第5話 SS5 瀬戸際のお嬢様と、不屈の「夜学」、そして…
1
ニセコでのクラッシュから二週間。場所を再び陸別に戻しての強化合宿だが、練習走行の現場には重苦しい空気が流れていた。
陽葵の走りは、誰の目にも明らかに変質していた。
「……また、ブレーキを早く踏みすぎですわ」
インカムから流れる麗華の声に、陽葵はビクッと肩を揺らす。
かつての「パニック全開」の勢いは消え、今の彼女はコーナーの手前で執拗に減速し、恐る恐るハンドルを切る。紗季の動きをトレースした輝きは、深い森の向こうに隠れてしまった。
コースサイドで見守る紗季が、ため息をつく。
(完全にトラウマやな。あいつの目ぇには、コーナーの先に死神でも見えとるんか……)
2
その日の夜。陽葵はコテージの影で、麗華が実家と電話で話しているのを偶然耳にしてしまった。
「……ええ、分かっておりますわ。お父様。……はい、ラリー北海道の結果がすべて、ですわね。……もし入賞を逃せば、自動車部の廃部と、マシンの売却。……学園理事のお言葉、異存はありませんわ」
電話を切った麗華の、いつもの余裕を感じさせない横顔。
陽葵は衝撃に立ち尽くした。麗華がこれまで惜しみなく注いできた財力も、あのパステルピンクのヤリスも、すべては彼女が実家と取り交わした、退路のない「賭け」の上に成立していたのだ。
(麗華先輩は、自分の居場所を懸けてまで、私を信じてくれたのに……!)
情けなさと申し訳なさで、陽葵はその場に座り込んだ。
自分がブレーキを踏むたびに、麗華の野望が、自動車部の未来が削られていく。
そう思うと、余計に身体が竦んで動かなかった。
3
「……自分、何地べたに根ぇ生やしとんねん。筋トレの最中か?」
不意に背後から声をかけられた。
見上げると、月明かりを背に、紗季がいつもの不敵なニヤケ顔で立っていた。その横には、ボコボコの、しかし凶暴なまでの威圧感を放つランエボIII。
「紗季さん……私、もうダメかもしれません。麗華先輩の期待も、部の未来も、全部私のせいで……」
「アホ。麗華の家の事情なんて、麗華が自分でカタつければええことや。自分に関係あるんは、この先の道だけやろ」
紗季はエボの助手席のドアを乱暴に開けた。
「乗れ。今夜は寝かせへんで。……約束通り『横転女王』の、ホンマもんの授業を見せたるわ」
4
深夜、一般車をシャットアウトした私有地の林道。漆黒の闇の中、エボIIIの四連補助灯が鋭く夜を切り裂く。
「ええか陽葵。ラリーはな、綺麗に走る競技やない。……泥を啜ってでも、必ず最後に帰ってくる、そんな競技なんや!」
紗季が叫ぶと同時に、エボIIIは狂気のような速度でコーナーへ突っ込んだ。
次の瞬間、過重移動をわざと破綻させたかのように、車体がふわりと浮き上がる。
「あ……っ!」
陽葵の視界が、スローモーションで回転した。
ガシャ、ガシャ、ガシャァッ!
金属が地面を叩く絶望的な音。世界が3回転し、凄まじい衝撃とともに天地が逆転する。
静寂。
陽葵は恐怖で息もできない。
逆さまの視界。
フロントガラスはクモの巣状に割れ、屋根はひしゃげ、右のライトは死んでいる。 だが、紗季は真っ暗な車内で、血の混じった唾を吐き捨てると、不敵に笑ってイグニッションキーを回した。
ドォォン! 爆音とともに、4G63エンジンが再び咆哮を上げた。
「……紗季さん、車が……もうボロボロです……」
「アホ。どこがや? エンジンは回っとる。足も動く。ステアリングも生きとる!」
紗季は力強くギアを叩き込み、片目になったエボIIIを再び猛加速させた。ひしゃげたボディを振り回しながら、以前よりも激しいドリフトで闇を駆け抜ける。
「見たか陽葵! マシンが生きてる限り、ドライバーが諦める理由なんて、この世に一行も書かれてへんのや!あんたがビビってブレーキを踏むんは、道が怖いんやない。……傷つくのを恐れとるだけや!」
その横顔を見て、陽葵の目から涙が消えた。
崖から落ちたって、車がひっくり返ったって、エンジンさえ生きていれば、また前を向ける。
完璧じゃなくていい。お嬢様らしくなくていい。
泥だらけになって、格好悪く、這いつくばってでも——あのゴールまで、麗華先輩を連れて行きたい。
「……紗季さん。……もう一度、お願いします! 今度は、私にハンドルを握らせてください!」
「ははっ! ええ目になったやんけ! ほな、夜明けまで全開で行くでぇ!」
5
朝日が稜線をなぞる頃、ようやくエボⅢはコテージへと帰還した。
リアバンパーをどこかの森に置き去りにし、歪んだボディに新たな「勲章」を刻んだその姿は、夜通しの激闘を物語っていた。
「ええ面になったな、陽葵」
「すみません……なんか、やりすぎました」
陽葵は笑った。昨日までの怯えを脱ぎ捨てた、強さと脆さが同居する、ドライバーの顔だった。
エボから降りると、朝もやの中に人影があった。麗華だった。
すでにレーシングスーツを纏い、ヤリスを背に凛と立っている。
「モーニングサービス前に、もう一本いかがかしら?」
促されるまま、パステルピンクのヤリスに乗り込む。アイドリングの鼓動だけが、冷たい朝の空気を震わせていた。
沈黙を破ったのは、麗華だった。
「桜華女子大自動車部は、わたくしが入学と同時に立ち上げたサークルですわ」
フロントガラスの向こう、霧に煙る林道を見つめたまま、彼女は独白するように続けた。
「北欧でラリーに出会い、この競技にすべてを奪われました。……いえ、すべてを与えられました」
「……」
「三年間。部員は、わたくし一人でした」
淡々とした言葉。だが、陽葵にはその「三年」という歳月の重みが、心臓を直接掴まれたように響いた。
「諦めることも考えました。……ですが」
麗華が、初めて陽葵を射貫くように見る。
「あなたが現れた」
陽葵の胸が、静かに、そして激しく熱を帯びる。
「路面を恐れず、路面を愛し、走ることを心から楽しんでいるドライバー。……そんな方を、わたくしは初めて見ました」
「……先輩」
「ラリー北海道は、わたくしの賭けですわ。部の未来も、わたくしの未来も。――そして」
一瞬だけ、麗華の声が揺れた。
「あなたと走り続けられるかどうかも」
陽葵は、深く、深く息を吸い込んだ。
もう、恐怖の居場所はどこにもなかった。
崖も、クラッシュも、横転も。その痛みと、その先の光を、昨夜、紗季から教わった。
壊れても、また始めればいい。
そして、泥を啜ってでも、たどり着けばいい。
――それが、ラリーだ。
「……私、走ります」
麗華が、驚いたように目を見開く。
「綺麗じゃなくていい。格好悪くてもいい。……それでも」
陽葵は、麗華の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「麗華さんと、一緒にその先へ行きたいです」
静寂。
やがて麗華の唇が、震えながら弧を描いた。
「……ありがとうございます」
その声は、万感の想いを堪えるように潤んでいた。
「陽葵さんは――本当に素敵な淑女。……いえ」
誇らしげに、確信を込めて言い直す。
「最高の、ラリードライバーですわ」
朝日が林道を黄金色に染め上げる。
新しい一日が、そして成瀬陽葵というドライバーの、本当の物語が始まろうとしていた。
陽葵はステアリングを握りしめ、アクセルを床まで蹴り込む。
――私は、走る。
それは、パニックによる暴走ではない。
自分自身の意志で選んだ、覚醒のフラットアウトだった。
※続きが気になりましたら、ブックマークや下の「☆☆☆☆☆」から評価をいただけると、陽葵たちの挑戦を応援する大きな力になります!
桜華女子大自動車部の物語を、ぜひ最後まで見守ってください。




