第37話 かつてない恐怖
「ここに来る前、カムイは言っていました。悪念の事は気にせずに呪い士としての力を存分に使えと。思えばカムイは初めから自分も含めた獣神を狂神と化さしめるつもりだったのでしょう」
そう前置いて、サンシエは獣神と狂神の関係、悪念についてを掻い摘んで説明した。
「なるほど、こちらの兵を弔っていたのも、お前がこれまで前線に出て来なかったのも、そういう事情か」
「ええ。弔っていたのは戦死者の放つ悪念を最小限に抑え、森に住む獣神の狂神化を防ぐためです。そして呪い士の僕が戦うには死者の霊を幽鬼として無理やり戦わせるしかありません。何百という幽鬼の放つ悪念が獣神を狂神に変えてしまったんです」
「でもそれは……なにか手違いがあったんじゃないの? 狂神はあなた達にとって禁忌なのでしょう? 戦力として見た場合はただの獣神よりも狂神の方が強いだろうけど、森主自らが禁忌を犯すかしら」
霧嶋の呈した疑問はもっともだ。森の民の禁忌を森主たるカムイが率先して犯すとは思えない。悪念への対策が無ければカムイ自身も狂神化しかねないという事実もサンシエの判断を鈍らせた要因だ。
「カムイは、目的を達成するために有効なら手段を選びません。それは禁忌を犯すことも含めてです。さらに言えば採る手段を決めるにあたって自身の安全は度外視できる人でした」
カムイがそういう人間だとサンシエは知っていたのだ。
それを端的に示す証拠が死体として横たわっているカムイの姿だ。
犬頭人身の異形の姿こそが、カムイの性質を端的に物語っている。
「十五年前、古い神から森を守るために、カムイはもう一つの禁忌である『神喰い』を行いました。先代森主のイヌガミを喰って、その力を受け継いだのです」
「イヌガミを喰った、だと? それでこの姿か……」
御堂が愕然として、カムイの死体を見やる。
手段を選ばない、自身の安全は度外視。異形と化したカムイの姿は、サンシエの言葉にこの上もない説得力を与えていた。
神と呼ばれる存在を『喰う』という行為で取り込んで能力を受け継ぐ。
それは御堂が属する京の常識からは掛け離れた行動だった。
「なるほどな。こいつがそういう奴だってのは、まあ判った。しかし呪い士、お前はなんだってそんな話を俺達にする。御雷を回復させたのもだ。確かにこいつのやり方はえげつないが、お前らにとって有効な手段なのも確かだ。禁忌なのだとしても、狂神には思う存分暴れさせた方が益があるんじゃないのか」
「……禁忌というのは、益があれば犯しても良いとか、そういうものではありません」
「それはまあ、そうだが」
言ってしまえば、サンシエはもうカムイには付いて行けなくなっていた。
悪化した状況を打破するためにカナを参戦させたのは不承不承ながらも受け入れた。森の総力を結集するとして獣神を戦に駆りだしたのも許容できた。だが自分を利用して獣神を狂神に変える企みだけは許せない。
これはもう、守るためと称して守るべき対象を壊しているだけだ。これでは東征軍を追い返したとしても、後には何も残らなくなる。サンシエにはそう思えたのだった。
だから森の民の呪い士として、当たり前の行動を取った。
狂神が生まれたなら、速やかに狩らねばならない。
自分にそれができないから、それをできるだろう御雷の力を回復させたのだ。
「ふむ……しかし妙な状況になったな。成り行きだが、どうにもお前とは敵味方という感じがあまりしない」
「言われてみればそうですね……」
これは『獣神を狂神化させたカムイ』に対して、サンシエが反対の立場とったからだ。敵の敵は味方という言葉もある通り、カムイが発生させた狂神に対して一時的に共闘関係になってしまったせいで、そもそもの敵対関係から微妙に感覚がずれてしまっている。
シシリクが率いる森の民達は未だに弓戦を続けているのだろうから、本来ならこうして悠長に話している場合ではないのだが、依然として木蓋に縛り付けられたままのサンシエにはどうしようもない。夜が明ければカナと鋼に加えてサンシエも人質とし、さらに森主カムイの遺体を持ちだしての降伏勧告が行われるはずだ。
この戦に、森の民が勝つ目は残されていないとサンシエは考えている。
御堂が言ったように、カムイが発生させた狂神を放置すれば、東征軍には大きな被害が出るだろう。上手くすれば潰走するかもしれない。が、京は広大な支配地を有している。京を進発した東征軍が松前までを併合し、同じように西征軍も同じように版図を広げている。ここで二千の兵が失われたとしても、容易に新たな東征軍を編成してしまうだろう。
始まった戦はどういう形にせよ終わりを迎える。勝って終わるのが最善とは言え、それが不可能となればできるだけ良い負け方をしなければならない。最後の一人が倒れるまで抵抗を続けるなどというのは問題外だ。降伏勧告を受け入れた上で、「本気で抵抗されたら厄介だ」という印象を残せば、以後の交渉でもある程度有利な条件を引き出せるはずだ。
そのためにも、今のこの奇妙な共闘状態は有難かった。
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本営の天幕には宿営地各所の状況を伝える伝令兵が数多く訪れる。そうした兵達は縛り付けられたままのサンシエを見て奇妙な顔になり、次いでカムイの死体を見てぎょっとする。
御堂は伝令兵とのやりとりに時間を割かねばならず、サンシエばかりに構っていられない。
半ば放置された状態になったサンシエは今後について色々と考えを巡らせていた。
そんな時間がどれくらい過ぎたのか、いきなり辺りに静寂が満ちていた。
外を行き交う兵達の足音や話声、そういったものが一斉にぱたりと止んだのだ。
今までは聞こえていなかった遠くでの戦闘音(恐らくは御雷が狂神と戦っている音だろう)が微かながらも聞こえるほどだ。
静寂の理由は明らかだった。
心臓を直接鷲掴みにされたような、途轍もない恐怖が湧きあがるのをサンシエは感じていた。御堂や霧嶋、訪れていた伝令兵も身を強張らせている。近辺にいる全ての兵が同じ状態になり、その結果として音が絶えたのだ。
「っ! なんだ、これはっ!?」
恐怖心を振り払うように御堂が大声を出す。それをきっかけとして霧嶋も動きを取り戻した。
「狂神の気配に似ていますが……」
そう言って物問いたげな視線をサンシエに向けてくる。
「確かに狂神の気配ですがこれは……少し異常です」
呪い士として狂神狩りに参加する機会は多かったから、サンシエは狂神の気配を嫌というほど知っている。実際には狂神が放つ気配ではなく、狂神という存在を無意識にも感じ取った人間が起こす反応と言うべきだろう。
体に絡みつく悪念のために全身に重りを付けたような感覚を得、心の奥底から湧きあがる本能的な恐怖によって身が竦む。もとがどんな獣であっても、狂神と化した途端に人間とは相容れない存在になるのだ。
ところが今感じている恐怖はこれまでに感じたこともない強烈なものだった。縛られたままだから誰にも気付かれなかっただけで、慣れているはずのサンシエでさえ身を竦ませたほどだ。
それだけにさして間を置かずに動けた御堂と霧嶋の胆力は大したものだと思えた。
そこまでの胆力を持っていない伝令兵は、未だに御堂の前で硬直している。
奇妙なのは、それほどの存在感を持つ狂神の接近に事前に気付けなかった事だ。まるで今そこで狂神に変わったかのような唐突な現れ方だった。カムイが連れて来た獣神が狂神化しないまま本営近くまでやって来てから狂神になったのだとしたら、もっと東征軍の兵が騒いでいてしかるべきだ。
前触れもなくバキバキと木材の粉砕される音がして、同時に天幕をバタバタと震わせる風が吹き渡った。粉砕の音は間を置いて連続し、徐々に大きく聞こえるようになってきた。それに伴って、感じられる狂神の気配も強まっていく。破壊音は凄まじいのに、その破壊に巻き込まれているだろう人の声が全く無いのが非現実的だった。恐らく、巻き込まれ薙ぎ倒されながら、なおも恐怖に竦んで悲鳴すら上げられないのだろう。
サンシエは下腹に力を込め、強まる恐怖心を抑え込んでいた。外からの音を注意深く聞いていれば、それは近付いてはいても本営に向かってはいないと判る。明確な目的があるのか、一直線に進んでいて、このままなら本営の側を通り過ぎることになる。
「こいつは……狂神とはこれほどの……!」
御堂は手指が白くなるほどにきつく槍を握り締めている。が、それは一戦交えようというのではなく、心を強く保つための拠り所としているのだった。
サンシエの予想通り、狂神の気配は次第に遠ざかり、天幕を揺らす風も弱まっていった。恐怖の対象が去って行って気が抜けたのか、伝令兵がへなへなと崩れ落ちた。腰が抜けたのだとしても、失神も失禁もしていないのだから、これは褒められるべきだろう。そんな風に思えるほど圧倒的な存在だった。
「お前の話を疑っていたわけではないが、狂神があれほどのものだとはな。普通の兵が動けなくなるわけだ」
筋が浮くほどに強く握っていた槍を離して、御堂は床机にどかりと腰を下ろした。無差別に放射されていた狂神の悪念は、豪胆な御堂にも冷汗を流させている。
「いえ、私が出会った熊の狂神もあれほどではありませんでした。サンシエ、あなたもあれが異常だと言っていたけど、やはりあれは?」
「はい。これまでに森で出会ったどんな狂神よりも強いと思いますね」
「……これは御雷様が戻らないとどうにもできないですね」
それでも気になるのか、「様子を見てきます」と霧嶋は天幕を出て行く。御堂はへたり込んでいた兵に喝を入れ、状況の確認をさせるために送り出した。
「くそっ! 次から次へと……これもそいつの仕込みなのか」
御堂が忌々しげに言った「そいつ」とは、もちろんカムイの事だ。
問われた所で獣神の狂神化すら知らされていなかったサンシエには答えようがない。
御堂はふと気付いたように顔を上げた。天幕越しに狂神が向かったと思われる方向に視線を向けている。
「不味いな……北面は森の民に対応中か……おい、誰か動ける奴はいないか!?」
御堂の呼ばわりに数人の兵が本営に入ってきた。警護としてなのか控えの伝令としてなのか、天幕の外には何人かの兵がいた。
「さっきの奴がこのまま進むと、北面で森の民に対応している部隊に行きあたりそうだ。先回りして避難するように伝えろ。近付けば動けなくなるだろうから十分に距離を取るようにしろよ」
指示を受けた伝令兵が駈け出そうとしたところで、サンシエは思い切って声を掛けた。
「できればで構いません、シシリク達にも……森の民の方にも警告してくれませんか?」
伝令兵は不愉快そうにサンシエを見た。緊急事態で軍団長の指示を実行しようとしているところを、捕虜からの声掛けで足止めされたのだからそれは愉快ではないだろう。サンシエとしてもこんな事を頼める身分でないのは重々承知している。
それでも一縷の望みにすがろうとしたのは、今しがた感じた狂神の気配が尋常ではなかったからだ。あれに出会えば森の民も動けなくなる。狂神狩りに慣れたシシリクやコジカでも危ないだろう。
御堂は伝令兵の窺うような視線に少しだけ考えるような顔をした。
「いいだろう。大声で呼びかけるくらいはしてやれ。ただし下手に出て行けば森の民に殺されかねない。安全な場所からで良い。むこうが気付かなければそれまでだ」
今度こそ駈け出していった伝令兵の背を見送り、サンシエは御堂に礼を述べた。確実ではないにしろシシリク達にも狂神の接近を知り得る可能性ができただけでも有り難い。
こうして御堂が頼みを聞いてくれたのも、先ほどの共闘関係の賜物だろう。
御堂は北面の部隊を、サンシエはシシリク達を心配しているところに霧嶋が戻ってきた。
霧嶋は血相を変えていた。
後ろには数人がかりで鋼を引き摺って来ている兵達がいる。
身動きもできないほどに縛りあげられた鋼はいくつもの傷を負って血を流していた。どれも新しい傷で、つい今しがたの負傷だと見て取れる。絶大な防御力を誇る鋼蓋を持つ鋼はこれほど血を流しているのを見てサンシエは驚愕に目を見開いたのだが、そうして見られている鋼もまたサンシエを見て驚きの声を上げた。
「サンシエ、てめえ生きてやがったのか!?」
それは仲間の生存を喜んでいるのとは別の、何か複雑な感情を含む声だった。




