第二十二章:初めてのキス
私は一人でホテルの中を歩いていた。
ベルトランさんが追い掛けて来る気配は無い。
それが悲しいと同時に嬉しかった。
今、ベルトランさんと会ったら・・・・全てを投げ出したい気分だったから。
老人---ウィリアム・ハント氏は私に死を求めた。
戦友たちは死に絶え自分も長く生き過ぎた。
だから、殺して欲しい。
そう願った。
でも、同時に生を求めている眼をしていた・・・・・・・・
生きていたい。
まだ生きて望みを叶えたい。
そんな気が私には感じたし、見えてしまった。
何より・・・・殺したくなかった。
私はパン屋の娘だ。
人殺しなどした事もないし、銃を撃った事さえない。
それなのに老人は私に罪の許しを乞うた。
罰を求めたんだ。
どうして私なの?
疑問に思ったが、私が戦女神と言われたマルグリット・ヴェスパの孫娘だから、と直ぐに結論は見つかった。
祖母がどんな女性で、どんな人生を歩んで来たのかは知らない。
でも、ゴダール、ウォルター、モーガンの3人に加えてハント氏も知っている。
特にハント氏は私の事まで調べていたから・・・・御婆さんの事も知っているに違いない。
自分が何者なのか?
祖母がどんな人物だったのか?
それを知りたい。
知りたいが故に・・・・殺さなかったのかもしれない。
店を壊されて、妹と弟も傷付けられた。
本当なら殺したい。
でも、それが怖かった。
相手が望んでいる事も恐怖を増幅させて、私の心体を穢し蝕む。
ベルトランさんに助けてもらいたい。
それを今、望んでいるけど・・・・こんな非常時に求める事ではない。
それなのに求めてしまう自分が居た。
だからこそ、私は一人で逃げたんだ。
「・・・・・はぁ」
私は嘆息して部屋のドアを開けようとした。
「むがっ!?」
背後から手が来て私の口を抑える。
「おっと、動くと可愛い首が胴体と泣き別れになるよ?お嬢ちゃん」
この声には聞き覚えがあった。
私の店を吹き飛ばした・・・・・・・・・・・
『IRAの狂犬』
チラリと見れば、眼鏡と髭を生やした男が見えた。
喉を見ればナイフが当たっている。
「モーゼルは何処だ?金のモーゼルだ」
『この人に渡したら・・・・駄目だわ』
渡しても殺される。
渡したら金が手に入り、テロを行う資金になってしまう。
「さぁ、何処だ?バッグの中か?」
狂犬がバッグに手を伸ばす。
その時、ナイフが僅かに喉から離れた。
渾身の力を込めて肘鉄を打ち込む。
クラリスから教えられた技で、鳩尾にでも打ち込めば最高らしいけど、怯ませるには十分とも言われた。
「ぐふっ」
狂犬が身体を仰け反らせる。
私は振り返って思い切り・・・・・蹴り上げた。
ここも弱点と言われた。
「ガハッ!!」
前のめりになる狂犬から離れて私は急いで走った。
ベルトランさん、助けて!!
走って、走って、走り続けた。
何処をどう走ったのかは分からない。
でも、一刻も早く逃げないといけない。
それだけは確かだった。
「待て!この小娘!!」
狂犬が追い掛けて来た。
必死に走るが、追い付かれてしまった。
「この女!!」
殴ろうと手が上がる。
眼を閉じた・・・・・・・
「・・・人の女に手を出すんじゃねぇよ。狂犬」
僅かに眼を開けると、ベルトランさんが狂犬を殴りつける所が見えた。
「フボッ!!」
狂犬が廊下を転がる。
「ソフィア・・・・・」
ハント氏が私を背後に庇うように立つ。
「爺、てめぇ・・・・裏切る気か!!」
狂犬は鼻と口から血を流してハント氏を睨む。
「裏切る?私と貴様の間に信頼関係でもあったか?否、無い。最初から貴様を仲間と思った事など無い。餓鬼共も一緒だ」
ハント氏は私に話し掛けた時は違う声色で言い続ける。
元軍人、だからか・・・・とても力があって聞く者を怖気づかせる声だった。
「さぁて・・・俺の女に手を上げようとしたんだ。楽に死ねると思うなよ?」
ベルトランさんもまた怖い声で・・・怖い事を口にする。
でも、私の為に怒っている。
それが判ると何処かで嬉しく思う。
「へんっ。ほざけっ。傭兵風情が」
「言ってろ。テロリスト」
ベルトランさんは懐から拳銃を取り出すのが見えた。
「ここで俺を殺すのか?」
「殺しても妻を暴行しようとした男を撃った、と切り抜けられるさ。じゃあな、狂犬。今度はマシな犬にでも生まれて来い」
そう言ってベルトランさんは引き金を引こうとした。
だけど・・・・・・・・・・
ホテルが一瞬だけど揺れた気がする。
その事で私たちは一瞬だけ・・・狂犬から眼を逸らした。
「じゃあな!!」
狂犬の姿が見えない。
ただ・・・不気味な捨て台詞だけが残された。
「・・・・・・」
ベルトランさんは拳銃を仕舞い、私を見た。
私もハント氏の背中から顔を出して見つめる。
・・・・安堵の顔をしている。
まるで大切な物が見つかった子供みたいな顔で・・・・・・実年齢より幼く見えた。
「ソフィア、怪我はないかい?」
ハント氏が私に振り返り触ろうとするが、直ぐに止めた。
「すまないね。私のせいで、また危険な眼に遭わせてしまった」
「・・・いいえ。でも、助かりました」
ありがとうございます・・・・・・・・・
「君が無事なら良いさ。では、ベルトラン。明日な」
「あぁ・・・・・・・・」
僅かにハント氏の瞼が赤い事に気付いたが、その時点で彼はドアを閉じていた。
「・・・泣いていたんですか」
「あぁ。お前の裁きに・・・感謝しつつ悲しんでいた」
「・・・・・・・・」
何と言えば良いか分からず私は無言になる。
ううん・・・・今頃になって足が震え出して、立てなくなった。
「大丈夫か?」
ベルトランさんは私の肩を掴んだ。
それによって私は力が抜けたように倒れる。
「・・・怖かったんだな」
怖かった・・・・・・・
殺されるかもしれない。
それが怖かった。
でも、今は安心している。
ベルトランさんが傍に居るから・・・・・・・・・
だから、怖くない。
しかし、足は震え続けている。
そんな私をベルトランさんは横抱きにして、部屋の鍵を開けると中に入った。
ソファーに私を下ろすと、電話を取り支配人に電話する。
「さっきの音は何だ?爆発?テロか?なるほど・・・すまないが、妻が怯えている。温かいミルクを頼む」
用件を言い終えたベルトランさんは電話を受話器に置く。
「・・・お前を護る、とか言ったが護れなかったな」
自嘲するベルトランさん。
そう・・・彼は私に誓った。
何があろうと護る。
でも、私は狂犬に襲われた。
それは誓いを守れなかった事を意味する。
「いいえっ。ベルトランさんは私を助けてくれたました!!」
あの時、ベルトランさんが居なかったら・・・・・・・・・・
「それでも怖い思いをさせただろ?俺は怖い思いもさせない積りだった」
「・・・でしたら、私を抱き締めて下さい」
それで怖くなくなる。
本当は怖くなかった。
だけど、彼に抱き締められる事を願って嘘を吐いた。
「・・・・・・・」
何も言わずベルトランさんは私を抱き締めてくれた。
大木のように太い両腕が私の背中に回される。
分厚い胸板に私は顔を埋めて、静かに息を漏らす。
温かい・・・・それでいて煙草の臭いがする。
少し煙たいけど、ベルトランさんの臭いだと思うと何でもない。
暫く私は彼の胸に甘えていた。
しかし・・・・・もっと欲した。
彼が・・・・欲しい。
私は胸から顔を離して彼を見上げる。
彼もまた私を見下す。
黒真珠のような瞳が私を射抜く。
黙って私は眼を閉じて唇を差し出す。
そして・・・・・・触れ合うだけで、短いけど心地よいキスをした。
初めてのキスは・・・煙草の臭いがした。