手のひらの21グラム
病院の廊下には、時間がなかった。
朝でも夜でもない、白い光に均された空間。
消毒液の匂いと、わずかに金属を含んだ空気が、同じ濃さで肺に入ってくる。
何度歩いても、前に進んでいる実感だけが希薄になる。
僕は毎日、同じ時間に彼女の病室を訪ねた。
仕事を終え、駅から歩き、途中のコンビニで紙コップのコーヒーを買う。
少し苦すぎるその味が、現実から病室へ切り替わる合図だった。
ドアを開けると、彼女はいつもベッドに横になっていた。
白いシーツの下で、身体の輪郭が前よりもはっきりしている。頬は削げ、首筋は細くなった。
それでも、目だけは穏やかだった。
「今日は寒いね」
そう言って、彼女は窓の外を見る。
病院の中庭には、葉を落としかけた木が一本立っているだけだった。
景色と呼ぶには、あまりにも情報が少ない。
「病院食、また魚だったよ」
「嫌いじゃなかっただろ」
「嫌いじゃなかった、ね」
会話はいつも、そんなものだった。
天気の話。
食事の話。
窓の外の話。
昔のデートの話。
迷って入れなかった店の話。
行けなかった海の話。
行ってみたかった街の名前。
未来の話は、どれも具体的だった。
日付も、季節も、曖昧なままなのに。
「私が私だ、って」
彼女はふと、窓の外を見たまま言った。
「何が決めているんだろうね」
返事を探しているあいだに、彼女は話題を変えた。
まるで、答えを必要としていないようだった。
僕は、治療法の論文や研究の噂を、夜のあいだにいくつも読んでいた。
中には、未来に希望を先送りするような研究もあった。
だが、それを彼女に話すことはなかった。
希望を口に出した瞬間、それが現実の重さに耐えきれず、崩れてしまう気がした。
ある時から、彼女はよく笑うようになった。
声を立てて笑うことはない。
会話の途中で、ふっと息を漏らすように表情が緩む。
何かを終えた人の顔だった。
同じ頃、点滴の数は増えた。
彼女は言葉の途中で一度呼吸を挟み、少し間を置いてから続きを話すようになった。
「今日は、いい日だった」
帰り際、彼女は必ずそう言った。
理由を聞くことはできなかった。
聞いてしまえば、その言葉が壊れる気がした。
ある日、いつもの時間に病室を訪れると、ドアは静かに閉じられていた。
ベッドは整えられ、シーツに人の形はない。医療機器は外され、点滴台も片付けられている。
彼女の私物は、きれいに消えていた。
枕元に、小さな封筒が一通だけ置かれていた。
その下に、何度か彼女の部屋で目にしたことのある透明なケースがあった。
いつから置かれていたのかは、思い出せなかった。
僕は、まず手紙を手に取った。
手紙には、短い言葉が並んでいた。
毎日来てくれたことへの感謝。
何気ない話をしてくれた時間のこと。
窓の外を一緒に見た記憶。
先にいなくなることへの後悔。
説明はなかった。
未来の話もない。
最後に、一度だけ。
「ごめんね」
封筒の下のケースを、そっと開けた。
中に入っていたのは、メモリーカードだった。
そして、無機質な説明書。
読まずとも、その内容は知っていた。
彼女をこの世に繋ぎ止めるための方法を探していた中で、
一度、目にしたことのあるものだった。
それは、彼女の脳に記録されていたすべての情報を、不可逆な形で固定したものだった。
記憶も、思考も、感情も、反応の癖も。彼女を構成していた要素のすべて。
だが、それを再現する方法は存在しない。
データは読み出せる。
数値として、0と1の並びとしては確認できる。
しかし、それを脳のように受け入れ、意識や人格として立ち上げる術がない。
像は浮かばない。声も聞こえない。断片すら、意味を持たない。
そこにあるのは、完全な情報と、完全な沈黙だった。
それでも彼女は、消えない方を選んだのだと、僕は思った。
後日、彼女の家族と会った。
形式的な言葉を交わし、形だけの時間が過ぎたあとで、ぽつりと聞かされた。
最期に連絡がなかったのは、彼女自身の希望だったらしい。
死ぬところを、見せたくなかったのだと。
僕は机に向かい、ケースを開けた。
掌に載せる。
軽いとも、重いとも言えなかった。
秤にかければ、正確に21グラム。
人一人分としては、あまりにも少ない。
写真のネガのように光に透かしても、そこには何も浮かばない
だけど、それは確かに彼女だった。




