青年はあの頃を思い出す
嘆いていても仕方ない。ここは一つ情報を整理しようじゃないか。…そうだ、ソロモンが心配な理由だったな。長くなるだろうがまあ聴いてくれ。
鉄を食う危険なカビの噂は俺の住むマサース市の各町にも広まっていた。混乱はそんになかったよ。流行地より離れていたから皆無縁だと思っていた。俺もいざとなりゃアブラメリンという錬金術師の家が何とかしてくれると軽い気持ちだった。実家が最後の砦って割と心の支えになるもんだぞ。周りの皆も悪口は言えどやはり最後の頼みとして信頼はしていたようだ。
だが集中豪雨で街の中を走る川が氾濫して道路が水浸しになるよくある事故が発生してから、何かがおかしくなっていった。川の付近から腐臭がするようになっていったんだ。腐った臭いというか、なんだか血なまぐさい。普段は氾濫しても一日もたたんと元に戻るはずなのに。何かがおかしいと感じたうちの研究所に勤務してる研究員が川の付近の調査を始めたんだ。
そこで見つけたのは、川の近くの街路樹の陰で繁殖していたカビだった。川の氾濫で流されてきた死んだ魚と思しき肉片は噂どおり爆ぜた様に地面に飛び散っていて、腐って半液体状になった肉はつつじの木に絡まっていた。つつじの木の根元から不気味な腫瘍が複数生み出されていたよ。研究員が写してきた写真で見て俺は全身の血が逆流したようにぞっとしたもんだ。胞子が俺の中に入れば俺もいずれこうなっちまうんだぞ、怖いじゃないか。
感染した魚によって例のカビが町に持ち込まれちまったんだ。幸いまだ人間には感染したって話はないようだから、今のうちにつつじごと焼き払って消毒してしまおうとあれこれやってたらしい。俺は写真を見せてもらっただけで詳しい事は分からない。だって俺は錬金術師じゃないし、研究員たちみたいに医者や科学者じゃない。ただ俺も一応アブラメリン家の子息だからその特権を生かして本来一般人が見るべきものじゃない資料を見ただけの話だ。
だがつつじを焼き払おうとした研究員達にまったをかける阿呆が現れた。…そうさ、ソロモンだよ。
ソロモンは錬金術師の立場としてこのカビを欲しがった。まだ鉄をたくさん取り込んでおらず強い毒素を放っていないこの小さな株で生態を調べれば、各地に広がるカビの侵攻を食い止める事ができるはずだってな。まあ確かに小さな魚の体とつつじを媒体に大きくなろうとしてたカビはお世辞にも強大な病原体というには役不足なサイズだった。だって写真1枚で収まる規模だぞ。規模が小さくても十分気持ち悪いけど。
うちの親父も錬金術師だし、ソロモンの気持ちも分かるんだろう。でもいつ胞子をばら撒き始めるか分からない。いつもみたいに研究対象を家の中に持ち込むようなずさんな事はせず、研究所で厳重な管理化の下で研究する事って約束でソロモンの願いは成就されちまった。…あの異臭はやっぱり自分の部屋で研究してたのか。俺はその事実を知ってぞっとしたよ。今まで何の研究してたか知らんけど。
そんなわけで例の鉄を食うカビ…そうそう、確かカビの名前は『フェ・ラジカ』。フェ・ラジカの株を手中に収めたソロモンは研究所に引きこもって何かしら研究していた…ようだ。アイツも一応医学生なのにちゃんと大学行ってたのかね? 普段はそんな事気にもしないんだが、さすがに状況が状況だから親に訊いてみたら今下手に外をうろついたら胞子をばら撒くかもしれないから学校には行ってないそうだ。留年も辞さない心構えだったのかもしれない。一体いつまで学校に行かないつもりなんだろうな。つくづく気が知れない奴等だよな、錬金術師って奴は。
そんなこんなでソロモンの姿を見なくなって3ヶ月くらいたった頃かな。俺が大学1年の頃だから…そうだ、学期末試験で平和に頭抱えてた頃かな。珍しく深夜まで勉強しとったら、どこからか喘ぐ声が聞こえてきたような気がするんだよ。いやらしいものじゃなくて、今にも死にそうなやつな。勘違いするなよ。
うちはさすが錬金術師の家だけあって結構立派なたたずまいなんでたまに病院と勘違いした病人が家に迷い込んで来る事があるから、そういうのかなと窓から外を見てみたがそうでもないらしい。でも確かにどこからか死にそうな声が聞こえてくる。気味悪いが翌朝病死した人間が家の側で倒れてたとかあったら困るんで、部屋から出て表に出て様子を見ようとしたんだ。だがどうも外からじゃないらしい。耳を済ませて声が聞こえる所を探ってみたら、その声を掻き消すような凄いいびきがソロモンの部屋から聞こえてきた。どうも知らないうちにソロモンが帰ってきたらしい。でも、ソロモンのいびきに混じって確かに何かが苦しんでいる声が部屋の中から聞こえてくる。
よっぽど無視しようかと思ったが、声の主が可哀想な気がすると同時に猛烈な好奇心が俺を支配した。俺はいつもソロモンに勝手に部屋の中に入られてるし、たまには俺が不法侵入したっていいだろうと思って意を決して入ってみた。そこで見たのは、いつ洗ったのか知れない黄ばんできったねえシーツに包まっていびきをかいて寝てるソロモンと、本とプリントと脱ぎ散らかした服が散乱してる綿埃とフケと抜け毛と落ちたパンくずだらけの床。元は机であったのであろう物置みたいなスペースに置かれた奇妙な箱だった。どうも苦しむ声はそこから聞こえるらしい。にしても地獄絵図みてーな部屋だ…ゴキブリすらはだしで逃げ出すんじゃないのかね。事実奴の部屋からは死んだゴキブリしか発掘された事がないらしいし。
入っただけでダニか何かに食われそうだが、箱が気になって俺は恐る恐る部屋に入った。俺と同じ顔した奴がきたねえツラして寝てるのも気にはなるが、今のところ起きる気配はなさそうだ。少しやつれて痩せてるようには見えるが、まあずっと研究所でよろしくやってたんならこんなもんだろう。しかしこうして改めて見ると俺って無精髭ほんと似合わねえな…まるで山賊みたいだ。気をつけよう。
箱はえらく頑丈に蓋が閉められていた。それでも開かないことはないようだった。箱の蓋をなるたけ音を立てないように注意深くこじ開けて、俺は窓から入ってくる月明かりを頼りに中を覗いた。そしてそれが何なのかを目視して、血の気が引いた。悲鳴を上げなかったのは我慢したからじゃない。本当に身の毛がよだつ思いをすると悲鳴も上げられないもんだ。
箱の中にあったもの。それはあの腐った肉片のような不気味な物体…親父から家に持ち込む事を堅く禁じられていたはずのフェ・ラジカだった。ソロモンは親父の言いつけを破って家に持ち込んだんだ。何も用意せずフェ・ラジカを間近で見ちまった俺は数日後に死ぬかもしれない。俺は箱の底でぐちゃぐちゃになってるフェ・ラジカを凝視しながら硬直していた。どう反応していいのかわからなかったから。
だが、硬直しながらも心のどこかは案外冷めていた。ここまできてもやっぱり好奇心ってのがあったらしい。冷静な俺はあの時聞こえた苦しむ声の主がこのフェ・ラジカである事を突き止めた。確かフェ・ラジカは噂を鵜呑みにするなら知能を持った真菌類だったはず。この声が本当にフェ・ラジカのものだとするなら、フェ・ラジカは長期間のソロモンの研究で痛めつけられて死にそうになっているのかもしれない。
気持ち悪い。気持ち悪いが、今にも死にそうになっていると分かっていてここで見捨ててもいいのだろうか。別にカビなんだし死ねばいいじゃんと思うんだが、俺は罪悪感を感じてどうしても捨て置けなかった。苦しむ声があまりに人間に似ていたからかもしれない。しかしどこからこの声を発しているのかは分からない。
万が一親に見つかってもフェ・ラジカだったとは思わなかったとしらばっくれればいい。約束を破ったのはソロモンだし、俺は無知な一般人だ。そう言い聞かせながら俺は箱を持ってソロモンの部屋から抜け出し、出来るだけ静かに庭に出た。ここにきてやっとフェ・ラジカの生臭さが確認できた。奴の部屋は危険なカビより臭いってことか…よくもまああんなところで生活できるものだ。もしやフェ・ラジカが死にかけてるのは実験で弱ったからじゃなくて部屋が汚かったからじゃないだろうな。
俺は庭にある水道の蛇口をひねって箱の中に水をぶちこんだ。臭かったし、魚を媒体にして生まれ出た株なら水が一番いいだろうと考えたからだ。菌類らしくぐちゃぐちゃになって底にへばりついていたフェ・ラジカは暫くはその姿を保っていたが、水を受けてじわじわと底から外れていった。そして水面に浮いた。なんだか気持ちよさそうだった。何故俺がそう思ったかよく分からないが…とにかくこいつは気分よさそうだと思った。
スライムみたいにゲル状なのかと思っていたが、よくよく観察するとそうでもないらしい。つつくと弾力はあるがしっかりとした固形物であることが伺えたので、思い切って洗ってやることにした。どうせ死ぬなら殺人者をもっと観察してみたいと思ったからだ。水面にはフェ・ラジカが分泌したらしい脂特有の膜が張っていたが、水を注ぎ続けながら表面をこするように洗ってやると次第にそれが出なくなった。なんだかソフトビニールのボールか何かを触っているような手触りだ。
ここまでくると俺も大胆になったもんで、本当にボールみたいに丸くなった水浸しのフェ・ラジカを服で乱暴に拭いて水を切ってやった。ぐちゃぐちゃで腐臭を放っていたのはどうも寄生先の肉片の関係だったようで、それを洗い流すとしなやかで案外綺麗なもちのような物体になった。腐臭もなくなった。掌に乗る大きさのもちみたいな物体はほっとした様子で俺の手に乗っていた。苦しんでいたのはどうやら不衛生なまま放置されていた為のようだ。カビですら綺麗な状態を好むのに…ソロモンはカビ以下なのだろうか。
月光の下で見るフェ・ラジカは思った以上に白くてきれいだった。もしかするとフェ・ラジカではないかもしれないと思うほどだ。つついてもやっぱりもちみたいにやらわかい。可愛いもんだとつついて遊んでいると、フェ・ラジカもまるで俺と遊ぶようにその身を使って指を軽くひっぱった。指がもちにめり込んだまま引き抜けなくなったが、悪意がないことは何故か分かった。知能があるというが、本当にあるらしい…
ひとしきり遊んでから箱を水切りして、すっかり綺麗になった箱の中に同じくさっぱりと綺麗になったフェ・ラジカを入れてやった。そしてソロモンの部屋に戻って蓋を閉めて元通りにしてやった。ソロモンの部屋はやっぱり地獄だった。フェ・ラジカの死肉臭をかき消すほど臭い部屋ってどうなんだ。
そこまでは俺も随分と冷静だった。自分の部屋に帰ってから寒気が襲った。つついて遊んでいた時は何も感じなかったはずの指から出血していたのだ。フェ・ラジカの白い体には血は一切ついてなかった。蓋を閉めた時についたのだろうか? だったら痛みを感じるはずだ。だってえらく豪勢にぱっくりと傷が開いている。…まさか、フェ・ラジカに吸血されたのか? フェ・ラジカは血液内で増殖して殺すというから、俺は本当の意味で寄生されちまったのかもしれない。いまだ流れ出る血と自分の傷を見ながら俺は本気で死を覚悟した。…覚悟なんてかっこいい事はしてないな。後悔してたというのが正しいか。
でも案外床に入ると寝れるもので、朝起きたらとんでもねえ時間になっていた。寝坊して試験に遅刻した。あとで追試してどうにか単位は取れたが、俺は心底ぞっとした。…試験に遅刻した事に対して。何故かフェ・ラジカに吸血された可能性に関してはさっぱり恐怖心は浮かばなかった。
その日の夜ソロモンはもういなかった。箱もなかった。