表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
XNUMX  作者: 上兼一太
30/31

XNUMX(56)チェンジ ~(57)アド・ベンチャー

(56)チェンジ


 しかし今はティーンエイジャー特有の生意気さに引っかかっている場合じゃない。気まぐれな彼女がいつまでもここにいるという保証はないのだ。

「その人を(良いバージョンのその人と交換する)っていうのは、一体どういう事なんだ?どうやれば交換できるんだろう?」

「触るだけだよ」

「もう少し具体的に頼む」

「えー、アタシ説明とか苦手なんだよねー、ノリで生きてるからさー」

 俺の真剣な顔を見ながら、沢口明菜は缶ビールをグビグビと飲んだ。

「なんて言うか、例えばクラスメイトに鈴木Aって男子がいたとするでしょ。んで、鈴木Aは顔は悪くないんだけど背が低くて運動オンチなの。そんでうちら2組の女子はみんな(鈴木Aがもうちょい背が高くてバスケとか出来たらなー)って思うじゃん。したらさ、隣の隣のクラス、4組に調度鈴木って名前の顔も良くて背が高いバスケが得意な男子が転校して来たよって情報が入って・・まぁこれを仮に鈴木Bとするね、それならうちの鈴木Aとその4組の鈴木Bを交換しちゃえばよくね?ってなって、アタシが鈴木Aを4組までひっぱっていって、鈴木Bと交換して2組に連れて来ちゃうみたいな・・分かる?」

「・・・分からなくもないけど・・・」

「分かれよ!これだからおじさんは・・」

 俺は早くもぬるくなってきたコーヒーを飲みながら自分なりに彼女の話を理解しようと努めた。

「さっき触れるだけだと言ったけど、どう触るんだ?」

「どうでもいいの、触り方は。触る場所もどこでもいい。でも短過ぎると無理。一瞬とかじゃ出来ない。最低でも1、2分ぐらいは欲しいかな。それから、その人の事をアタシがある程度知ってないとダメ。名前とか年齢とかどういう人とか・・向こうはアタシを知らなくてもいいんだけどね。だから通り過ぎる人とか、触れても電車内の人とかは無理」

「・・なるほど・・」

「あとそんなにしょっちゅうは出来ない。大体、年一ぐらいかな。なんか、一回やると自分の中の何かが空っぽになっちゃうんだよね、そんでそれが充電出来て次に出来るようになるまで大体1年ぐらい掛かっちゃう。ドラゴンボールみたいっしょ?」

「ああ・・・」

「あんたアタシが嘘ついてると思ってない?」

「いや、それはない。なんて言うか、いざ具体的に聞けば聞くほど、むしろ不思議になっていくというか、疑問が出てくるというか・・例えば連れてくると行っても一体どこから連れてくるのかとか、確かに学校の例えは分かり易かったんだけど実際に(隣のクラス)というのは何処を指すのかとか・・・」

「そんなのアタシにも分かんないよ。アタシが実際に(その場所)に行ってるわけじゃないから。でも交換するのは同じ学年だけじゃないよ?例えば先輩とか後輩とか、縦軸の違いもあるし、先生ぐらい遠い場合もあるし・・でもあんまりにも遠い所からその人の違うバージョンを連れて来ちゃうと、なんか変なことになっちゃうんだよね・・後遺症っていうか副作用っていうか・・・」

「君の母親とか・・?」

「うん・・」

 忘れていたが、この子は最近母親を亡くしたばかりの少女なのだ。

「すまない。」

「ううん、マジでそれは平気。アタシのママは何回もチェンジさせちゃっててさ、もう元のママとは全然別人でどっかのオバサンって感じだったから。」

「でもそれは君がやった事だろう?」

「・・・そうだよ」

「どうして何度も母親を交換しなきゃならなかったんだ?」

「・・・・」

 沢口明菜は黙って缶ビールの残りを飲んだ。煙草は吸われないまま灰がテーブルに落ちそうになっていた。俺は灰皿にしていた空き缶を彼女に方に近づけた。そこにまた長いままの煙草を押し込んで、彼女はもう一度「・・・そうだよ・・」と言った。

「うん?」

「そうだよ、わかってるよ!」

 沢口明菜は俺の方に飲んでいた缶ビールを投げつけてきた。

「アタシがママを殺したんだよ!!」

「いや、そうは言ってないよ・・」

「仕方ないじゃん!ママがそうしてくれって言ったんだから!アタシだってみんなを喜ばす為にやったんだよ、幸せになって欲しくてチェンジさせたんだもん!!でもダメ、ミコちゃんもナッちゃんもコウくんもフルヤ先輩もパパもママもテッちゃんも結局みんな死んじゃったぁああああ」

 沢口明菜は号泣してテーブルに顔を埋めた。投げられた缶ビールは幸いにも空だった。俺は缶を拾ってゴミ箱に捨てて、ついでに換気扇を回した。

「すまない、君を追い込むつもりはなかったんだ。ただ沢山の疑問が次々と湧いてきてそれを訊かずにいられなかっただけなんだ。君が質問をどう受け取るかまでは考えていなかった」

 俺の声が彼女の耳に届いているとは到底思えないほど、沢口明菜はわーわーと泣き声を上げ続けた。俺は近所に聞こえないように窓を閉めながら「本当に悪かったよ、君には君の事情があるだろうから、そういったパーソナルな部分はもう訊かない。今まで何があったかは言わなくていいから、マツシタに関係する事だけもう少し教えてくれないか?」と言った。だが沢口明菜はまだ顔を腕で隠したまま背中を揺らして泣いていた。

 ・・・大人になるとこれほど突発的に感情的になる人間とはあまり関わる事がなくなる。自分を制御する能力を当然身に着けている年齢になってもそれをしないというのは、知恵を使っていないという事で、まともな社会人になれば、自然とそんな人とは距離を置くようになるからだ。結局のところ、そういう人間達の性質が世界中で戦争を引き起こしてしまっているわけだし、単純にいい歳をして感情的になっている人間の姿は醜い。しかしやり方を知らない年齢であれば、それは仕方がないと言える。何かを学ぶ期間というのは誰にでもある。赤ん坊が上手くボールを持てなかったとしても、それを醜いと思う人は少ないだろう。微笑ましいと感じるだけだ。彼女があまりにも思い切り泣くので、俺は申し訳ないと思いながらもほんの少しだけ笑ってしまった。絶対聞こえないと思うかすかな、息を吹き出した程度の音だったはずだが、勘の良い沢口明菜は下を向いたまま「てめぇ今笑ったな」と言った。

「いや、笑ってない、ちょっとコーヒーが変なところに入って咽ただけだよ」と俺は言い訳をした。

「女が泣いてんだぞ、この場面で笑っていいのかよ」と、彼女はその体制のまま言った。

「いや、笑ってないよ、本当に。でも十代の女の子が目の前で泣いてても、三十後半の男にはあまり出来ることがないんだよ。肩を抱いたりしたらキモチ悪がられるだけだろうし」

「抱けよ」

「ふふっ」

「てめぇまた笑ったな!」と言って沢口明菜は顔を上げてタオルを投げようとしたが、そのまま涙を拭くように顔を隠した。そのフェイントの動作がとてもチャーミングだった。

「君はとても可愛い人だね」と、言うつもりのなかった言葉が俺の口から勝手に漏れた。

「・・は?どさくさに紛れて口説くなよ、じじい」

「あ、いや、そんなつもりはなかったんだけど・・」

「そんなつもりはあれよ」と言った沢口明菜の眼は少し笑っていた。

「口説いていないけど、君のその話し方、嫌いじゃないよ」

「好きって言え」

「ふふ、そうだね。ごめん、大人になるとどうしてもこういう喋り方がデフォルトになるんだ。きっと無意識に予防線を張ってるんだろうな、言葉の責任の重さを軽くしようとするんだ。うん、俺は君との会話が好きだ。何というか中学生の同級生と休み時間に話してるような気分になる。」

「ガキみたいってこと?」

「そうじゃない。大事なことを思い出させてくれるような感じがするんだ。子供の時は物凄く面白かったヤツがとんでもなくつまらない大人になったのを何度か見た。あのユーモアのセンスは一体どこに行ってしまったんだ?ってね。だから君と話すと野郎どもで集まってわいわいやっていた頃の感覚を取り戻せて嬉しいんだよ」

「男子の同級生かい」

「あはは、ごめんね、えーっと、何かもう少し飲む?」

「・・ううん、そろそろ帰らなきゃ」

 時計を見ると、23時半を回っていた。少々売れっ子女優を個人的に拘束し過ぎたのかも知れない。聞きたい事は山ほどあったが、今は難しいだろう。だが図らずも怒らせた事で我々の距離は近づいた、これなら次の機会もありそうだ。それだけでも十分大収穫だと言える。

「そうだね、もう遅い。タクシーを呼んでおこう」

 俺はタクシー会社に電話をかけて住所を告げた。沢口明菜は申し訳なさそうにもじもじと床を見つめていた。

「あんね・・」

「ん?」

「相手に集中して目を瞑って触ると、その人の後や前や上や下にずらーっと、別の世界?別次元?にいるその人の違うバージョンが並んで見えるんだ」

「・・ほう?」

「マトリックスの真っ白い部屋のシーンで沢山の銃が並んでるみたいに」

「ああ」

「でも別に白い部屋が見えるわけじゃないよ、その人を中心にただ別バージョンが無限に重なってるのが薄っすらと見えるの、横並びだけじゃなくて上にも下にも前にも後にも」

「うん」

「それでその中からその人が望んでいる自分を見つけて選んであげると、目を開いた時には入れ替わってる。それがチェンジ。」

「・・なるほど。替わった本人には自覚はあるのかな?」

「すぐ近くのバージョンと入れ替えても自覚はほとんどないみたい。替わった事に気づいてない事が多いよ。少し遠くから交換すると、最初は結構(あれ~?)って顔をするね」

「そうか」

「どんな人も部屋をぐるっと見渡せば大体この世界に(なじむ)みたい。旅行中にホテルで目を覚まして一瞬、ここどこだっけ?ってなる感じかな。違和感がある人も首を傾いだりしてるけど、まぁ気のせいかって割とすぐに自分を納得させてる。きっとそういう自己防衛機能が人間にはあるんだろうね。大きく変わってしまった人は・・ママとか・・は、馴染むまでに時間が掛かるみたいでしばらくずっとよそよそしく過ごしてるよ、でも結局はみんなこの世界の住人になる事を選ぶね、人って与えられた場所で生きるしかないでしょ?」

「君の言うとおりだ」

 若い人と話すと時々こんな風にとても鋭く確信をついてくる時がある。

「でも、テッちゃんだけはチェンジ出来なかった」

「そうみたいだな。もうタクシーが来るだろうけど、それまでにそこだけ軽く教えてくれるかな?」

「うん、アタシに起こった事はまた時間がある時に話すね。・・あの日、ホテルでテッちゃんをチェンジさせようとして、テッちゃんに膝枕してあげて優しくハゲた頭を撫でてたの。」

 俺は想像してまた笑いそうになったが、なんとか堪えて「それで?」という言葉に変換した。

「テッちゃんが望む別のテッちゃんを探すのは難しかった。目を瞑って意識を集中して一時間ぐらい掛かってやっと(コレかな?)っていう新しいテッちゃんを見つけたんだけど、いつものようにこっちの世界に連れてきたら・・」

「ごめん、見つけた後(連れてくる)っていうのはどうやっているんだ?」

「特に何もしない。発見するだけ。その沢山重なった数えきれない別バージョンの中から一人、目的の人を見つけてあげればいいの。あ、この人!って認識すればいいだけ、するとアタシが目を開けた時には、こっちにいるのがその新しい人になってる。でもテッちゃんは・・・」

「そのままだった?」

「うん、チェンジされてなかった。目を開けた時にはいつものテッちゃんがアタシの膝枕で寝てた・・・と、思ったんだけど・・」

「死んでいた」

「そう、心臓は止まってた・・・でもね、まだ寝てるのかも」

「どういう意味だい?」

「魂だけ向こうに行って、本当に眠っているだけなのかも」

 俺はふぅっと息を吐いて身体を椅子の背もたれに預けた。相手はまだ半分ぐらい子供なのだ。

「・・君がそう思いたい気持ちは分かるよ、でも実際葬儀は行われているわけだし、マツシタの肉体は骨だけとなって今頃はマツシタ家の墓の中に・・」

「ううん、身体はあるんだよ、冷凍されてるから」

「?」

「ちょっと前にロシアの会社がやり始めた冷凍保存で人間を人工冬眠させるって方法があるでしょ?都市伝説でもアニメの王様ウォルテン・デスティニーとか天才学者マインシュタインとかの脳や遺体が保存されてるとか言われてるやつ」

「・・まさか・・・」

「それの最新版を日本のスタートアップの会社がやり始めてね、そこの一番目の被験体としてテッちゃんの遺体を冷凍保存して貰ってるの。これ、超極秘情報だかんね!」

「ジョ、ジョ-ダンだろ!?一体どうやって・・お金だって相当かかるだろうし・・」

「それは大丈夫。アタシめっちゃ稼いでるし。あとテッちゃんが、オレに何かあったら使ってくれって、共用の口座とカードも作ってくれてたし。あ、これは好きだった人・・セーラちゃんに一回提案して断られてるらしいよ、あはは」

「じゃあ・・マジなのか?」

「マジマジ。テッちゃんの身体は誰にも見つからないように、あの時のまま綺麗に冷凍保存されております」と言って、沢口明菜は敬礼のポーズを取った。

「信じられない・・・」俺は頭皮から変な汗が噴き出るのを感じた。

「場所が良かったんだよ、アタシ達が会ってたノアール・ホテルの地下に、丁度その会社の施設があったから」

「そうなのか・・・えっ!?今なんて言った?」

「地下に会社の施設があったって」

「いや、ホテルの名前」

「ノアール・ホテル」

「!」

 なんて事だ・・俺はマツシタの遺体の上で、バンバとドーナツを食べたり、ヤクザと戦ったりしていたのか・・・。

「そうか・・眠っているのに騒がしくしちまって悪かったな・・」と俺は独り言をいった。

 耳の良い沢口明菜は「どういう意味?」と言った。その時、タクシーがアパートの前に到着する音が聞こえた。



(57)アド・ベンチャー


 俺はキッチン横の小窓を開けて車を確認し「タクシーが来たみたいだ」と言った。沢口明菜は「しょっ」と言って椅子から跳ね上がるように立ち上がった。どうやら彼女は身体能力にも恵まれているらしい。

「このタオル貰っていい?」と沢口明菜は首にかけたタオルを振りながら言った。

「ああ、そんな物で良ければ持っていってくれ」

 それはセーラが時々泊まるようになってきた頃に、使うかも知れないと近所の商店街で買った売れ残りのセール品だった。

「そんな物って、あんたこれの価値分かってないね」

「えっ?」

 沢口明菜はタオルの裾の方を俺に向けながら「これ、激レアのガネちゃんグッズだかんね」と言った。よく見ると裾の方に小さなガネちゃんのプリントが入っていた。

「そうか、全く気づかなかったよ」

「ガネちゃんグッズは球数も少ないし、とっくに廃番だから中々手に入らないんだよ、てか、そもそも誰も集めてないっていう」

「そうだろうね」

「めっちゃ可愛いのに。・・んで、おじさん次いつ会う?」

「えっ?」

「え、じゃねーよ」と言って沢口明菜は激レアグッズで俺をはたいた。

「もっとアタシから話し聞きたいんでしょ?」

「そりゃあもちろん。でも、明後日から俺は地元に帰るんだ。しばらく戻って来れないと思う。・・そうだな、電話させて貰うよ」

「電話嫌い。顔見て話さないと色々勘違いするから」

 なるほど、だからいきなりうちに来たのか。とは言え、ここで時間を空けるとせっかく色々と喋ってくれそうな彼女の熱が冷めてしまうかもしれない・・・。

「うーん、それじゃあ・・・」

「アタシも一緒に行く」

「えっ?」

「だから、え、じゃねーの。理解力ねーな、アタシも一緒に行くってば。あんたの地元に。そこってテッちゃんとセーラちゃんの地元なんでしょ?」

「ああ。マツシタは転校して来ていた期間だけだけど、俺達3人が出会った場所ではある」

「行ってみたいの、そこに。てか呼ばれてる感じがする。アタシ勘が良いんだよね、何か行かなきゃいけないような気がするんだ」

「でも、君は超売れっ子女優だ、そう簡単に休めるってわけでもないだろう?」

「うん、普段はね。でも、少し休養を貰うとしたら、逆に今しかなくない?」

 ?・・・なるほど!確かに。母親が亡くなったばかりで心労の為なら少しの間休んでも自然だ。会社も世間も温かく復帰を待ってくれるだろう・・この子は案外キレるぞ。

 沢口明菜は俺が理解した事に気づいて「社長に少し休ませてって訊いてみるよ、心配してくれてたから多分大丈夫だと思う。と言っても一週間が限界だろうね、今映画も撮ってるし」と言った。

「ああ、君は君のタイミングで戻ってくればいい」 

「じゃあ新幹線か飛行機か分からないけど一番いい席を取っておいて。お金はアタシが出すから。向こうでのホテルもね」

「移動も一緒なのか?」

「当たり前じゃん!その方が移動中も色々話せるでしょ?」

「でも道中でバレたりしたら面倒だろう?だって君は・・」

「この格好でバレると思う?」と沢口明菜はパーカーのフードを被った。よく見ると胸にはXNUMXのロゴが描かれていた。

「アタシ、いつもはフリフリのキラキラしか着てないアイドルだよ?ドラマや映画だって清純な役しかやってないし、これなら世間のイメージと違い過ぎだから大丈夫だって。ここへ来る時もバレなかったもん!それにさ、二人の方が良いと思うんだよね、そりゃ男のアイドルとか同世代と歩いてたら、あれ?って思われるかもだけど、アタシちっさいしさ、おじさんと電車か飛行機移動なら家族旅行とかだと思われるよ」

「そうか?・・」

「んじゃそんな感じでよろー、あ、チケ取れたら連絡して」

「あ、ああ・・」

 俺は彼女の勢いに押されてしまった。地元に沢口明菜を連れて帰ったら一体どうなるのだろう?滞在中、隠し通せるだろうか?・・・その時、外でタクシーのクラクションが聞こえた。沢口明菜はドアを開けて「うるせーなー、今行くよ!倍払うから待ってろ!」と怒鳴った。厚底スニーカーを履いて出て行こうとする彼女を送ろうと、俺も玄関に向かったが「来なくていい」と突っぱねられた。

「バイバイとか嫌いなの。ここでいい」その言葉どおり別れのセリフもなくさっさと出て行った彼女だったが、なぜかすぐに戻って来た。俺は鍵を閉めようと扉の前にいたので突然開いたドアに驚いた。

「あのさ、言い忘れたんだけどアタシのことは明菜って呼んで。君って言われると、なんかムカつく。ちゃん付けとかもやめてね、キモいから。呼び捨てでいい」

「ああ、分かった」

「旅行楽しみ」と言うと沢口明菜は、世界中の男を一瞬で恋に落とすような笑顔を放って素早く去って行った。その一瞬で咲いたトルコキキョウのような微笑みで、家の玄関が数ルーメンほど明るくなった気がした。俺は鍵を閉めてダイニングキッチンに戻り、ふーっと溜息を吐いた。そこは若い女の子と煙草の煙が混ざった、自分の家ではない匂いがした。


 アリスに電話してメッセージも入れたがやはり返答はなかった。彼の為に作った料理を明日食べる分と冷凍しておく分に分けて、ダイニングを軽く掃除してから俺は、お湯をたっぷりと溜めて風呂に入る事にした。特別な時にしか使わない、発泡タイプの固形入浴剤を入れた湯船に浸かった瞬間に、自分が想像以上に疲れていた事に気がついた。心配しながらアリスを待っていた事による疲弊と、そこに突然現れたとんでもないエネルギーを放出している人間との対話による消耗で、どちらも自宅の椅子に座っていただけの時間なのに、まるで数十キロのマラソンを走ったかのような疲労感が全身に張り付いていた。「これはドラゴン達に監禁されていた時と同じぐらいのダメージだ」と俺は独り言を言った。

 洗髪をしながら俺は引き続き推測的思考に没入する。・・ドラゴンと言えば、ノアール・ホテルに人工冬眠装置がある事を彼らも知っているのだろうか?一見ヤクザには関係ないように思える施設だが・・・そこで俺の脳内にある記憶の小さな歯車が噛み合わさる音が聞こえた。・・確かヒラタが「あそこには腕のいい医者がいて、指ぐらいなら簡単に付けて貰える」と言っていたな・・それはもしかして人工冬眠施設内の医療機関の事じゃないだろうか?外科とは言えないが、そこには相当ハイレベルの医師や医療関係者が駐屯しているはずだ。・・・という事は新日本連合も・・いや、もっといえば幸福の世界もその人工冬眠という新事業に一枚噛んでいるのかも知れない・・大きな金の動く新しいビジネスには海千山千の者達が集まってくる、だがこのプロジェクトが一切表に出ていないまま粛々と進んでいる事がまた恐ろしい・・・しかしノアール・ホテルというランドマークは一体何なんだ。バンバ・・ドラゴン・・マツシタの遺体・・そしてマツシタと沢口明菜が逢引を重ねていた場所でもある。・・明菜はそこでしかマツシタと会っていないと言っていた、だとすると、明菜の事務所もホテルと何かしらの提携を結んでいるはずだ、そりゃあどうやって取材してもマツシタの死因や場所が特定出来ないはずだ、あの場所は宗教団体とヤクザ、芸能界、スタートアップに投資している人間達、そしてもしかしたら自分の遺体を冷凍保存しようとしている海外のセレブリティ達がガッチリと手を組んでいるのだ、情報なんて水一滴ほども出るはずがない。ある意味では治外法権と言ってもいいような施設だ。これは一介のフリージャーナリストでしかない俺程度が手に負えるような案件じゃないぞ。

 俺は頭と身体の泡を流して、風呂の栓を抜き、バスタオルで身体を拭いて風呂場から出ようとした。その前に湯船からお湯が流れ切った事を確認しようと振り返って覗いて見ると、水はほとんど無くなっていたが底に小さな球体が残っていた。「固形の入浴剤が溶けきっていなかったんだな」と思いながら湯船に手を伸ばして取り上げると、それは入浴剤などではなく、青白い人間の眼球だった。俺は「うわっ!」と声を上げてその直径2、3センチほどの球体を手放した。すると目玉は湯船の縁に当たって中に入り、少し残っていた水と共にするすると穴に向かって流れて行って、一瞬そこで詰まったかと思うと、スポンッと音を立てて排水口に吸い込まれて行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ