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手のひらの21グラム

作者: 源泉
掲載日:2025/12/31

病院の廊下には、時間がなかった。

朝でも夜でもない、白い光に均された空間。


消毒液の匂いと、わずかに金属を含んだ空気が、同じ濃さで肺に入ってくる。

何度歩いても、前に進んでいる実感だけが希薄になる。


僕は毎日、同じ時間に彼女の病室を訪ねた。

仕事を終え、駅から歩き、途中のコンビニで紙コップのコーヒーを買う。

少し苦すぎるその味が、現実から病室へ切り替わる合図だった。


ドアを開けると、彼女はいつもベッドに横になっていた。

白いシーツの下で、身体の輪郭が前よりもはっきりしている。頬は削げ、首筋は細くなった。

それでも、目だけは穏やかだった。



「今日は寒いね」



そう言って、彼女は窓の外を見る。

病院の中庭には、葉を落としかけた木が一本立っているだけだった。

景色と呼ぶには、あまりにも情報が少ない。



「病院食、また魚だったよ」


「嫌いじゃなかっただろ」


「嫌いじゃなかった、ね」



会話はいつも、そんなものだった。


天気の話。

食事の話。

窓の外の話。

昔のデートの話。

迷って入れなかった店の話。

行けなかった海の話。

行ってみたかった街の名前。



未来の話は、どれも具体的だった。

日付も、季節も、曖昧なままなのに。



「私が私だ、って」


彼女はふと、窓の外を見たまま言った。


「何が決めているんだろうね」



返事を探しているあいだに、彼女は話題を変えた。

まるで、答えを必要としていないようだった。



僕は、治療法の論文や研究の噂を、夜のあいだにいくつも読んでいた。

中には、未来に希望を先送りするような研究もあった。

だが、それを彼女に話すことはなかった。


希望を口に出した瞬間、それが現実の重さに耐えきれず、崩れてしまう気がした。



ある時から、彼女はよく笑うようになった。

声を立てて笑うことはない。


会話の途中で、ふっと息を漏らすように表情が緩む。

何かを終えた人の顔だった。


同じ頃、点滴の数は増えた。

彼女は言葉の途中で一度呼吸を挟み、少し間を置いてから続きを話すようになった。



「今日は、いい日だった」



帰り際、彼女は必ずそう言った。

理由を聞くことはできなかった。

聞いてしまえば、その言葉が壊れる気がした。



ある日、いつもの時間に病室を訪れると、ドアは静かに閉じられていた。

ベッドは整えられ、シーツに人の形はない。医療機器は外され、点滴台も片付けられている。


彼女の私物は、きれいに消えていた。

枕元に、小さな封筒が一通だけ置かれていた。

その下に、何度か彼女の部屋で目にしたことのある透明なケースがあった。

いつから置かれていたのかは、思い出せなかった。


僕は、まず手紙を手に取った。

手紙には、短い言葉が並んでいた。

毎日来てくれたことへの感謝。

何気ない話をしてくれた時間のこと。

窓の外を一緒に見た記憶。

先にいなくなることへの後悔。


説明はなかった。

未来の話もない。

最後に、一度だけ。


「ごめんね」



封筒の下のケースを、そっと開けた。

中に入っていたのは、メモリーカードだった。


そして、無機質な説明書。

読まずとも、その内容は知っていた。

彼女をこの世に繋ぎ止めるための方法を探していた中で、

一度、目にしたことのあるものだった。


それは、彼女の脳に記録されていたすべての情報を、不可逆な形で固定したものだった。

記憶も、思考も、感情も、反応の癖も。彼女を構成していた要素のすべて。

だが、それを再現する方法は存在しない。

 

データは読み出せる。

数値として、0と1の並びとしては確認できる。


しかし、それを脳のように受け入れ、意識や人格として立ち上げる術がない。

像は浮かばない。声も聞こえない。断片すら、意味を持たない。


そこにあるのは、完全な情報と、完全な沈黙だった。

それでも彼女は、消えない方を選んだのだと、僕は思った。



後日、彼女の家族と会った。

形式的な言葉を交わし、形だけの時間が過ぎたあとで、ぽつりと聞かされた。

最期に連絡がなかったのは、彼女自身の希望だったらしい。

死ぬところを、見せたくなかったのだと。



僕は机に向かい、ケースを開けた。

掌に載せる。

軽いとも、重いとも言えなかった。


秤にかければ、正確に21グラム。

人一人分としては、あまりにも少ない。

写真のネガのように光に透かしても、そこには何も浮かばない

 

だけど、それは確かに彼女だった。

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― 新着の感想 ―
完全な情報が入ったメモリーカードの重さ=魂の重さ=21gですかね…… 色々と考えさせられます
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