御雷が幽鬼と、幽鬼を操っていた呪い士を倒した。
――森の民の襲撃は夜闇のために撃退には至らないものの順調に阻止中。夜が明ければ一息に押し戻せるだろう。
もちろんカナや鋼に聞かせるための報告ではない。
東征軍にとって良い報せであるから、士気回復のために伝令兵が声高に触れ回った結果、二人の耳にも届いてしまったのだ。
「……」
「……おい」
カナが動かなくなってしまい、鋼はたまらず声をかけていた。
鋼も落胆している。獣神や幽鬼という新戦力を投入しての襲撃は、捕らわれの身からの脱出を期待させた。だがその両者が破れ去った今、救出の目は無くなっただろう。残った森の民だけで東征軍宿営地を襲うのは自滅行為だ。漏れ聞こえた声の通り、このまま行けば夜明けとともに圧倒的な兵力によって押し潰されてしまう。
なまじ期待してしまっただけに、落胆への落差が大きい。
そしてカナにとっては父親と許嫁を同時に失ってしまったことになる。
「カナ、おまえ……大丈夫か?」
鋼の声にカナは反応しない。俯いたままじっと一カ所を見つめている。
再び背筋に冷たいものを感じて、鋼は身を震わせた。
泣く子の扱いに慣れているわけではないが、こういう時には泣いて喚いてくれた方が判りやすくて良い。泣くという行為自体が体の中に堪った悲しみを発散させる効果を持っている。親しい者を失って悲しいなら泣くのが当たり前だ。
カナが泣かないのは、悲しくないからではない。悲しみが深すぎて泣くこともできなくなってしまっているのだろう。
一応は僧職にあった身として、鋼はそういった状態に陥った人々を多く見てきている。
それは絶望という名の感情だ。
「……もう、これしか……」
蚊の鳴くような声で言って、カナは縛られた不自由な手で懐を探り、小さな球体――コエイの血晶石――を取り出した。天幕の隙間から漏れ入る灯りは弱く影になりがちながら、鋼の目にはそれが一際黒く、影を固めたような色合いをしているように見えた。
「ま、待てよカナ。お前まさかそれを……」
「これしか……こうするしか……ない……」
「やめろ! それは危ないとカムイも言っていたんだろう!?」
「……きっと大丈夫。私は父様の娘……これはコエイだし……それに駄目でも……森に帰れないなら……」
「おまえはっ!」
カナの言葉の前半だけなら希望を持っているように聞こえなくもない。神喰いの成功条件など知らない鋼だったが、親子で体質が似ているなら似たような結果になるかも知れないとは思う。生前仲の良かったコエイであれば、死後であってもカナを害したりしないのではないかとも。
しかしカナの本心は後半の方だ。
森に帰る希望を絶たれ、カムイやサンシエを失ったカナは、同時に自らの生きる意欲をも失ってしまっている。
「おいっ! 誰かいないか! いるなら来てくれ!」
鋼は大声で呼ばわった。天幕の外には東征軍の兵がいるはずだ。敵に助けを求めるのは鋼にとって不本意な行為であるが、そんな事を気にしてはいられない。誰か人を呼んでカナから血晶石を取り上げさせなければならない。だが天幕の外はそれどころではないのだろうか、誰もやって来てくれない。拘束を引きちぎろうと全身の筋肉に力を込めてみても、そもそも鋼の膂力を踏まえて太い縄が使われているのだ。縄が肌を擦って血を滲ませても、鋼の身は自由にはならなかった。
そんな鋼をぼうっとした目で見やったカナは、うっすらと儚い笑みを浮かべ、ゆっくりと口元に手を持っていき、コエイの血晶石を口に入れた。
「やめろおおおっ!」
鋼の絶叫も虚しく、カナの喉が嚥下の動きを示していた。
「ひうっ!」
カナは息を引くような小さな悲鳴を上げ、身を強張らせてばったりと倒れた。崩れ落ちるとか倒れ伏すとかではなく、一本の棒が真っ直ぐに倒れるような、人間とは思えない不自然な倒れ方だった。
「くそっ! カナ! なんてこった!」
カナの小さな体はぴくりとも動かない。
幼い娘が自ら命を絶った痛ましさと、目前で行われた自殺を止められなかった己の不甲斐なさに鋼は頭を垂れた。僧職にある身としてせめて経でも上げようかと思い定めて顔を上げれば、不意にカナの身がびくりと震えた。
生きていたのか!
喜びの声は、しかし喉の奥に引っかかり、ついに口から出ることはなかった。
鋼は全身に絡みつくような何かと、心の奥底から湧きあがって来る本能的な恐怖を感じていた。それは覚えのある感覚だった。松前の陥落直後、森の中で出会った熊の狂神。あれと同じ気配をカナから感じた。
ただし、より濃密で、より強烈だ。
豪胆な鋼でさえ竦まぬためには気合を入れなければならない。
それほどの悪念を放ちながらカナがゆっくりと身を起こした。
感情が抜け落ちたような無表情のまま、カナは首を傾げていた。
「カナ、おまえは……」
「……そうだ、森に帰らないと」
鋼の呼びかけには反応せず、カナはのろのろと立ち上がり、夢遊病者のような足取りで歩きだした。しかし腰の縄が張り詰めればそれ以上は進めない。
「これ、邪魔」
カナが縛られたままの手を翳した途端、天幕の中で風が荒れ狂った。




