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XNUMX  作者: 上兼一太
7/12

XNUMX(10)テレクラ ~(11)ヨゴレ

しばらくは二話ずつ、毎週水曜日に更新します。

(10)テレクラ


 薄暗く、妙に酸っぱい香りのする一畳程度の狭い部屋。俺は座り心地の悪い椅子に腰かけ、目の前の机には ―最後に見たのは随分子供の頃、祖父の家だ― と、記憶している黒電話が一機置かれている。その横には小さなデジタル式のタイマーとティッシュ箱が一つ。一体、どうしてこんな事になってしまったのだろう?・・・今俺は、川崎のテレクラにいる。

 

 どうやってここへ来たのかほとんど覚えていないが、その流れを何とか辿ってみると、まずモウリに二つ目の案件〈人気漫画家の死の真相にあのアイドルが関与?〉について、自分がやるとしつこく訴えたところ(わかりましたよ、じゃあワタシの持っている情報をとりあえず全部渡しますから、そこから何とかまとめて記事にしてください。追加取材をしたければして貰って構いません。経費は出ませんがね。でも、ちょっと古いネタだから当時の事を知ってる人も少ないし、難しいと思いますよ。読者も食いつかないかも知れないし、というか、そもそも今回はボツにするつもりだったんですよ)そう言うとモウリは、ドサッと何冊かの汚いノートを机の前に広げた。モウリが(古い)と言った時に気付けばよかったのだが、いかんせん俺は、自分が追い求めていたマツシタの情報だと思い込んでバイアスがかかってしまっていた。そのせいで重要な点を聞き逃し、目の前のボロボロのノートを、あたかもダヴィンチの未発表スケッチ集を見せて貰える選ばれた人間かのように、信仰にも似た思いでありがたく頂戴してしまった。興奮を抑えきれず、その場ですぐノートを開くと、1ページ目に貼られていた古い新聞の切り抜きの見出しを見た途端、俺は文字通り、口がポカンと開いてしまった。

〈マンガ家、加茂村T先生、急死!愛人だったアイドル女優、藤田ジュンに刺される!!〉

 俺の頭の上に大きなクエッションマークが浮かんだ。それこそ漫画のように。

 日付を見ると昭和41年と書いてある。1966年の出来事だ。加茂村T、言わずもがな戦後、代表作ワットムや虎ェもんで日本中の子供に娯楽マンガを広めた男。藤田ジュン、60年代の日本映画界に彗星のごとく現れた、この事件がなければ昭和を代表する大女優になれた女。このニュースは、俺にはさほど印象深いものではないが、俺の親世代なら誰でも知っている、そういう事件だ。

「に、人気漫画家の死の真相って、マツシタの件じゃないんですか?」と、俺はようやく声を絞り出した。モウリが暢気な調子で答える。

「えっ、マツシタって誰です?」

「ほら、最近死んだ売れっ子漫画家の・・あの、実写映画にもなる〈グレープフルーツ・マン〉の作者で・・」

「うーん・・あっ!ああ、最近亡くなった漫画家さんね、いや、違いますよ、ワタシはあんまり新しい漫画とかには詳しくないんで。それに、そのマツシタさん?チラっとニュースで見ましたけど、あの人は確か病死でしょう?ワタシはね、昔からこの賀茂村T先生の大ファンで、長い時間をかけてこの殺人事件の記事を大量にスクラップしていたから、そろそろ自分の雑誌で書こうかな、なんて思ってたんですよ」

 世代のギャップか、まぎらわしい・・。

「はい?何か問題でも?まぁ正直、ああいうタイトルを表紙にズバっと出して雑誌を発売すれば、何らかの勘違いをして買ってくれる人がいるわけですけどね。例えば適当にイニシャルを上げて〈大人気俳優Nと女優Sが不倫!〉とかね。見かけた人は、それを勝手に自分の好きな芸能人だと思い込んで買うんです。読んだ時に読者の思っている人じゃなくても、それはワタシの知った事じゃない。うちの本は想像力で買わせる雑誌なんです。」

 そう言ってモウリはいつもの、空気が漏れたような笑い方をした。 

 もちろん勘違いした俺が馬鹿だったわけだが、急逝した人気漫画家と言ったら今はマツシタしかいないだろう!全く、不愉快な男の作る不愉快な雑誌だ!

「そんなわけですけど、二番目の案件、やります?」

 俺はノートを閉じて首を振った。

「じゃあこの件は、やっぱりいつかワタシが書く事にしましょうかね。あ、でも三番目の、テレクラの件はやってもらいますよ、一応三つ全部やっていただく約束でしたからね。ザックリ説明すると、都内ではもう全くと言っていいほど見かけなくなったテレフォン・クラブなんですけど、まだ地方では細々とやってる所があるらしいんですよ。携帯電話が普及して出会い系サイトやアプリが充実してるのに、今時テレクラを使う人っていうのはどんな人種なのか?それを調べてきて欲しいんです。もちろん相手に会って写真を撮るのがマストですよ、体験ルポですから。どこまで(体験)するかは、あなた次第です、フェフェフェッ。それでワタシも色々調べたんですけど、わざわざ地方まで行かなくても川崎の工業地帯の方に、一軒だけ老舗のテレクラが残ってる事がわかったんです。その詳しい場所はですね・・・」


 ・・そうだった。俺は自分の勘違いの贖罪の為に、この暗く狭苦しい空間に閉じ込められているのだった。上野から自宅に戻る前に、川崎に寄るのは簡単だし、さっさとくだらない仕事を済ませて、あのモウリという男と縁を切ろう、そう諦めたのだった。しかしこの部屋に入ってもう彼是40分近く経過しているが、一向に電話が鳴る気配はない。時刻は夕方五時半を過ぎている。暇な主婦がかけてきてもいいような気もするが・・まぁそれはテレクラが隆盛していた20年以上前の話か。今は中学生から還暦過ぎまで出会いを求めてスマホのアプリを使う時代だ、誰がこんな面倒なアナログ手法で相手を探そうと思う?顔がわからないリスクもあれば、一日中ここにいたって(坊主)の可能性もあるのだ。しかもモウリの依頼は、取材とはわからないようにその相手と会って、なるべく深い関係を持って、様々な角度から現代にテレクラを利用する人間がどういう人達なのかを調べろというものだ。記事は相手の写真必須(隠し撮り可、動画は尚よし)で、最低でもお茶やご飯を共にし、もし行為があった場合はなるべく描写を細かく書くようにという事だった。・・全く、誰がこんな場所で会った人間とセックスなんてするか!メシだって勘弁だ、相手がプロならまだマシだが、ヤク中や病気持ちの可能性だって大いにある、俺は普段、女優池上セーラと寝てる男だぞ!と、変なプライドを持ちだして力いっぱい壁を叩きたくなった。・・・ん?そうか、何も馬鹿正直にやる必要はない。GSW出版のルールに従って、(あった体裁)で記事を書けばいいのだ。ご丁寧な手順を踏むなんて馬鹿馬鹿しい・・適当にでっちあげてしまえば・・・いやしかし、最低限写真を撮るところまで漕ぎつけないと、完全な創作になってしまう・・俺は小説家じゃない、電話の相手に会わなければ、誇張記事すら書けないか・・くそう。

 と、その瞬間、目の前の黒電話がとても小さくチンと鳴った・・・気がした?・・いや・・鳴ったのだ!多分、他の部屋にいる利用者が、この施設にある電話機に電波が通った刹那、それこそ居合い切りのような素早さで受話器を取ったのだ。ほんの一瞬、微かな音色だったが耳の中に残響音がある。くそう!そういう事か!受付で訊いておいて良かった。(ここは最大何人利用できるんですか?)(4部屋あります。)(今使用されているのは?)(一部屋ですので、すぐにご案内できます。)そう、俺の他にもう一人いるのだ!

 なるほど、相手はテレクラの手練れというわけか・・負けてはいられない。いや、しかしその人間が話している間に俺の電話が鳴れば、何の苦も無く取れるのではないか?だが、そんな考えはすぐに甘いものだとわかった。そこから待つ事数十分、そもそも電話が全く鳴らないのだ。壁にかけられた、まるで職員室にあるようなでかく丸い時計の針はもう六時を過ぎていた。まずい、こんな事では3時間三千円コースなんて何もせず、あっという間に終わってしまう。俺はスマホでテレクラのやり方について調べる事にした。

 

 受話器を素早く取るコツは・・と、なになに、まず受話器を耳に当て肩などで挟み、置かれていた所のスイッチを押しておいて、鳴った瞬間にその指を離す、と。さらに完全に押し込んだ状態よりも、少し指を上げておくのがコツ。・・なるほど、これなら確かに反応が早い。やる気になって体勢を整えた刹那、突然電話が鳴った。チン・・が、またしても他の利用者に取られた。くそ、なんて反応だ。・・・というか、ソイツはさっきの話し相手とアポは取らなかったのか?さっさと会う約束をしてここから出て行ってくれればいいのに。・・しかし、ヤバイ女がかけてくるという話もよく聞くし、その利用者も品定めをしてるのかも知れない。ジャンキーや美人局のリスクを回避するゲーム。テレクラとはそういう楽しみ方もあると、今さっき調べてわかった。俺はその域には達せそうもないが・・・。

 チン!また負け。

 チン!負け。

 チン!負け。

 7時を回ると少し電話が増えてきた。しかしさらに一時間近く経っても、やはり俺が電話に出る事は出来ない。

 チン!負け。

 チン!負け。

 チン。「・・・もしもし?」

「あ!」と俺は、初めての話し相手に、思わず驚きの声をあげてしまった。落ち着け。

「も、もしもし?」

「エク持ってる?」

 チン。ヤク中だったので、反射的にこちらから切ってしまった。MDMAなんて誰でも持ってるわけないだろう!・・しかし、せっかく初めて出れた話し相手・・勿体なかったか?・・いや、売人の方かも知れないし、どちらにせよ、俺は海外の取材でよく知っている、この手の奴らに構ったところで良い事はない。ここは多分ヤクの売買にも使われているんだろう。俺は今、純粋なテレクラ利用者の取材をしているのだ、ジャンキーに構っている暇はない・・・と、それでも、もう少し話を聞いてみるべきだっただろうか?うーん・・そう少し反省していると、またすぐに電話が鳴った。

 チン。「もしもーし?」

 指をかけたままにしていたのが幸いして、すぐに取る事が出来た。女の声だ。

「もしもし、こんばんは」

「お兄さん、いくつー?」

 1ターンで分かる、どう考えても賢いとは思えないしゃべり方。

「三十代半ばです。そちらは?」

「ちょっと年上かなー」

 かなり声がしゃがれている。酒焼け等ではなく、年齢からくるものだろう。ちょっと上どころではないガサガサの荒れた声帯だ。一応職業を確認してみた。

「失礼ですが、水商売か何かをやられてるんですか?」

「は?違うけど?何でそんな事訊くのよ」

「特に理由はないですが、この時間に融通が利くのならそうかなと。」

「プライベートの事なんて訊くんじゃねーよ、クソが!」

 ガシャン。

 二つの意味で切れられた。所謂、地雷女だった。一言でもミスをすれば即爆発。これもスマホ調べでわかった、テレクラではよくある事らしい。・・しかし、なんとも・・まともな会話をするだけでも難しいのか・・・そう頭を抱えていると、かき入れ時なのかまたすぐに電話が鳴った。しかし俺は一息つきたくて、あえて受話器を取らなかった。

 プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・

 おかしい。なぜ誰も取らないんだ?

 プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・

 他の利用者は誰もいなくなったのだろうか?

 プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・

 仕方ない、これも仕事だ。そう思って受話器を取った。

 ガチャ「もしもし?」

「もしもし」男の声だ。ゲイも利用するのだろうか。

「もしもし?」

「もしもし、失礼ですが貴方、ワタクシの邪魔をしないでもらえますか?」

「えっ?」

「邪魔をしないでほしいのです。ここはワタクシの憩いの場なのです。」

「はぁ・・・」

「では失礼いたします。」

「ちょ、ちょっと待って!」

 俺は特大サイズの違和感を感じて相手を引き留めた。

「はい?」

「・・あ、あんた、もしかして店内の客か?・・内線で電話をかけてきてるのか?」

「そうですが?何か?」

「いや、おかしいだろ、店員ならまだしも、客が内線で他の客と話すって。一体どうやって?」

「そうですか?でもここはワタクシにとっては自宅のようなものなのです。これぐらいは朝飯前なのです。それでは・・」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ!」

 俺はほとんど怒鳴っていた。その男の異常な状況を当たり前のように話す声のトーンが何とも癇に障った。

「なんなのですか?ワタクシは忙しいのです。こうしてる間にも迷える子羊たちがワタクシと話したがっているのです。」

「なぜわかる?」

「キャッチが入っています。」

「どうしてキャッチが入るんだよ!そんなのルール違反だろう?内線も使えたり・・あっ、あんたやっぱり店の人間だな」

「違います。ただの客なのです。」

「じゃあなんで、あんたの電話にだけキャッチが入ったり、内線が繋がるんだよ!そういうオプションでもあるのか?」

「そんなものはありません。先ほども申し上げましたが、ここはワタクシにとって生まれ育った家のようなもの、自宅の電話を好きに使えるのは当然ではありませんか。」

「だったら俺がお宅の電話を少し借りるぐらい、大した事ではないだろう?」

「いいえ、非常に邪魔です。残念ながら電波は誰にでも平等なのです。ワタクシはフィジカルに恵まれていません、ですから反応が早い方がいると応答そのものができなくなってしまうのです。」

 ・・・なんなんだ?こいつは。論理が破綻している。

「先ほど貴方が対応した方はどんな人でしたか?」

「あ?最初は覚せい剤をねだってきたヤツだったからすぐ電話を切ったけど?」

「ツチヤさんですね」

「ん?」

「ツチヤさんは38歳、子持ちのパチンコ、薬物依存症です。離婚歴があり、覚せい剤での逮捕歴もあります。セックスは二の次でとりあえずクスリを欲しがります。なければお金です。それでクスリを買うかパチンコをするかしか、考える事はないようです。こちらが何か薬物を持っている事を匂わせれば何でもします。ほとんど、どんな事でもです。しかしツチヤさんはクスリに手を出す前は保母さんだったので、子供好きで根はとても優しい人です。こちらが甘えると驚くほど素敵な笑顔を見せてくれる時があります。」

 はぁ。としか、答える事が出来なかった。

「次に出た方は?」

「あー、何かばばあで、しゃがれ声の・・」

「それはジエンさんですね」

 男の声が少しだけ笑っているように聞こえた。

「ジエンさんは66歳でプサン出身の元風俗嬢です。風俗嬢の地位が低かった時代の人なので、職業を訊かれる事に神経質になっています。また、旦那さんを早くに亡くしているので結婚の話もタブーです。旦那さんはU組系の暴力団員でした。ジエンさんは16歳の時からずっと風俗業界を歩んできました。ですのでテクニックは確かなものです。この辺りの夜の街で自分を知らない人はいないと言っていますが、ワタクシとしては、まだその事の確証は取れておりません」

 俺はあっけに取られていた。人生でこんなにどうでもいい話を一方的にされたのは、校長先生の朝礼での挨拶以来だ。しかし、こいつの話術が独特の雰囲気を持っていて聴いてしまう事は確かだ。なぜか興味のない内容なのにしっかりと聞いてしまう。その会話術でテレクラの話し相手を楽しませているのかも知れない。もしかしたら電話をかけてくる女より、こいつを取材した方が面白いのでは?そんな俺のジャーナリスト精神が湧き上がってきた。

「もう少し話を聞かせてくれないか?」

「いえ、ワタクシは女性と話したいので。」

 チン、といって電話は切れた。

 俺は腹が立って受話器をブン投げそうになったが、丁度3時間コースの終わりを告げるタイマーが鳴ったので、さっさと店を出た。全くバカバカしい。



(11)ヨゴレ


 家に帰ると、ドアを開けた途端いい匂いがした。

「おかえりー」

 キッチンの前ではセーラが、俺が高校生の時から着ているザ・クラッシュのバンドTシャツを無造作に着て、夕食を作ってくれていた。さっきまでヤニ臭く薄暗いテレクラの部屋で、代わる代わる頭のネジが外れた連中と話していただけに、天国に辿り着いたのかと思った。

「ワタシもさっき出先から来たから、シャワーとTシャツ借りたよ。もうすぐご飯出来るから、手を洗って着替でもして待ってて」

 セーラの手料理はいつも美味くない。だが、そんな事は関係ない。後ろから抱きしめて押し倒したい衝動を抑えながら、俺はカッコをつけて「分かった」とだけ簡潔に答えた。

 このボロボロの築30年のマンションの一室でセーラ見ると、その美貌はより際立って見えた。額縁の割れた名画、紙皿に乗ったアワビステーキのように。

 飛び切り美人の元芸能人が、携帯のメール一通で夕食を作りに来てくれる。その上、食後は自分の欲望どおりにさせてくれる。先の見えかけた人生の中で、こんな状況が自分に訪れるなんて。いや、良い面でも悪い面でもマツシタの死から始まって、その後に起きていること全てが夢の中の出来事のように感じる。不安定な心地よさと居心地の悪さが混在した浮遊感。現実という実感が希薄になる瞬間の連続。人がもし雲の上を歩けるとしたら、まさにこんな感じなのだろう。


「ワタシAVに出た事があるの」と、いつものように二人の時間が済んだ甘い香りのするベッドの中で、唐突にセーラが呟いた。

 俺はその時、なんとなくテレクラの内線で話した奇妙な男の事を考えていた。―電話ジャック男、アイツは一体何者だったのだろう?声の感じから察するに40代後半で神経質な性格、痩せていて眼鏡をかけているはずだ、なぜかアイツとはもう一度話す必要がある気がする― ・・・。

 だからセーラの告白にも、最初は軽い返事しか出来なかった。

「へえ」

「2本だけなんだけど・・・事務所に所属する前に・・」

「そうなんだ」

 俺は肌寒さを感じて、さっきまでセーラが着ていた、元々俺の物だったTシャツを着た。

「・・どうして何も言わないの?」

「え?・・えーと・・それは公になっている事なの?知り合いとか、家族も知ってる?」

「そういう事じゃなくて」

 頭が上手く回らなかった。セーラはしぶしぶ的外れの俺の質問に答えた。

「・・・誰も知らないと思う。家族はもちろん知らないし、素人の頃の太っていた時に適当な名前で出たやつだから、見た人もワタシだとは気づいてないと思う。ネットでエゴサーチしても出てこなし、元々ワタシのコアなファンでもあったマツシタくんにも気づかれてなかった」

「・・・そうか。」

「・・嫌になった?」

「何が?」

「ワタシの事、嫌いになったでしょ?」

「どうして?誰にも知られてないなら、別にいいんじゃないか?」

 セーラは布団を被り、背中を向けた。どうやら泣いているようだった。

 

 女が泣くのは悲しいからではなくて、悔しいからだと誰かが言ってた。しかしこの場面では、一体何が悔しいのだろう?自分の過去の選択間違いからくる後悔だろうか?それとも俺の返事が思った物と違ったからだろうか?とにかく俺は、女に泣かれる事が何よりも苦手なので(世の中には、驚くべき事にこの対処が得意な男もいる)素直に自分の気持ちを話す事にした。

「わかった、そのままでいいから聞いてくれ。」

 ああ、こんな時、どこからかパーシー・スレッジが流れてきたらいいのに。

「自慢じゃないが、俺は生まれてから一度も女性を上手く慰められた事がない。だからキミに対しても気の利いた事は言えないだろう。かと言って安易に、気にするなとか、大丈夫だとか言う気もない。結局本人がそう思えないから泣いているんだろうし、開き直れるまでには何事もそれなりの時間を要するという事も、我々はもうわかる年齢だ。大前提として先に言っておくけど、俺はキミをそんな事では嫌いにならないし、俺自身は、本当にどうでもいい事だと思っている。」

 セーラが背を向けたまま小さく頷いた。

「その上であえて続けさせて貰うと、俺にはそれが本当に仕方のない事のように思える」

 続きを待つ沈黙。

「キミはキミが思うよりもはるかに、いや、ほとんど殺人的と言っていいほどの、恐ろしいぐらいの性的な魅力がある。それは多分、世界中の男どもがひれ伏してしまうほどだ。冷戦中の首脳会談の最中にもしキミが裸で現れたら、おそらく戦争は止まるだろう。そうでなくてもその辺を歩いているだけで、キミを見た健康な男子はまず胸をむちゃくちゃに触りたいと思うはずだ。全員、一人残らず。多分それはキミも気付いているだろう?」

 頷き。

「そしてそれは、残念ながらキミが望んだものじゃない。望んでいないどころか、その力を煩わしく思って生きてきたのかも知れない。」

 頷き。

「だけど、きっとその恐ろしいまでの性的な魅力があったから、自分のやりたかった女優という仕事に就けたのだという事も、キミはわかっているはずだ。そしてここからは俺の憶測で、もしかしたらとても失礼な事を言うかも知れないから、まず先に謝っておく、すまない。あとで四の字固めをかけてもいいから聞いてくれ」

 少しの間の後の頷き。四の字固めが伝わらなかったのかも知れない。

「もしかしたら、キミは自分の女優としての実力が、自分の持って生まれた性的な魅力をはるかに下回っている事に嫌気が刺して女優業を引退したんじゃないか?」

 沈黙。

「実を言うと俺は、子供の頃からずっと思っていたんだ。他でもなく(自分が望んでいる才能が手に入ったヤツの事を天才)と言うんじゃないかって。要するに、需要と供給が一致していて、しかも他者にも伝わる力の事を、一般的には(才能)と呼ぶんだろうってね。だけど本当は、人はみんな一人一人特別な力を持っていて、でも自分が欲しがったものじゃない場合は、それに気付かない事も多いんじゃないかな。」

 沈黙。

「例えばこういう事なんだ。料理の才能があるヤツがいたとして、それはある意味では分かりやすいから、自分でもその事に早々に気付いて料理人の道に進むかも知れない。そして、そのまま成功すれば世間の方も評価しやすい。天才シェフ、とか言われてね。だけど、もしそれが配膳の方の才能だったら?天才的な配膳の能力があったとしても、接客業のバイトでもしなければ、それには永遠に気付かないだろう。そして、もしそれがあったとしても世間からは評価されにくいはずだ。お店の内では有名かも知れないけど、外を歩いていて、よっ、天才配膳士!とは中々呼ばれないし、その才能だけで超高給取りになる事はあまりないだろう。そこの店の運営会社で表彰されたりはするかも知れないけれど・・。残念ながら、この世界は分かりやすい才能の方が、評価され易いという傾向があるんだ。平たく言えば、お金に直接繋がるものを、社会は評価する。それとは別に、本当は野球の才能が自分にあると知っていても、サッカーをやりたいという人間もいる。要するに分かりやすい才能も持っているが、違う事がしたいという例だ。これはキミに近いかもしれないけど、野球をやればメジャー・リーグでシーズン本塁打50本、50盗塁のとんでもないバッターになる可能性があって、その事に本人も周りも気付いている。でも、どうしてもサッカーをやりたい。周りの人間達は野球をやれ、野球をやれとしつこく言うが、そいつはサッカーを始める、そして案の定、大して上手くいかない。他の競技でトップを取れるほどの身体能力と、血の滲むような努力を重ねてもJ3の補欠選手ぐらいでサッカー人生を終える。けれど当の本人は大満足だ。だって極論を言えば、人生は自分の心の豊かさを育む為だけのゲームなんだから。周りに言われるがまま、そいつにとってはつまらない野球をやって大成功しても、そいつの心は豊かにならない。だって本人は汗水垂らして苦労して、大して成功しなくてもサッカーがやりたいんだから。そしてそれが出来たなら、誰にも文句を言われる筋合いはないし、そいつ自身が満足なら、多分その選択で間違っていないんだ。」

 

 俺の言いたかった事がどれぐらい伝わったかは分からないが、セーラは声を出してしばらく泣いていた。その後に、壁を向いたまま俺にこう尋ねた。

「・・貴方は自分の才能が何か知っているの?」

「セックス以外かい?」と言うと、セーラは少し笑ったようだった。

「実は知っている。今まで誰にも言った事がないけど、俺には俺にとって全く役に立たない特殊能力があるんだ」

 セーラはもぞもぞと振り返り、俺の腹の辺りを枕にして「教えて」と言った。

「驚かないでくれよ。」

「うん」

「俺は楽器も何も弾けないし、歌だって上手くないのに、絶対音感があるんだ」

「・・そうなの?」

「ああ。まともな音楽教育も受けてないから楽譜も読めないのに」

「え?じゃあ、どうして絶対音感だとわかったの?」

「正式には絶対音感とは言わないのかも知れない。でも例えば、その辺にスマホか何かを落としたとする。そしてしばらく後に誰かがドアをノックしたとする、そうした時に(ああ、このノックはさっきスマホを落とした時の音と全く同じだな)と思うんだ。そこのタイムラグはかなり長く取っても大丈夫。二つ目の音が次の日でもね。昔こんな事もあった。大学の時に、小さい頃からピアノを本格的にやっていた人間がいて、たまたまそいつと一緒にコンビニに行って入店音を聴いたんだけど、俺が(最初の音はさっきの信号と同じ音だ)と言ったらその友人が(そう、ファのフラットだよ、よく分かったね)と驚いていた」

「へぇー」とセーラは素直に感心してくれた。

「だけど、自分の体感しているのは、音ではないのかも知れない。何というか波動というか、振動というか・・・」

「どういうこと?」

「波長、波動、音階、振動、どれを感知しているのかは正直自分でも分からないんだ。ある種の周波数を脳で感知している、とでも言えばいいのかな。だから一度感じた音色は忘れないし、似た物も分かる。例えば初めて電話で話した人間が、大体どういう体形でどれぐらいの年齢で性格なのか、ほぼ間違いなくわかる。生まれて三十年以上色んな人間の周波数を感じてきたわけだから、直接見なくても声だけで、そのデータから大まかな姿を導き出せるというわけ。」

「そうなんだ!すごいね!」

 自分の話を忘れて、こっちの話でもう感動してしまっている。俺はセーラの体よりも、こういう所が好きなのかも知れない。

「ねえねえ、ワタシの周波数は?ワタシのはどんな感じ?」

「キミの波動は素晴らしいよ、俺は今まで安物のシャンパンしか飲んだ事がなかったから。キミはほとんどドンペリだ」

 と、俺はイギー・ポップが(ドイツ人モデルのニコと付き合った時はどうでしたか?)と、訊かれた時の冗談を引用した。

「・・・ん?」

「ん?」

 沈黙して顔を見合わせる二人。そして我慢できずに

「あはははははは」

 

 今思えば、俺達はこの頃にさっさと結婚しておくべきだったのかも知れない。亡くなった友人の墓を掘り返すような無意味な事などせず、セーラ似の可愛い子供を抱いて、地元に戻ってひっそりと暮らせば良かったのかも知れない。家族を持つなんて考えた事もなかった俺が、この時はそういう事が出来るのかも知れないと思ったほど、互いに特別な繋がりを感じていた。けれど俺達はそれをせず、あまりにも危険な土の中にシャベルも持たず、グローブもせず、素手のまま、手を突っ込んでしまった。そのヨゴレは、今も取れない。

しばらくは二話ずつ、毎週水曜日に更新します。

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