随分とおしゃべりな万物なことで
手の止血は一人じゃ出来ないからハンカチを握り締めて圧迫させるしか出来ない。異様な傷だから誰かに言えばどうやって出来た傷なのか知りたがるだろう。今の頭じゃごまかす事が出来そうもないから、もういっそ無視する事にした。今はそんな事をしている場合じゃない。白い床に赤黒い血が数的垂れているが、拭くのも面倒だから放置した。
俺は研究所を出てとりあえず市街に行く事にした。止血しながらの運転は簡単かと思いきや結構面倒だ。ハンドルを強く握っていないといけないし、そうするとブレーキが利きづらい。倒れないように注意しないとな。
凶暴な株が狙うところといったら人が密集しているところだろう。とはいえ今は恐らく人はまばらだろうな。命知らずの社会人たちが仕事の為に右往左往している事はあっても、恐らくとりたてて使命がない人間は家に引きこもっているはずだ。自衛の為、もしくは感染を広げない為。
感染を広げない為といえばエステルは無事なんだろうか。咳によって粉末状の痰が飛ぶといわれていることから面会拒絶されてしまったが、ノアデアのように単にちょっと風邪をこじらせた程度で無事ならばいいんだが……俺の中に寄生したこのフェ・ラジカの株なら何の問題もないのだが、風邪が流行り始めたのと鳥がたくさん死ぬようになったのはほぼ同時期だ。様態が悪ければもしかするとこいつの胞子が感染する前に鳥が運んできた凶暴なフェ・ラジカに冒されてしまったかもしれない。だとしたらエステルはおろかご両親も危険だ。
ご両親は風邪のようには見えなかったが、俺が来たから我慢していたのか、キャリアとして胞子を持っているだけでまだ発病していないだけなのか、本当にまだどの株にもやられていないだけなのか。今となっては後者だけはやめてほしい。願わくばこいつの安全な株のキャリアであってほしい。でなければエステルの家は一家全滅の可能性が……
だってフェ・ラジカの病に対する有効な手立てがないんだぞ。カビだけを取り除く事は簡単なようで難しい。この殺人カビは通常は外から持ち込まれる。生物に感染すると痰の中の胞子を何らかの形で体内に取り込む事でも発病する。
血液に取り付いて、体内の鉄を食らい、猛毒を分泌する。その毒は血管を通ってまたたくまに体を冒し、体中に腫瘍を作り出し、最終的には心臓が壊れて死んでしまう。発病してから数日でだ。
フェ・ラジカは寄生先を殺したくないようだから必死に共存しようとしているみたいだし、実際感染者は徐々に数週間キャリアとして生きながらえる事ができるようになってはいるようだが、かえって感染経路を増やしているから厄介なことこの上ない。
死んだように静まり返っている住宅街を走りながら、俺はふと思ったことをフェ・ラジカに尋ねてみた。体内のフェ・ラジカにどう話しかけていいものか困るが、誰もいないし、人が見てたとしても小声で呟いてれば独り言の多い奴程度ですむだろう。
「なあ、何で今まで喋らなかったんだ? フェ・ラジカは知能があるってのは知られてるんだ。お前みたいに喋るのであればこんな混乱は起きなかったんじゃ……これもやっぱりソロモンの改造のおかげなのか?」
するとフェ・ラジカは体内から直接語りかけてきた。
『今こんな事を言うのはよくないのかもしれないが、私が喋る変り種というわけではない。私の声を聞く君が変り種なのだ』
俺が変り種? 少し遠慮がちに言っているが、多分俺をこれ以上混乱させたくないから言うべきか否か迷っていたのだろう。カビの癖に随分思慮深いこった。
フェ・ラジカは何故そう思うのかを静かに説明しだした。それは本当にカビの思考なのかと思うほど的確な指摘だった。言われてみればそうだよなあ、何で俺は……
『私の事を知らないはずの君が私の苦しみを察知して助けに来たところで変だと思っていた。君は我々の言葉を聞く事ができる変わった能力を持っているのだろう。錬金術師が立て続けに名のある功績を上げる事ができるのは、声なき声を聞く特殊なセンスを持っているためだという。本来人とは通信出来ないものたちと交渉することで真理の欠片を貰い、それを研究する事で大いなる結果を残すという……』
錬金術師はたくさんの奇跡的な研究結果を残す。科学者達が舌を巻くほどのその英知は単に一般人と着眼点が違うだけなのだろうと思っていたが、どうやら『物の声を聞く』という所謂聞き耳みたいな能力を持っているかららしい。御伽噺レベルの大昔の錬金術師は確かに動物や草木と会話する描写がある。中には天使や悪魔と交渉をしたという眉唾なものもあったはずだ。
人ではないものたちの声を聞けるのなら、彼等の知恵を借りて人間の知りえない新発見を見つけることは容易いだろう。だから世紀の大発見をしやすいのか……普通の人よりはしやすいというだけで頻発するわけじゃないが。漫画みたいに奇跡の大安売りは流石に錬金術師も無理だ。
つまりアブラメリン家にもそういった超能力が伝わっていたというのか?
『君はアブラメリンの血を引くのだろう? 仮説というよりただの憶測に過ぎないが、もしかするとアブラメリンの英知をソロモンが、アブラメリンの超能力は君が受け継いでいたのかもしれないな。君は自分では錬金術師ではないといっているようだが、錬金術師の才能は間違いなくあるということだ』
俺たちは一卵性の双子だ。能力を二分していたといわれてもまあどうにか納得はできる。能力を均等に分けられていたならソロモンは今ほど賢くはないだろうが、俺はきっとほどほどの頭を持っていただろう。そうやって生まれてこれば俺たちはここまで不仲にならなかったかもしれないし、アイツも道を踏み外す事もなかっただろうにな……
いや待て。という事はソロモンにはこいつの声が聞こえない可能性があるってことか? あんな死にそうな声をあげてるのによくものうのうと寝てられると思ったモンだが。ヤツにとってこいつの悲鳴が聞こえないのなら汚いまま放置して死ぬ目にあわせていたと気づかないのも無理はない。
普通ならカビが綺麗好きだなんて思わないだろうし、肉片を取り除いたら折角捕獲した株が死んでしまうかもしれないと思うだろう。こいつらはタンパク質を食っているわけじゃなくて鉄を食ってるんだから死肉なんて無用のシロモノってのは言われてやっとそういえばそうだなと分かるくらいだ。
「ソロモンはお前の声が聞こえなかったから苦しむお前を他所に暢気に寝ていられたんだな」
そう呟いたものの、俺はもっと違う事を想像していた。
俺の力がソロモンに宿っていれば……こいつの声なき声が聞こえたなら、数々の非道な実験を思いとどまったかもしれない。きっと永遠にグリモアは完成しなかっただろうが、別の解決策が見つかったかもしれない。俺たちにとってもフェ・ラジカにとってもそれが一番良かったんじゃないかという気がする。
何故錬金術師の超能力が錬金術師に興味がない俺に遺伝しちまったんだろう。ソロモンが英知と力を兼ね備えた完璧な錬金術師ならば……俺が力を横取りしなければ……
気持ちが沈むと考える事もネガティブになってくる。俺らしくも無く色々考えていると、フェ・ラジカが語りかけてきた。
『対象物に無用の同情心を持たずただ真実を追究すること。それが錬金術師の心構えだ。ためらいは時に対象物に無用の苦しみを与えるからな。
お前の力を仮にソロモンが持っていたとしても私はグリモアの材料になっていただろうし、お前がアブラメリンの能力を継承していなければ私は当の昔に朽ち果てていたか、そうでなければ凶暴なフェ・ラジカによって町の住民は全滅していただろう。お前もフェ・ラジカに感染して死んでいたはずだ。
だから最良は今このときだ。現実の今なのだ、ザドック』
思っていることが分かるのかな。俺はまたしてもカビに心配されちまったようだ。恐怖の殺人カビに寄生されてるってのに、それに励まされるなんてつくづく変な人生だ。
『お前が私の声を聞きつけてくれたから……良質の鉄分を。血を分けてくれたから予防策がとれた。お前が私の話を聞いてくれなければ絶対に出来なかったことだ。私は錬金術師の力を持ちながら錬金術師ではないお前がいてくれたことに感謝している。だからお前が悩む必要はない。大丈夫だ』
俺が俺自身の存在を否定する事が許せないのか、フェ・ラジカは随分ストレートな言葉で俺を慰めた。なんだか随分優しいやつだ。現在の宿主だから多少媚を売ってるのかもしれないけど。
しかし言葉が分かると殺人カビも可愛く思えるものだな。錬金術師がとりわけ自然科学を愛する気持ちも分からなくもない。知能があるという噂は確かにあったが、ここまで人間的で優しい性格をしているとは思っていなかった。こいつが特殊なのか、それとも元々性根が優しい生き物なのかは分からん。他の株と会話する機会があればそれもはっきりするだろうが……
そう考えた時俺ははたと気がついた。最高のフェ・ラジカ探知機が身近にある事に。
「ってことはさ、俺ってもしかしてお前とは別のその凶暴な株の声も聞こえるのか?」
この力が特殊なものだとするなら俺はフェ・ラジカを人一倍発見しやすいはずだ。だが、フェ・ラジカは申し訳なさそうに小声でツッコミを入れた。
『確かにお前なら我々の声を聞けるだろうが、人と同じで喋る相手がいなければ喋らないぞ。宿主が錬金術師でお前と同じようなセンスを持っていない限りはしっぽを出さないはずだ。無言でも分かるのは…私が死に掛けていた時にお前が察知したように、相手が何かのっぴきならない状態になっているときにその激情を察知する事はできるかもしれない。しかし我々がそんな状況になっていたら、宿主はもっと大事に至っている事になるぞ』
つまり宿主である人間が危機的状況に陥っていない限り俺の能力は役立たずってことか。確かに喋る相手がいないのに喋るなんてバカみたいなことしないわな。
俺では見つけられそうもないってことか。困ったな、どうしよう。
町は確かに異様に静まり返っているが、全く人がいないわけじゃない。マスクをかけたり、げほげほいいつつも外に出てる人がいたりする。あぶねえなあと思うが、俺の体内にいるフェ・ラジカの胞子によるものなら風邪よりも安心できるものだろうな。
だから必ずしも外に出てるからこいつだ、と断定できない。見ず知らずの人に話しかけまくるわけにもいかないし、どうすればいいんだろう……
早速袋小路にはまった俺は、途方にくれてブレーキをかけた。そのまま自転車のペダルに足を引っ掛けて呆然と周りを見回していた。畜生、せめて目で見て感染者が判るような能力があればいいのに。アブラメリンの血は役にたたねえな。
内心錬金術師の血に対し毒を吐いていると、何か声が聞こえてきた。フェ・ラジカの声とも違う。だが人間の声でもない。この聞いたこと無い変な声は何だ? 耳を済ませて辺りをうかがっていると、今度はかなり近いところで声が聞こえた。
「カビは確かに何も無ければだんまりを決め込むでしょうね。だったら何かリアクションを起こさせてみればいいんじゃないですか?」
えらく近いところから……よくよく見ると俺の服に黒いものがついてる。一瞬何なのか分からなかったが、そうか、これ蚊だ。蚊が喋ってるのか? 俺はきっと目を白黒させつつ蚊をガン見してただろうな。しかし蚊は臆する事無く喋り続けた。
「私は恐らく貴方がお探しの人間を知っていますよ。信じるか信じないかは貴方自身がそのリアクションを見て判断すればいいかと」
「蚊がしゃべっとる……俺の力はカビだけじゃなかったのか」
蚊は有益な情報を知っているという。しかし俺は驚きのあまりトンチンカンなことを口走り続けた。今までは普通に害虫と思って、見つけ次第叩き殺していた虫が喋っているのだから俺の気持ちも分かってもらえるだろう? しゃべるはずの無い虫が俺に話を持ちかけてきてるんだぞ。