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XNUMX  作者: 上兼一太
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XNUMX(6)カズヒコ

 2010年 10月X日


 細かい雨が降り出して、窓に当たる音がした。俺とセーラは込み入った話をする為に落ち着いた店に場所を変えていた。会話する内容と店の雰囲気を合わせる事の重要さを、俺はフリーランスになってすぐ、先輩ジャーナリストから教わった。取材する相手を場違いなところに呼び出すと聞ける話も聞けなくなるぞ、と口酸っぱく言っていた彼はその後すぐに廃業して、今では静岡で蜜柑農家を継いでいて、年に一度それほど美味くもない酸味の強い蜜柑を大量に送ってきてくれる。

 ここはバーとバルの中間のようなカウンターがメインの店で、テーブル席は2つ。それも店内の両角に脚の長いテーブルとイスが置いてあるだけ。マスターが二人連れだと気づくと使っていないバー・チェアを持って来てくれる。入口とは逆側の席は薄暗く、肩を寄せ合うように親密な会話が出来る。狭い店内ではモダンジャズ(今日はMJQ)がかかっていたが、雨音はミルト・ジャクソンのビブラフォンとは全く別の周波数で店内に流れている。そういう風にマスターがスピーカーの角度や音質を調節しているのだろう、だから小さな声の打ち明け話ならこの店はうってつけだ。セーラがお酒が飲みたい気分だと言ったのでお互いシングルモルトを、俺はロックで彼女は水割りで頼んだ。友人の葬儀の帰りに酒を飲むのはどうかとも一瞬思ったが、むしろマツシタの短くも美しい、社会的価値の大いにある人生を祝いたいような気分でもあった。俺の同級生で最も成功した男。これからもアイツの作品は永遠に世界中で愛されるだろう。多くの人が一生かかっても出来ない事をたかだが30数年で成し遂げたのだ。何て凄いやつなんだ、マツシタ、似合っていなかったグッチのスーツとモスコットの眼鏡に乾杯!そう言って我々はグラスを当てずに静かに彼の人生を称賛した。

 

 ほどなくして俺はセーラに自分の職業を明かした。その流れでマツシタの死の真相を追っているんだと。しかしはっきりとした事件性を確認出来ない限り、この件を公表するつもりはない、俺の中でやつの死を整理する為に個人的にやっている事だと伝えた。その間セーラは黙って頷いていた。そして公にしなかったとしても、もしわかったなら私にも事の顛末を教えて欲しいと言った。俺はそれを承諾した。彼女にはその権利がある。

 3杯目のウイスキーが空になりかけた頃、つまみで頼んだソーセージとウィンナーの盛り合わせもほとんどなくなり(これがその日、俺が最初に食べた固形物だった)顔が幾分紅潮したセーラは「実はワタシ元々すごい大食漢だったの、一時期仕事のストレスもあって凄く太ってたんだから。でもオーディションにも受からなくなって何とかダイエットに成功してからは食べる量をセーブする癖がついちゃって、胃が小さくなったのかな、今ではこれで(皿の上で人指しゆびを回転させながら)2日分ぐらいのご飯」と笑った。「何かちゃんとした物を注文するか?」と俺が訊くと「ダメダメ、もうあの頃に戻りたくない。女優を引退したとしてもね」と苦笑いした。

 

 俺はなくなったセーラの飲み物を注文してから「そろそろ訊かせてくれよ、その、言い辛い話というやつを」と言った。

「・・・そうね」そう言うとセーラは、運ばれてきたグラスを受け取るや否や一気に喉に流し込み、アルコールの熱さをしっかりと胸で受け止めてから俺の方をジッと睨むように見つめてきた。きっと本来の彼女は大飯食らいなだけではなく(ザル)でもあるのだろう。

「まず大前提として、私はマツシタくんの事は大好きだよ、それはわかってね」

「ああ。」

「それでもあくまで事実として、客観的に言えばマツシタくんは別れてから亡くなる日までずっと、れっきとしたワタシのストーカーだった。」

「なんだって?」

「もちろん、悪い意味のストーカーじゃなくてだよ。暴力を振るうとか、無言電話をしてくるとか、変なものを送りつけるとかそういう事は一切してきてないから勘違いしないで。彼はワタシを故意に傷つけるような事は絶対にしなかった。付き合ってる間もね。だけど別れてからは何度も復縁を迫られたし、再プロポーズもされた。最初に断ってから2度。ワタシの舞台は毎回どんなに連載が忙しくても観に来てくれていたし、時には出待ちのような事もされた。元カノなのにだよ?事情を知ってる友達にはちょっとおかしいと言われた。ワタシも正直そう思う部分もあった。でも具体的な被害は、ないといえばなかった。誕生日にエルメスのバーキンとか高級な物を贈られるのには困ったけど・・・」

 エルメスの相場が俺には分からなかったが、何となくマツシタのセンスが少し古い事だけは分かった。

「一番イメージに近いのは(熱心なファン)という感じだったけど、それじゃ済まないのはやっぱりワタシ達が一度は恋人関係にあった、ということ。そしてしっかりと別れていたし、ワタシにはその後も何人か普通に付き合った人がいた。もう8年以上経ってるからね。もちろん、そういう事もその都度マツシタくんには伝えたよ、でも彼のワタシに対する温度は最初からずっと変わらなかった。」

「・・・そりゃ・・迷惑だ。」と俺は言った。

「そうね・・・迷惑じゃないと言えばウソになるけど、でもマツシタくんがそうなってしまった理由もわかるの」

「キミが初めての女だったから?」

「半分正解」

「?」

 俺が困った表情をすると彼女は小悪魔のように楽しそうな表情を浮かべた。その顔は子供の頃のメンソレのそれだった。

「ここからが本当に言い辛いところなんだけど・・・」

 俺が頷くとセーラは、小さなテーブルに肘をついて少し乗り出してくるような形でさらに声のボリュームを落とした。我々の影は薄暗い店内で重なり合い、周りからはキスをしているように見えているかも知れない。

「マツシタくんはワタシ以外の人とは、その、何ていうか・・出来なかったらしいんだよね」

「ん・・ああ、セックスをか?」

 カウンターの中にいるタイガー服部のように白髪を後ろに束ねたマスターの、グラスを拭く手が一瞬止まった。

「もう!君ももう少し声を落としてよ」とセーラは俺の腕を叩いた。それと同時に二人のロマンチックな雰囲気は一瞬にして弾け飛んだ。

「わるい」

「それでね、マツシタくんだって・・そりゃ、あんまりモテなかったかも知れないけど、そういうチャンスはワタシの前にだって何度かあったんだって。確かに、あれだけお金持ちならそれだけで寄ってくる、あんまり頭の良くない女の子はいるはずだよね?でも、その誰ともそういう行為は出来なかったって・・」

「最終的な段階で?」

「最終的な段階で。」

 そんな話も俺はマツシタから聞いた事がなかった。アイツは常に沢山の女が周りにいるような雰囲気を醸し出し、価格が高いだけの趣味の悪いファッションをして、忙しい忙しいと自慢しながらいつも笑っていた。セーラの知ってるマツシタと俺の知っているマツシタがあまりにも違い過ぎて、段々同一人物の話をしているとは思えなくなってきた。ストーカー?女優の一途な彼氏?インポテンツ?一体誰の話だ。

「ほら、カレって潔癖だったじゃない?だからそういう意味でなんかダメなのかなって思ったんだけど、そういう事じゃないみたいで、ハッキリとした理由は本人も分からないって、ただ性行為はワタシとしか出来ないんだって」

 確かにマツシタは子供の頃から潔癖症の傾向があった。今のところそこだけがセーラと共有できるアイツのイメージだ。いつもの店でもマツシタはメニューを見ずにコーヒーを頼み、そのコーヒーにはほとんど手を付けず、なるべくテーブルにも触らないようにして、ただポケットから出したアイコスをふかすだけ。要するに他人を信用していないのだ、俺にセーラとの事を一切話さなかったように。

「ワタシと別れた後、ある関係の人から紹介された物凄い高級な会員制の、大人のお店に行ったんだって。昔で言う吉原みたいな所。そこは政治家とかアイドルとかが御用達にしている一般には知られていないお店で、そういう所で働いているようには見えないモデルのような女性たちが勤めていて、実際どっかで見た事があるようなタレントの卵なんかもいたりして、すっごくレベルの高いサービスをしてくれるらしいんだけど、そこでもカレはやっぱり出来なかったんだって言ってた」

「なるほど・・でも申し訳ないんだけど、それはキミをもう一度手に入れたいっていう気持ちから出た嘘っていう可能性はないかい?要するにオマエしかいないんだっていう」

「・・そうね、確かにそれを証明できるのはマツシタくん本人だけかも知れない。でも自分で言うのもヘンだけど、逆に言えばワタシへの気持ちはずっと一貫してたって事の照明にはなるかも知れない」

「確かにな・・・ああ、そうか!」俺はそこでやっと理解した。

「キミがさっき言った(ないと思う)というのは、そういう事か!」

 セーラはまたメンソレの頃の笑みを浮かべた。

「そう、マツシタくんと沢口明菜は確かにその夜も一緒にいたかも知れない、でも二人に肉体関係はなかったと思うし、少なくとも恋愛関係ではない。沢口さんから近づいたなら、それはきっと女優として仕事を得る為だと思う。」

「・・・なるほど。しかしマツシタは俺に、沢口明菜との約束を取り付ける為にそれなりの金と労力を使ったと言ってたんだよ」

「そうなんだ?」セーラにも知らないマツシタの一面があるようだ。

「ああ。だから少なくとも最初は沢口側からのアプローチではない。もちろん売れっ子漫画家に近づくメリットはあるだろうけど、ブレイク寸前にスキャンダルのリスクを負うとも思えない。マツシタが沢口と親密になろうとした理由があるはずなんだ・・しかも、かなり強い意志を持って」

「・・・」 

 ここでどれだけそれについて二人で考えたところで、答えなど出るはずもなかった。使い方は間違っているが、これもある意味(死人に口なし)だ。

 だが奇妙な違和感が俺の胸をざわつかせていた。何というか、随分前から同じ事について悩んでいたような不思議な感覚・・・数か月前にマツシタが話していた投手の話・・その後の沢口明菜とのデート・・地元の町・・ヤツの急逝・・・いや、こんな最近の事ではない、もっと昔から、ずっと頭の奥にひっかかっていた何か・・・

 目の前に元女優のとんでもない美人がいる事も忘れて一人の世界に入っていると、俺の目を覚ますように「じゃあさ」とセーラが明るく言った。

「訊けばいいんじゃない?本人に。」

「・・恐山に交霊術でも出来る人間を探しに行くのか?」

「違うよ、沢口さんの方。あの日の晩、マツシタくんと何で会ってたか、彼女に訊けばいいんだよ」

「そりゃあそうしたいよ、でも沢口明菜は今売り出し中の新人女優だぜ、そう簡単には・・」

「彼女の事務所、今もMでしょ?」

「ああ、大手のMだ」

「多分、何とかなるよ」

「え?」

「面識もないし、同時に在籍してた時期は短いけど、あの子はワタシの後輩だもん」

 そう言ってセーラは顔をくしゃくしゃにして笑いながら、もう一杯お代わりを頼んだ。これはどれだけ飲んでも奢ってやるしかなさそうだ。



 一九三五年 六月 X日


 一比己カズヒコは自転車に乗って隣村にある駐在所まで走り、おおよその時間を計測する。急いで来たがどうやっても半時間はかかる。夜中の暗い道ならもう少しかかるな。もしも村の誰かが俺の行動に気付き、ここまで助けを呼びに来たとしても、その時にはもうあとの祭じゃ。それから一比己はこのW町より栄えているK町で金物店に寄り、頼んで置いた大きめの包丁を数本買って家に帰り、離れ家で当日までにやるべき事を書き出す。

イ、遺書を書く。

ロ、当日着用する軍服または学制服を探す。

ハ、村の電線を切っておく。

ニ、懐中電灯の電池の確認。

ホ、どの家から始めれば効率が良いか、地図で経路の確認。

 ・・ハ、は当日昼までが好ましいが、切る線の選別をしっかりとしとかにゃならん。一比己は準備を進めれば進めるほど、自分がどこか性的興奮に近いものを感じている事に気付く。

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