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XNUMX  作者: 上兼一太
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XNUMX(58)クルーエル ~(59)ピクルス

(58)クルーエル


 T県には当初の予定通り新幹線で帰る事になった。飛行機でも良かったが、急遽手配するには時期が悪く、チケットが残っていなかったのだ。それに空港からでは到着後にJ市に行くまでが面倒だった。もちろん新幹線だって帰省ラッシュになる直前で座席はほとんど埋まっていたが、明菜お嬢様のご所望どおり、最も高級な席を探したお蔭で丁度2席分の空きがあり、予約していた自分の券と上手く交換する事が出来たのだ。それはグランクラスという電車のファーストクラスとも言われる、1車両18名だけの特別座席。席間が広く、フットレストもある大きなシートはリクライニングも倒し放題だ。専用のアイマスク、スリッパ、ブランケットが座席ごとに付いていて、軽食やドリンク、デザートも提供される。それらは一流ホテルの料理を手がける有名シェフが監修をしている物だという。(時期によって担当者は代わる)そして当日、乗車前には東京駅のグランクラス利用者専用のラウンジが使用でき、お酒やお菓子のサービス、長時間乗車に備えたマッサージ等も受けられる。・・・自分だけだったら絶対に使わない無駄な・・いや、贅沢の限りを尽くした座席なのだ。もし地元の人間達に、わざわざこんな席に乗って帰って来たと知られたら、二度と帰れないほどの大笑いものにされるだろう。

 沢口明菜に座席や乗車時間を送ると「オケ」とだけメッセージが帰ってきた。まるで会った時とは別人のような淡泊さだったが、多分、事務所やスケジュールは押さえられたと考えていいのだろう。自分が分かってる事は、当然他人も分かってると思ってしまうタイプの人間と行動を共にするのは大変だが、時間もないので今はとりあえず彼女を信じるしかない。こっちとしてはドタキャンされたとしても構わないわけだし、向こうに着いてからの行動も海外取材の時のように、多分行き当たりばったりになるだろう。まず何年も顔を合わせていない家族に会えば(特に母親から)文句を言われるのは必至だろうし、それをかいくぐりながらセーラの居場所を探し出して、サイゴウの親戚や、灰烏という家の人間と接触するのは考えただけでも骨が折れそうだ。そこにさらにマイペースな、十代の有名女優を同行させるなんて・・・。

 俺はなるべく先の事を考えないようにしながら、ある程度長期滞在出来るぐらいの荷造りと(そうは言っても実家のある場所なのでそれほど多くはない)しばらくいなくなる家の掃除や冷蔵庫内の食料の片付けをして帰省する準備を粛々と整えていった。人の脳味噌というのは実に主勝手なもので、そのうちに俺の左脳は現実的なモードに入り、二日前に風呂場で見かけたモノはやはり入浴剤の溶け残りだったのだろうと、自動的に結論づけた。都合の良い思考というのはある意味、防衛本能なのかも知れない。

 30日。朝が弱い沢口明菜の希望で、予約したのは午後一番の電車だったので、俺は午前中に仕事関係者や健三社長等にしばらく関東を離れるという旨の連絡をした。健三さんはすぐに折り返しの電話をくれたので、ただの年末年始の帰省ではなく、それなりの時間留守にすると正直に伝えた。

「という事は、マツシタくんやサイゴウくんに関連した事なのですね?」

「そうです。そろそろこの件もある程度の結論を見つけなければいけないと感じています。いつまでもダラダラやっていても仕方がないので」

「・・・そうですね、貴方にも貴方の人生がありますから・・」

「・・私の人生ですか・・・それは一体どういうものなんですかね?」

 俺は健三さんを困らせるつもりはなかったが、なぜかそんな言い方をしてしまった。

「えっ?」

 案の定、健三さんは言葉に詰まって「いやぁ、それは私には・・」と分かり易く窮していた。俺は申し訳なくなって「すいません、ただの言葉のあやです。何かあったらいつでも連絡してください。向こうにいる間はきっとそんなに忙しくはないでしょうし、電話はいつでも出られると思います。戻って来ようと思えば新幹線で3時間ちょっとですしね」と、なぜか遠距離恋愛相手のようにフォローをした。

 電話を切ってまだ出発には時間があったので、コーヒーの残りを飲みながらPrefab Sproutの1stアルバム「Swoon」をかけた。多くの人が2ndの「Steve McQueen」を最高傑作に挙げるが、俺は昔から何故かこちらの方が好きだった。パディ・マクアルーンは(今日も残酷さは僕たちを自由にするゴスペル、そして僕から君を奪っていく)と歌う。パパパ、パパパ・・と独特のスキャットが聴こえ出した頃、ドアの外で「ドタンッ」と何か聞き慣れない音がした。自室のドアポストに物が入った音にしては遠く、隣人の帰宅する音にしては近かった。この建物の中で朝の10時にはあまり聞こえないタイプの音だ。普段の俺だったら外出の前という事もあって我関せずというところだが、何故か今はわざわざドアを開けて外を確認してみる気になった。しかし、すぐにその気まぐれな行動をした自分を褒めてやりたくなった。玄関から廊下を見てみると、うちと隣の部屋の間ぐらいにボロボロになったアリスがうつ伏せで倒れていたのである。俺はすぐに飛び出して彼に駆け寄った。

「大丈夫か!どうしたんだ!?」

 抱え上げるとアリスは俺の腕の中で「ああ、そっちが貴方の部屋だったか・・階は覚えていたんだけどね、へへへ」と笑った。

 とりあえず彼を抱き上げて部屋の中に入り、(本当に幼児のように軽かった)寝室へ行ってベッドで横にさせようとしたが「ボクは泥だらけだし、二日間お風呂にも入ってないから下でいいよ」と、小さな声で言われた。

「そんな事言ってる場合じゃないだろ?救急車を呼ぼう」

「大丈夫、怪我もしてないし病気でもない・・ただ、何も食べてなくて寝てないだけなんだ・・」

 そう言って俺の腕から降りたアリスは、床を這いずって壁に背を付けて上半身を起こそうとした。俺はクッションを彼の背中に差し込んだ。

「ご、ごめんね、一昨日ここに来れなくて」

「それはもういい。とりあえず何か飲むか?冷たい物と温かい物どっちがいい?」

「・・両方」

「分かった」

 俺は旅行バッグに入れておいたパックのオレンジジュースを出し、ストローを刺してアリスに渡した。それから同じく保温ポットを出して、温かい紅茶を入れた。彼は咽ながらも一瞬でオレンジジュースを飲み干して、紅茶の入ったカップに移った。

「すまない、旅に行く前でまともな食料がないんだ」そう言って俺は、車内で昼飯に食べようとしていた焼き鮭のおにぎりを出した。どうせグランクラスならもっといい昼飯が無料で出るだろう。

「そうなんだ・・ううん、飲み物だけでも大分落ち着いたよ・・でも貴方のおにぎり美味しそうだから一個貰うね」

「3個あるから食べたいだけ食べればいい」

 本来真っ白なはずのアリスの手が泥だらけだったので、俺はおにぎりをそのまま食べ易いようにラップで包んで渡した。

「ありがとう・・ホントはシャワーに入り立ての状態で貴方に会いたかったな」

 紅茶の入ったカップを床に置いて、アリスはおにぎりを齧り出した。

「おいしいなぁ・・貴方のご飯・・貴方が作った物を食べるとほっとするんだよ」

「それは良かった、キミが言ってくれるほど大そうなものじゃないけどね。事情は落ち着いたら話してくれればいい。今日じゃなくてもいいし」

「うん・・ごめんね・・あ、でも旅行に行くんでしょ?・・時間は大丈夫?」

「ああ、あと一時間はある」

 もしこれが俺一人の帰省だったら当然即座にキャンセルしていただろう。または友人や恋人との旅行でも、例え仕事であっても、特別なものでなければ変更しているところだ。・・・ただし今回に限っては、あの沢口明菜を俺の地元へアテンドしなければならないのだ。これはどう考えても、自分の人生で最もキャンセルし辛い旅である事に間違いない。・・・とは言え、こんな状態のアリスを置いて行くわけにもいかないし・・・。彼は前回着ていたマウンテンパーカーのような黒いブルゾンの中にボロボロの太めのジーンズと薄汚れたソニックユースの長袖Tシャツを着ていた。年の瀬にしては薄着過ぎる。どれも泥だらけで渋谷のハチ公前のような臭いがする。金髪の美しい髪にもよく分からないゴミが絡みついている。全て脱がせて着替えさせたいが・・・・。

「ボク・・臭くて汚いよね、ごめんね」

「いや、それは一時的なものだ、気にしなくていいよ。まぁ世の中には、病気の人に咳をするなと怒るバカもいるけどね」

「はは・・」アリスは力なく笑った。「うちの先生達みたいだ・・」

「?それは孤児院の?」

「うん・・あそこにいる大人達は高熱を出している子供達にも(貴方が不注意だからいけないんだ、寒いなら毛布を頼め)とか平気で怒る・・そして子供が勇気を出して何かを頼もうと声をかけても(今疲れているから後にして)とか言って、自分を優先して話も聞かない・・子供を世話してるのは、実際には少し年上の子供達なんだ」

「そうか・・」

「ボクらの多くはDVとかネグレクトから逃げて引き取られた子供なんだけど、あそこの施設では結局同じ事が行われている・・そういう所だよ、ゴホゴホッ」

「急いで沢山喋らなくていい、今は楽にするんだ」

「・・うん」

 アリスは黙って紅茶を飲み、おにぎりを食べた。俺は暖房を付けて室温を上げ、風呂を沸かしていつでも入れるようにした。それから思い出して、例の(封筒のお金)をタンスから取り出し、そこから20万を分けて別の封筒に入れた。寝室に戻るとアリスはおにぎりを2つ平らげていて、クッションを枕に横になっていた。目を瞑っていたので眠っているのかと思って忍び足で近づくと、そのまま「起きてるよ」と言った。

「そうか」と言って俺は彼の横に胡坐をかいて座った。

「大丈夫か?風呂を沸かしておいたから、起き上がれそうになったら入ればいい。着替えは脱衣所に用意してあるよ」

「ありがとう・・何から何まで」とアリスは目を閉じたまま言った。その顔はどう見ても白人の少女だった。

「・・でも、どうして貴方はそこまでボクに優しくしてくれるの?」

 俺はアリスの額を触って熱を確認した。どうやら少し熱もあるみたいだ。

「人間っていうのはさ、俺が思うに本当はとんでもなく人に優しく接する事が出来るんだよ、でも、多くの人がそれを自分で抑えてるんだ。」

「どうして・・そう思うの?」

「逆の出来事がよくニュースで取り上げられるからさ」

「え?」

 俺は立ち上がって体温計を探しながら適当な事を喋った。

「毎日のようにニュースで凶暴な出来事が報道されているだろう?その犯人は普段からとんでもなく凶悪な物が心にあって、それを自分で抑えている。でもある日、何かの加減でそれが限界を突破してしまって、誰かに考えられないほど恐ろしい振る舞いを行う・・これが人間だ。そしてこういう人種は世界を見渡しても驚くほど多い。・・ただし、そうだとするとその逆もあるんじゃないかと俺は思うんだ。」

 アリスは少し考えた後に少しだけ口に微笑みを浮かべながら「・・じゃあ、パッと見は分からないけど物凄く優しい心を持っている人がいて、その気持ちをずっと抑え込んできたけど、何かの弾みでそれが溢れ出して、物凄く人に優しくしてしまう事もあるってこと?」

「ああ、そうだ」

「ふふふ、それが今の貴方なんだね・・優しい事件のトップニュースだ」

「ああ、自分でも手に負えないほどの、情状酌量の余地のない優しさだ」

 俺はクローゼットの引き出しから体温計を見つけてアリスの横に戻った。

「そんな事ばかりを報道するニュース番組があったらいいのに」と言いながらアリスは、俺が体温計を持っている事に気づいて、入れやすいように体をずらした。俺は「良いニュースはいつだって小さな声で告げられるんだよ」と言いながら、彼の白樺のような腕の間に体温計をセットした。

 アリスは横向きになって俺の方を向くと「このまま少し話していい?」と言った。

「もちろん。出かけるまで、まだ・・40分ぐらいはある。」

「じゃあ・・どうしてこうなったか、説明するね」

「ああ、ぜひ聞かせてくれ。でも疲れたら途中で止めていいから」

「わかった」



(59)ピクルス


 平日の午前10時半頃。空は快晴。窓からの日差しは冬の透明な空気を素通りして寝室の隅まで届いている。スズメの鳴き声と郵便配達のバイクの音以外にはほとんど何も聴こえない。フェルメールがこの部屋を描くとしたら、入口のドア越しにモデルとして牛乳を注ぐ娘を配置するだろう。穏やかな一日が始まって、誰もが今日という日がその平穏さというアベレージを維持して終わる事を想像している。その時俺は、十四才の少年の地獄のような体験を聞く事になった。

「ボクは娼婦を辞めたんだよ」と、アリスは下から俺の目を見つめて言った。

「貴方に会った日の帰り道。ボクはもうそういう仕事を辞めなくちゃいけないって気づいたんだ。もちろんいつまでもそんな事をしてられないとは分かっていたけど、辞めるなら今日、そして今しかないって思ったんだ。貴方に会って、美味しいカレーをお腹いっぱい食べさせて貰って(ああ、ボクはもう前のボクには戻れない、戻っちゃいけない)って気づいたんだよ。ボクはそれまでの14年間で初めて、ボクから何も奪わない人に出会ってしまった。それは衝撃だった。だってボクと会った人は、大人も子供も誰もが何かしらをボクから奪っていったから・・。それはお金だったり時間だったり体だったり心の中の何か大事な物だったり・・うまく言葉に出来ないけど、次の日を生きていく力みたいな物を誰もがちょっとずつ奪っていった・・沢山の時もあったけどね。とにかくずっとそうだったから(仕方ない、他人とは人生とはそういう物なんだ)って思っていた。だけど貴方は違った。ボクから何も奪わないどころか、ボクにそういう(次の日を生きていく力)みたいな物を逆に与えてくれた。確かに楽しく笑い合える園の友達とかは少しはいるけど、それは小さい頃からお互い同じような環境で生きてきたから、弱い者同士で一時的に協定を結んでいるだけで、少しでも自分が優位な立場になったらきっとすぐに裏切ってまた何かを奪っていくんだ・・あそこの子供達はほとんどみんなそういう、追い詰められたネズミみたいな目をしてる・・大人はボクから奪う事を当然だと思っている。子供は互いに隙あれば奪おうとしている。ボクはそんな世界を生きてきた・・でも貴方は最初から違っていた。初めて会った時、車の中で寝ていた貴方は今のボクぐらい弱っているように見えた。でも貴方は雨に濡れたボクを家に入れてくれて、ご飯や寝る場所の面倒までみてくれた。・・ボクには両親の記憶がほとんどないし、一方的に甘えさせてくれる大人なんていやしなかった。だから貴方といた半日の間で、もしかしたらこういうのが本当の家族なのかも知れないって勘違いしてしまったんだ。そうなるともう、自分が属していたそれまでの全てがどうにも嫌になってしまってね、園はすぐに出られないから(仕事)だけでも辞めようと思って、その足でボクは仕事をくれる人の所に行ったんだ。・・・そいつは所謂ヤクザの下っ端のチンピラで、ボクの住んでる地域では主に覚醒剤の売人をやってるやつだった。そいつに会って、もう辞めさせて欲しい、仕事はしたくないって言ったんだ。そうしたらそいつが(他のヤツならぶん殴っておしめぇだが、お前だけは上の人に傷つけるなって言われてんだ。もしお前が辞めたいって言ってきたら連れて来いとも言われてる)って言った。それでボクはそいつに連れられて初めてヤクザに会いに行ったんだ。そこは園からも遠くない場所にある普通のビルだった。もちろん(OO組)とか看板が出てるわけでもない、よくあるビジネスビルみたいな建物で、入ると4階にある部屋に通された。室中に入った途端、チンピラは帰されてボク一人になった。目の前の、校長先生が使うような重厚な机の後ろに男が座っていて、その脇に細身で眼鏡のサラリーマン風の男、ドアの近くに坊主頭のプロレスラーのような大きな男が立っていた。その人は左手に包帯を巻いていたな。正面の椅子に座っている男はボクが今まで見た中でも特にコワイ・・というか不気味な顔をしていたよ・・蛇というかトカゲというか・・とにかくその三日月のような目に見つめられると、何だか自分がこれから丸のみにされるんじゃないかという気がしてきて手足が固まってしまった。でもボクはその男を前に一度、遠目から見た事があったんだ。いつだったかは忘れたけど、園の外で副園長とその人が話しているのを見た事がある。あの顔は間違いないよ・・それでその男が、仕事を辞めたいなら辞めさせてやるが、上客からの依頼があるからあと一回だけ請けろ、それ以降は好きにすばれいいと言った。ボクはあと一回ぐらいなら別に平気だと思って、分かりましたと答えた。男は細長い下をペロペロ出しながら、、日にちと場所は追って連絡すると言った、その日はそれで帰らせて貰えたんだ。それからすぐに例のチンピラを通して、28日の正午に戸塚駅前で待っていろ、と言われた。その日は夕方から貴方の家・・ここだね・・に行く予定だったからその前に仕事をするのは嫌だった。でもこれで最後だし、綺麗さっぱり足を洗ってから貴方に会うならそれもいいかも知れないと思った。どうせいつもどおり、1~2時間で済む事だろうと思ってたし・・・。駅に着いて東口の日差しのあるバス停のベンチに座っていると、白い大きな外車が目の前に停まった。ボクは車に詳しくないから分からないけど、海外のお金持ちとかが乗っているような高級車だった。黒いスーツの運転手が降りてきてボクに助手席に乗るようにと言った。車内はバラのような匂いが充満していた。ボクは甘ったる過ぎて吐き気を催したよ。後ろを見ると、後部座席に六十代半ばぐらいの優しそうな夫婦が座っていた。旦那さんは白髪の短髪で眼鏡をかけていてガリガリに痩せていた。やたら目が窪んでいてロシア系の外人か、そういう血が入ってる人のようだった。奥さんの方は太っていて厚化粧でいい歳をしてフリフリの沢山付いた服を着ていた。二人ともずっとニコニコしてボクの事をミラー越しに見つめていた。ボクはそこで(これは本当に上客かも知れない)と思ったよ。ボクは男性専門の娼婦だけれど、旦那さんの方には性的な力や雰囲気が全然感じられなかった。この人は多分、不能者じゃないかな?と思ったんだ。それで、この夫婦ならボクを自分達の子供のように扱って(お話しをする)だけかも知れないって思ったんだ、きっと二人には子供がいないんだろうって。時々いるんだよ、お客さんでボクに一切エッチな事をしてこない人が。性的な事はしなくていいから、彼女のようにデートしてくれとか、膝枕して愚痴を訊いてくれとかいう人がね。大人は色んな悩みを抱えているんだなぁって知れた事は、この仕事をしていて良かったと思う唯一の事かな。とにかくそういう類なんだと思った。そのままどうでもいい、学校はどう?とか、本当に真っ白なんだねとか、友達はいるの?とか、そんな話をしながら40分ぐらいドライブをして、その間ボクは吐き気をずっと我慢していたけど、何とかもどす前に郊外の静かな場所に到着した。今思えば外人墓地の近くを通ったから元町とか山手の方かも知れない。敷地の周りは木に囲まれていて、門の中まで車で進んで行くと、そこにはお城みたいな大きな家が建っていた。入ってみると玄関は真っ白の大理石で、正面には螺旋階段があって、中もちゃんとお城みたいだった。メイドのような女性が向かい入れてくれて旦那さんのコートや奥さんのバッグとかを預かって行った。ボクが内装に圧倒されて周りを見回していると奥さんが(お腹すいてないか)って訊いてくれた。でも、まだ少し気持ち悪くて大丈夫ですって答えた。この奥さんには中国訛りがあったんだ。(じゃ早速はじめよ)って言って、奥さんは豚足のような手でボクを掴んでひいていった。そういう家は大体二階が寝室って決まっているでしょ?でもボクらは螺旋階段を素通りして、廊下を抜けて少し暗い、奥まった部屋の方に進んで行った。後ろからは長袖のポロシャツを着た旦那さんだけがゆっくり着いて来ていたよ。メイドも誰も来なかった。突きあたりに着くと、重厚な扉の前で旦那さんがポケットから鍵を出してドアを開けた。開いた瞬間に部屋の中から体臭のようなカビのような何とも言えない古くて湿気っぽい匂いがした。においその物に赤黒い色が付いているみたいだった。室内に入ると色んな家具が置いてあった。最初はただのアンティーク家具かと思ったんだけど、よく見るとそれは中世とかのとっても古い拷問器具のようだった。本物かどうかは分からない、多分レプリカだと思うんだけど・・そんなのに囲まれて真ん中にはとても豪華で大きな円形のベッドが置かれていた。天蓋から何から、奥さんの大好きなフリフリが沢山付けられていた。後ろで扉が閉まり、鍵がかけられる重苦しい音がした。すると奥さんが突然ワンピースを脱いだ。彼女は一切下着を付けていなかった。ミシュランのキャラクターみたいな、全部が鏡餅のような面白い体形だった。・・って事は、ボクを迎えに来た時から下着は付けずにワンピース一枚だけだったんだ。彼女はそのまま走って行ってベッドにダイブした。布団が餃子の縁のように波を打ったよ。旦那さんはボクに、服を脱ぐようにと言うと、それを待たずに自分の服を勝手に脱ぎだした。ガリガリなのに飛んでもなくアレが大きくてね、真白いブリーフの横から思いっきりはみ出していた。ボクはまだ一枚も服を脱いでいなかったけど、旦那さんに肩を掴まれてそのままベッドの方に進んで行った・・・

(注)【本来はここから強い暴力、性描写の文章が書かれていますが、このサイトではどなたでも読めてしまうので、不特定多数の読者様を考慮して割愛させて頂きます。】

 ・・・ボクは今まで色んな酷い目にあってきたけど、これほど長時間人権を踏みにじられた事はなかった。貴方に会って普通の人間になれると思えたばかりだったのに、ボクは自分が最底辺の人間・・いや、人間ですらないんじゃないかと思ってしまった。・・ボロボロの体と心で放心状態になっていたボクは、来た時と同じ車に一人乗せられて、待ち合わせ場所だった駅前ではなく、なぜか例のヤクザの事務所に送られた。手に持った分厚い紙袋を届けろって事なんだなって思ったよ。到着してフラフラの足で何とか組のビルの中に入って、4階の部屋に行くと、また前の時と同じように、校長机の後ろに蛇男が座っていて、入口にプロレスラーが立っていた。でもなぜか眼鏡の人はいなかった。プロレスラーが近づいて来て、ボクの手から封筒を奪って蛇男に渡した。蛇男は中身を確認して頷くと、ボクに「ご苦労さん、携帯を出したまえ」と言った。ボクがパーカーのポケットから自分の携帯電話を出すと、プロレスラーがそれを掴んで一瞬で二つ折りにして、さらに握りつぶして粉々にした。それを確認した蛇男が「これでボウヤと我々の関係はおしまいだ。携帯には仕事の情報が色々入ってるから、持たれていると何かとまずいんだ。そんでこれは一種の手切れ金」と言って封筒を振った。「半日でこの額を稼げるんだから惜しいけどな・・まぁ何度もあの夫婦の相手をしたら死んじまうか・・・もう帰っていいよ、ご苦労さん」と言われた。・・ビルを出ると外は真っ暗だった。何時かも分からなかった。貴方との約束の時間はとっくに過ぎている事は分かったけれど、お金も携帯もないし連絡する方法がなかった。でも今更、園に帰る気もなかった。それでとにかく何とかここに来ようと思ったんだ。駅の名前は覚えていたし、時間はかかるだろうけど、どうにか来れると思ったんだよ。・・でも想像よりずっと遠かった・・それ以前に進む方向も、どの道が近道なのかも全く分からなかった。とにかくなるべく横浜市内に近い方に進めば何とかなると思った・・それで歩き出したんだ・・バカでしょ?子供って。でも貴方に会いさえすれば、何とかしてくれるって分かってた・・全て終わってスッキリしたはずなのに、まるでスッキリしていないこの気持ちを貴方なら分かってくれるだろうって。だからボクはとにかく歩いて歩いて、歩き続けたんだ・・・でも知ってるとおり、この身体は日の強い時間を避けなきゃならない。日中は日陰を狙って歩いてもそんなに進めないから日の暮れた時間を中心に歩いて、昼間は高架下とか公衆トイレの裏とかで少し眠ったり休んだりした・・喉が渇いたら公園の水を飲んだ・・もしかしたら遠回りをしたのかも知れない・・方向音痴なのかなボクは。行き止まりや突き当りに何度も当たって、同じ道に出てしまう事もあった。丸一日歩き通してやっと自分の進む方向が何となく分かってきた・・そんな時、近くに大学がある大きな公園を見つけた。そこには見覚えがあって、中を突っ切ればショートカットになるような気がした。園内を歩いていた時、感じた事のない強い空腹を感じて倒れそうになった。日が高くなっていたせいもあると思う。最後に何かを食べてから30時間ぐらいは経っていた・・へとへとで腹ペコで・・ボクは木陰になっているベンチで少し休む事にした・・そうしたら少し遠くのベンチで騒がしい大学生のカップルがご飯を食べだした。それは女の人が買ってきたハンバーガーだった。楽しそうに袋から取り出して食べ始めたと思ったら、男の方が突然「ピクルスが入ってる!」とか言って怒り出した。そして一口だけ食べた物を袋に戻して近くにあったゴミ箱にあっさりと捨てた。それからすぐに友達みたいな人達が来て、みんなでどっかに食べに行こうとか言ってわいわい喋りながら去って行った。・・・ああ・・ボクは本当はそんな事をしたくなかった・・でもどうしょうもなかったんだ・・ボクは周りに誰もいない事を確認してフラフラになりながらゴミ箱の方に歩いて行った・・ハンバーガーは全くの新品に見えた・・ボクは・・とにかくひどく空腹で・・・頭がもう正常じゃなかったんだ・・・そんな人間にはなりたくなかった・・これ以上自分を嫌いになりたくなかったし、貴方にそんな人間だと思われたくなかった・・でも・・でも本当にどうしょうもなくて・・ああ、ごめんなさい!ボクはその捨てられたハンバーガーを食べてしまったんだ!」

 アリスは大声を上げて泣き出した。その嗚咽は俺の胸に鋭利なナイフのように突き刺さった。俺は彼の頭を膝に抱き上げて腕で包んだ。そして「キミは何も悪くない」と何度も言い聞かせた。そして、どうしてこんな子供がこれほどまでに辛いめに遭わなければならないのだろうと、初めてこの世界の在り方を心底嫌悪した。

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