第32話 幽鬼
胸に突き込まれた短刀を、信じられない物を見るような目で見ていたカムイ。
「なっ……! なんなんだお前は! 私の力が効かないなど……化け物か!」
「犬の頭をしている相手に化け物と言われたくは無いわね」
「ぐ……」
がくりとカムイの体から力が抜け、霧嶋は崩れ落ちようとするカムイから短刀を抜こうとした。
が、獣毛に覆われたカムイの手が、柄ごと霧嶋の手を掴み止めていた。がっちりと掴まれてしまい、押すも引くもできなくなってしまう。
さらにカムイのもう一方の手が霧嶋の細い首に食い込んだ。
「まだこんな力が!?」
「一人では……! せめてお前だけでも!」
ぐいぐいと力を込め、霧嶋の首を絞めるカムイ。呼吸が困難になるのを感じながら、しかし霧嶋は慌てなかった。カムイはただ握力だけを頼りに首を絞めてきているだけで、その握力も普通の人間と大差ない。呼吸は困難になっても意識を失うまでにはまだ余裕がある。
これが霧嶋や千蔵のような心得のある者なら、呼吸を止めるために首を絞めるのではなく、首を通る血管を的確に圧迫する。頭への血流が途絶えれば短時間で相手の意識を失わせられるからだ。
「悪あがきを!」
慌てる必要は無くても、悠長に構えていられるわけではない。胸を貫いているのだからいずれ絶命するだろうが、それまでに霧嶋の呼吸が尽きかねない。
左手で懐を探り、取り出したのは投擲用の長針だ。一度大きく振り上げたそれを、勢いよくカムイの右目に突き刺した。
「ぐああああ!」
たまらず力が緩んだ隙に短刀を力一杯に押し込むと、今度こそカムイは崩れ落ち、両膝を地面に着いていた。そのまま倒れるかと思えたが、しかしカムイはすんでのところで踏みとどまっている。
獣の外見に相応しい旺盛な生命力を持っているのか、そのしぶとさに霧嶋も驚きを隠せない。
絶命間際の苦しげな息をしていたカムイが、不意に大きく息を吸い込んだ。長く長く息を吸い、大きく身を反らせる。何をするつもりかと、改めて破神を発動させる霧嶋だったが、カムイが発したのはただの声だった。破神を発動していても聞こえているのだから、声そのものは異能力でも何でもない。
ただし、物凄い声量だった。
耳に聞こえるだけでなく、びりびりと大気の震えが体に伝わってきて、霧嶋は押されるように数歩後ずさっていた。宿営地全体に響き渡ったであろう咆哮は、傷ついたカムイには大きな負担をかけた。声として吐き出す息に血の飛沫が混じり始め、ついには一際大きな血の塊を吐いて咆哮は途絶えた。
なおもカムイの口はぱくぱくと開閉していたが、息の漏れる音だけで声にはならない。最後にひゅうっと息を吐き、ついにカムイは倒れ伏した。
「……」
霧嶋は動かなくなった異形の姿を見下ろしていた。
敵の総大将であるカムイを倒したという喜びは湧いて来ない。戦の中で敵として現れたのだから仕方の無いこととはいえ、カナの父を殺してしまったという悔恨の念があった。
「霧嶋!」
鋭い呼びかけに我に返ると、兵たちに指示を飛ばしていた千蔵が厳しい目で霧嶋を見ていた。
「戦場で呆けるな! お前は一度報告に戻れ。ついでに手当てもしておけよ」
「手当て?」
「気付いていないのか? だから呆けるなと……」
言いながら千蔵は自らの首を一撫でする。釣られて首に手をやった霧嶋は、指先にぬるりとした感触を得た。篝火の灯りに透かして見ると手にべったりと血が付いている。そうと意識した途端に痛みがやってきた。
カムイに首を掴まれた時に爪で皮膚を裂かれていたらしい。深い傷ではないがひりつくような痛みとともに血が流れ出ている。
周囲を見渡してみると、東征軍兵は天幕の支柱や縄を巧みに使って獣神の動きを制限し、弓や槍を用いて遠間から攻撃する方法をとっていた。さすがに甲軍長を務める千蔵は指揮慣れしており、当初の混乱は既に収まっている。後から駆けつけてくる兵も即座に戦線に組み込みながら獣神の迎撃態勢は強化されていく。
普通の獣神が相手では霧嶋はあまり役に立たないと自覚している。御堂や佐倉に状況を報告する必要も確かにあり、千蔵の言に従って一旦引き上げることにした。
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獣神襲来の咆哮が響き渡った直後のこと。
軍馬脱走とその後のごたごたで御雷は宿営地の外れ近くにいた。襲撃された北面からは遠く離れており、詳しい状況も判らないまま風に乗って流れてくる叫喚を頼りに現場に向かおうとしていた。
ところが現場に急ぐ途中で横手側から新たに起こった騒乱の音と声を聞いた。
「二カ所からか! あの娘を捕らえて森の奴らも後先考えなくなったのか!?」
森の民が平地での戦いに向いていないのは周知の事実。森の中での弓戦ならともかく、夜襲とはいえ宿営地に仕掛けてくるなど正気の沙汰とは思えない。しかも隠密に救出を図るでもなく、大掛かりな攻勢に出てくるのは、どこにそんな戦力があったのかという驚きも伴っていた。
ともあれ、森の民が自分から森の外に出て来たのなら好都合とも言える。彼らが厄介なのは森の木々に紛れて恐ろしいほどに正確な射撃を行ってくるからだ。森の外でなら、夜襲による最初の混乱さえ収まれば数を頼みに一揉みに圧し潰せるだろう。
方向転換して襲撃地点を目指した御雷は、やがて奇妙な点に気付いた。
天幕に遮られてまだ現場を見ることはできないが、戦いの喧騒は聞こえている。東征軍兵が仲間同士で掛け合う声や、大人数が走りまわる音、天幕が倒れる音や負傷した兵が上げる悲鳴。
しかし足りないものがある。人間同士が戦うなら付き物の剣戟の音が無い。仮に相手が弓を使っているにしても矢が風を切る音などが聞こえるはずだし、獣を使っているならその咆哮もあるはず。そのどちらも無く、つまりは敵側が立てるはずの音というものが欠落しているのだ。まるで東征軍兵が一人相撲をしているように。
そんな違和感を感じながら走った御雷は、到着した戦場の光景に息を飲んだ。
東征軍兵が戦っている相手は、同じく東征軍の兵だったのだ。装束や武具などからはっきりと判る。間違えようもなく東征軍の兵だ。
ただ、彼らの体は青白くぼんやりと光り、半透明だ。
「あれは幽鬼か!」
神狩りとして尋常ではない敵に対する経験の多い御雷は、一目でその正体を看破していた。
死者の霊魂が何らかの理由で人の目に見えるようになって動き回る。それを幽鬼と呼ぶ。幽鬼は大抵の場合、生きている人間に襲いかかって来る。自分が死んだことに納得できないでいる幽鬼は、それが高じて生者を憎み、自分達の仲間に加えようと襲いかかって来るのだ。
異能力を持つ神狩りにとってなら幽鬼は雑魚に過ぎない。ところが一般の兵にとって、幽鬼は厄介極まりない難敵となる。
なにしろ目に見えていても幽鬼には実体が無い。刀で斬ろうが槍で突こうが、それらは虚しく擦り抜けてしまうだけだ。にも関わらず、幽鬼からの攻撃は確実に生者を死へと誘う。
幽鬼本体と同じく半透明な武器で斬られると、肉体的には一切の傷を負わなくても実際に斬られたのに等しい痛みを感じ、致命傷になるであろう斬られ方をすれば本当に死んでしまう。幽鬼は、生者の肉体ではなく霊を攻撃してくるのだ。そして生者の攻撃が幽鬼を擦り抜けてしまうのと同様に、幽鬼からの攻撃は生者の防御を擦り抜ける。刀で受けようにも鎧で防ぐのも不可能。避けるしか対処方法が無い。
一般の兵にどうこうできる相手ではないのだが、そもそも一般の兵は幽鬼についてを知らない。どうにかしようと果敢に挑んでは次々に命を落としていた。
「おい! お前らは下がれ! お前らの手に負える相手じゃない!」
御雷の手から無数の雷撃が飛び、付近にいた幽鬼を次々に打つ。神をも討てるだけの威力を持つ御雷の雷撃だ。幽鬼程度は一撃で消滅していった。
一方的にやられていた兵たちは安堵の表情を浮かべ、指示に従って後退していく。
「しかし、なんだってこんなに幽鬼が出てくる? いくらなんでも多過ぎるぞ」
東征軍はこれまでに多くの死者を出している。戦をしているのだから当然であり、それだけの死者が出ていれば一人や二人が幽鬼になってしまっても不思議ではない。
だが見回して目に入る幽鬼の数は優に三桁を越える。これほどの数が一斉に幽鬼化するとは考えにくい。しかもどうやら幽鬼達は宿営地の外からやって来たようでもある。
「これは……まさか森の民の呪い士か?」
現れたのが東征軍兵の幽鬼であったため、一時これは森の民とは無関係かと考えた御雷だった。だが数の多さが異常であり、またこの夜に、もう一カ所の襲撃と時期を合わせるように出現したのはどう考えても間が良過ぎる。
そうして思い出すのは、霧嶋の報告にあった森の民の呪い士サンシエだった。
報告にあったのは蜘蛛の霊を使っての治療行為だったが、霊を見る能力と霊を操る能力は、不自然に大量発生した幽鬼と結び付く。
「これほどのことができるような奴だったのか? 森の奴らはこんな戦力を今まで温存していたっていうのか? 訳が判らんぞ……」
これがサンシエの能力で引き起こされているのなら、戦の早い段階で前線に出て来られていたら戦局は今とは全く違っていただろう。何しろ数の多い東征軍とはいえ、幽鬼に対抗できるのは神狩りの能力を持つ御雷と霧嶋だけなのだから。
それだけにこんな局面になるまでサンシエが参戦しなかった理由が判らなかった。
だが詮索は後だ、と御雷は頭を切り替えた。
これは幽鬼と獣の違いはあってもカナの場合と同じで、どれほど数が多くても幽鬼を操っているサンシエさえ倒してしまえば良い。そしてこれもまたカナの場合と同様、幽鬼を操るうサンシエは近くにいるはずだった。
「っと、あそこか?」
幽鬼の群れの後方に、何体もの幽鬼が密集している場所がある。しかもその中に人影らしきものも見えていた。幽鬼に囲まれて無事にいられるのだから、そこにいるのは間違いなく幽鬼を操っている術者、呪い士のサンシエだろう。
立ち塞がる幽鬼を雷撃で蹴散らしながら駆け寄ってみれば、やはりそこにいるのはサンシエだった。石刀をゆらゆらと揺らめかしながら、突進してくる御雷を吃驚したように見ている。
御雷は有無を言わさず、雷撃の束をサンシエに向けて放っていた。




