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第4話 SS4 蘭越の迷宮と、砕かれた翼

1

 九月、蘭越町。

 北海道後志管内ニセコ連山も抱える蘭越町は、TGRラリーチャレンジ、全日本ラリー選手権〈ラリーカムイ〉でも使用される歴史ある林道ステージを有する。

 そして北海道地区戦ラリー選手権〈ARKスプリント300〉の舞台でもある。

 かつては総走行距離三〇〇キロを走るラリーだったが、現在は一〇〇キロを一日で走り抜けるスプリントラリーだ。

 

 本来なら残暑の名残を感じるはずの九月。

 だがこの日、季節外れの秋雨前線が蘭越・ニセコ一帯に居座り、冷たい雨を絶え間なく降らせ続けていた。

 細かな雨粒は空気そのものを重くし、山の匂いと湿った土の気配を濃密に漂わせている。

 それはつまり――コースの林道が、競技として最悪のコンディションへと変貌している、ということだった。

 

「……陽葵さん、聞こえて? ここは陸別ほど速度は出ませんが、非常にタイトで滑りやすいわ。路面の『読み』を過信してはいけません。わたくしのペースノートを一言一句、漏らさずなぞってくださいませ」


 インカム越しに響く麗華の声は、いつも通り凛として、正確な「道」を示そうとしていた。だが、今の陽葵にとって、その声はどこか遠く、不要なノイズのようにさえ感じられていた。

 夏の合宿を経て、陽葵は変わっていた。砂川での快挙、陸別での猛特訓。自分の中に眠る「パニック即加速」の狂気が、成功体験という毒と混ざり合い、彼女の心に致命的な『驕り』を植え付けていた。


「大丈夫です、先輩。滑る感覚は、もう身体が覚えてますから!」

 陽葵はアクセルを蹴り込んだ。泥を激しく跳ね上げ、パステルピンクのヤリスが蘭越の狭い林道へと吸い込まれていく。


2

 SS4。高低差の激しいテクニカルセクション。

 泥濘がタイヤのグリップを奪い、ワイパーが視界を必死に拭う中、陽葵はスピードを緩めない。


「L6 into R5 long, 50. Caution mud!」(左6から右5ロング、直線50m。泥に注意!)

 麗華の指先がノートをなぞる。一音一音が、コンマ数秒先の未来を確定させていく。

 ペースノートはクルーの生命線。

 右左の語句と読まれる数字はコーナーのキツさだ。二人で作り上げたノートは、数字が小さいほどコーナー曲率がキツくなる。


 本来なら、この声こそが陽葵の「目」になるはずだった。

 しかし、陽葵の脳裏に焼き付いていたのは、紗季の野性味あふれる走りの残像だった。

(――いける。もっと早く、もっと鋭く。紗季さんなら、ここでブレーキは踏まない……!)


 麗華が提示する「正確な地図」を、自分の中の「根拠のない全開」で上書きする。陽葵の右足が、さらに深く床を叩いた。


「R4 tighten &2, Caution! SLOW, 陽葵さん! 抑えて!」

 麗華の声に、鋭い焦燥が混じる。ノートが示すのは、急激に回り込む「2」のヘアピン。それも路面が深くえぐれ、グリップが完全に消失した死の泥濘だ。


「……行けますっ!」

 陽葵は麗華の制止を力ずくで振り切った。ヤリスをコーナーへ放り込む。だが、その瞬間の「リズム」は、陸別の乾いた土の上のものではなかった。


 ズルッ、と四輪が同時に接地感を失う。世界から「摩擦」という概念が消えた。

「え……?」

 ステアリングが羽のように軽くなる。陽葵の目に映ったのは、麗華のノートが警告していた道ではなく、ガードレールのない、深い緑に覆われた谷底だった。


「いやあああああああ!」


 ドンッ! という、脳を直接揺さぶるような衝撃。

 ピンクのヤリスは、道を外れて立ち木をなぎ倒し、泥の中にその鼻先を深く突っ込んだ。

 立ち込める白い蒸気。ひしゃげたボンネット。そして、訪れる耳を打つような静寂。


3

「……陽葵さん。……陽葵さん!」

 麗華の声で、陽葵は意識を引き戻した。幸い、ロールケージが守ってくれたおかげで二人に大きな怪我はない。だが、ヤリスのフロントは無残に潰れ、もはや自走は不可能だった。


「私……私、何てことを……」

 震える手でステアリングを離す。泥だらけのフロントガラスの向こうに、自分の甘さが生んだ『結果』が横たわっていた。


 レッカー車に引かれてサービスパークに戻ってきたヤリスは、もはや「可愛い車」ではなかった。駆けつけた北旺大自動車部の面々は絶句し、紗季は腕を組んだまま、沈痛な面持ちでマシンの損傷をチェックしている。


「……ごめんなさい。麗華先輩、紗季さん……私、調子に乗って……」

 陽葵は地面に膝をつき、泣き崩れた。才能だと思っていたものは、ただの暴走だったのではないか。

 自分にラリーをする資格なんてない。恐怖が、冷たい雨とともに心に染み込んでいった。


4

「……甘いですわね」

 麗華が、泥で汚れたレーシングスーツのまま陽葵の前に立った。

「え……?」

「陽葵さん。貴女が泣くのは勝手ですが、時間は止まってくれません。……この車を直すために、北旺大自動車部の方々がどれほどの心血を注ぐと思っていまして?」


 麗華の目は、これまでになく冷徹だった。

「恐怖を知らないドライバーは、ただの凶器ですわ。……貴女が本当にラリーを続けたいなら、その恐怖を抱えたまま、もう一度ハンドルを握りなさい。……できなければ、桜華女子大自動車部は――終わりですわよ」


 麗華はそう言い残すと、背を向けてテントを出て行った。残された陽葵の隣に、紗季がドカッと座り込む。


「……陽葵。麗華もあんなん言うとるけどな――インカー動画見たら、あいつ、車が落ちる瞬間自分の腕で、あんたの方を庇おうとしとったんやで」

「先輩……」

「ラリー北海道まで、あと一ヶ月もない。……立ち直るか、辞めるかは自分の自由や。――それでも走る言うんなら、次の陸別合宿、横転女王の『補習』、受けさせてやるわ」


 雨足はさらに強まり、蘭越の夜を暗く塗り潰していった。

 陽葵の、本当の意味での「戦い」が――ここから始まろうとしていた。


※続きが気になりましたら、ブックマークや下の「☆☆☆☆☆」から評価をいただけると、陽葵ひまりたちの挑戦を応援する大きな力になります!

桜華女子大自動車部の物語を、ぜひ最後まで見守ってください。

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