カビの激励はキツイものだ
進んでは止まって、進んでは止まる。自分自身のスタミナのなさに俺の血管が切れそうだ。でも今は切れる血管すらないからこんな状態なんだろう。
今の俺はフェ・ラジカの胞子を拾う事はないが、その代償に次第に弱っていく。でもそれは当然だ。だって毒は毒を持って制する……比較的安全なフェ・ラジカの株をわざと寄生させて、ヤツの出す毒によって外に散漫している危険な株の胞子を拾っても体内に根付かないようにしている。
だから致死量が高い株を拾う事は無いが、このままでは俺は貧血状態になって動けなくなるどころか血液内に回った毒のせいで死んでしまう。
今のまま死んだら俺はつつじの木の下にいた魚と同じく惨めな死に様を晒す事になっちまう。だから早くしないといけない。
それにあのアパートから逃げられたら探せそうもない。あの辺は住宅地が多すぎて俺は把握しきってないし、無関係の人間が入り込めるような場所じゃない。危険な株のキャリアも時間をかければかけるほど死亡する確率が上がるはずだ。咳をしているっていうから、胞子を撒き散らしている状態だし。
緊張からなのか、それとも度重なるめまいで体が参っているのか。俺は胸の置くから何かこみ上げてくるようなものを感じた。喉の奥に手を突っ込まれたような気持ち悪さを感じる。はしたない事だと思うんだが、理性はそう思う一方で体は待ってくれない。
俺は自転車にもたれかかりながら咽つつえずいた。咽るといってもその力も無いのか、強く喘いでいるような感じだった。口からやたらねばついた唾液が滴った。口の中が妙に苦く感じる。いや、味が無い事に強い不快感を感じているような……
俺は何をしてるんだろう。俺は錬金術師でもなんでもないんだぞ。親父に連絡して、俺は安全なところに非難するのが一番いい方法だ。
でもどう説明すればいいんだ? ソロモンが血迷って町を壊そうとしてるってか? 大体それも本当かどうか分からない。このカビが嘘ついて俺を体よく食おうとしているだけなのかもしれない。
でもだったら、蚊の情報は一体何なんだ? 危険な株についての話と、コイツの言う事があまりにも接点がありすぎて、俺はどうしてもソロモンがやった事にしか思えない。
それに友達が危ない目にあってるんだぞ。逃げてどうする。でも、本当にこれでいいのか? 俺が出て行って何になる? かっこつけてアピールってか?
俺は震える体と葛藤する役立たずな脳みそを抱えてどうにかペダルに足をかけた。
重い。自転車はこんなに重いものなのか。もう何度目だろう。脳みそじゃ同じ事ばかり繰り返して、外ツラじゃ同じように立ち止まっては吐いて、これじゃ俺が隔離されるべきキャリアそのものじゃないか。くそったれが。
悪態をついて自転車を走らせると、今まで沈黙を貫いていたフェ・ラジカが不意に話しかけてきた。
『ところでザドックは女が好きなのか?』
いきなり何を言い出すんだ。でも俺は言い返さなかった。言い返す元気も無い。だからなのか、フェ・ラジカは意地悪く語り続けた。
『ただの女友達を命がけで助けに行くなんて何かしら下心がなきゃやれない事だ。ジュディスだったか、その女はお前の好みなのか?
記憶の中の彼女は金髪蒼眼、ただ少々肌荒れが気になるな。少々現実的な体系だ。高望みしなければなかなか具合はよさそうだな。性格に関しては気立ては優しいが少々愚痴っぽいのが玉に瑕か』
奴等は記憶の中も覗けるのか。気持ち悪い連中。俺の脳みそまでカビてるってことじゃないか。俺は嫌悪感をあらわにして「やめてくれ、俺はそんな気持ちなんざ持った事ねえよ」と吐き捨てた。だがフェ・ラジカはやめてはくれなかった。
『毛深い男は欲深いというではないか。女友達しか出来ないのは女たちはお前の下心を見抜いているのかもしれんぞ。それでも友達として付き合ってくれるのなら人徳があるということだろうが』
人の気にしている事をずけずけと……一体何様のつもりなんだこいつは。いきなりの暴言に俺は気持ち悪さよりも怒りがこみ上げてきた。いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるってもんだろう。
『案外利用しているだけかもな。女とはしたたかで残酷なもの。全てに利用価値を見出す。自分の役に立つものを身近に置いておきたくなる生き物だ。大人しく傅いて騎士様ごっこをしていれば、身も心も下劣なお前も気まぐれにお呼ばれされることもあるかもしれん』
その言葉を聞いて俺は堪忍袋の緒が切れた。見ず知らずのヤツに自分だけじゃなくて友達を侮辱されれば誰だって怒るだろう。しかもカビに言われたんだ。重い体を引きずる苦しみにストレスを感じていた中で精神的な苛立ちを加えられた事で俺ははじけたように叫んだ。
「黙れ、そういう話はうんざりだ! 俺はただ心配だから助けたいだけだ! 彼女は親元から離れて1年ずっと一人でやってんだ、それを心配して何が悪い?! 何でもかんでも男女関係と結びつけるな、このあばずれ!」
俺の激情とは裏腹にフェ・ラジカは笑いながら『答えが出たじゃないか』と切り替えした。
『お前は二つの事で悩んでいた。自分が助ける必要があるのか? もしかすると、ジュディスに対しいい格好をしたいだけなのかもしれない。もしかすると、ソロモンの仕業である事を親に言う事がためらわれるからかもしれない。後者は私にもどうする事もできない。慰めの言葉をかけるしかできない。だがもう一つの問題に対しては決着をつけさせることができる』
体内のカビはそう説明すると一呼吸置いてこうとも言った。
『私はこれでも相当セーブしている。それこそ私が生命の危機に晒されるほどな。お前を脅かすものは私ではなく自身の葛藤と私に対する過度な恐怖心、そして極度の緊張感だ。でももう答えが出たから、お前をやきもきさせる足かせは無くなったはずだ。さあ、さっさと進もう』
フェ・ラジカはわざと煽って決心を決めかねていた俺を立ち直らせたのか。種明かしをされたら気が抜けちまった。気が抜けたら普通は力が抜けるはずだが、何故か俺は凄く楽になったことに気がついた。
俺の中のフェ・ラジカは俺に気遣ってくれているらしい。だからといってタイムリミットがなくなったわけではないだろうが、普通のフェ・ラジカよりもかなり長く耐えられるはずだ。フェ・ラジカは俺を優先して命を顧みないほどセーブしてくれているらしいから、俺もここで逃げるわけにはいかない。
そうだ、俺は別にかっこいい事したいわけじゃない。ただ故郷から離れて一人で頑張ってる友達を心配してるから助けようと思ったんだ。俺には出来なかったことを女の身でありながらやってる事が尊敬できるから、俺は親しくなりたいと思ったんだ。
助ける手段が俺にもあるのなら、誰かに頼って逃げるより何とかしてやりたいだろう?
俺は何故か家元から離れて生活する事が怖くて近所の大学に行くことにした。ソロモンと顔合わせしたくないから家から出て行きたいという気持ちもあるし、アブラメリンの名前からいい加減離れたいと思う独立心も無いわけじゃない。
むしろ大いにある。あるけど、生まれ育った家から離れる勇気がなかった。近くにそれなりの大学があるのならそこに通ったほうがいいんじゃないかとそっちを選んだ。
たかが大学の進路を選ぶときすらこんなんじゃ、俺は一体どんな社会人になるのやら…人相占いでは100パーセントの確率で意志が強いと出る割に優柔不断で意志が弱い。
でも別に嫌々入った学校でもないのだから文句は無いのだが、それでも何か変わりたいと思って大学のサイクリングクラブに入った時に出会ったのがジュディスだ。
自分のやれない事をやってる人を見るとすげえなって思うじゃないか。クラブに入って彼女だけに限らず色々なやつと知り合うことが出来た。その事は俺にとっては大事な事だ。
今度はジュディスが出来ない事を俺がやる番なんだ。
そう決意を新たにすると、ソロモンの事はまあどうでもよくなった。腹をくくって親父に丸投げしても解決にはなるだろうけど、時間がかかるだろうし。俺が解決すれば時間短縮になるかどうかは分からないが、まあなるようになるさ。俺もアブラメリンの一族なんだし。
重い自転車がいつもの自転車に変わったことを実感すると、フェ・ラジカが『あと毛深い男は欲深いというのは私の創作だ。あまり根に持つな』と付け足した。
毛深い事には別にショックでもなんでもない。というか、単に赤毛だからか剛毛に見えるだけで実際そこまで酷いものじゃないし。ノアデアのほうがよほど酷いからコンプレックスは持っていない。
ノアデアは金髪で白い肌だからかぱっと見は細く見えるが、物心付いた頃から家業の花屋を手伝っている事もあってやたら筋肉質で、しかも男の俺が見てもうわっと思うくらい毛深い。しかもそれを「花屋は力仕事ですからパワフルに見えてナンボ」とかいいながら処理もせず夏に見せびらかす始末。
いくら男でも見える場所の無駄毛処理くらいしようよ。まあ毛が好きな女もいるらしいからそういうの狙ってるのかもしれないけどさ。いいよね、そういうお気楽な都合で暢気に晒せるって。俺がやったら変質者みたいだからやれない。
苦しかったのは真理的なものが大きかったってのが発覚して気が抜けたのか、俺は暢気にそんな事を思い出しながら進んでいた。が、あることを思い出してしまった。それはとても重大な事だ。
さっきの俺は一見したらいきなり独り言で騒ぎ出したキチガイだよな…しかもついかっとなってあばずれとか言っちまったし…でも自転車だし、案外携帯電話で喋りながらとかそんな感じで見てくれてるかな。でもそういうの見たことあるけど、電話って分かるまで何こいつってドン引くよな…
周りには誰もいないのだから別に気にする事はないんだろうが、俺は妙に恥ずかしくなって自転車のペダルをいつもより倍強くこいだ気がする。