XNUMX(52)バンダナ ~(53)コーヒー&チョコレート
(52)バンダナ
兄に「怖い夢でも見てたのか」と笑われながら、ボクらは廊下に出て部屋を移動しました。釣りに行ったの?と兄に訊くと「ああ、でも親父と俺で一匹しか連れなくてすぐに帰って来たよ」と言いました。居間に入ると来た時と何ら変わらず、南森夫婦と両親が座卓を囲んで談笑していましたが、よく見るとそこにもう一人、小柄な人物が上座に座っていました。一瞬、幼稚園児ぐらいに見えたんですが、着物を着て白髪を束ねたとても上品な佇まいの老婆でした。しかし「では、ワシはこれで」と立ち上がったその人の顔を見て、ボクは絶句しました。体格も雰囲気も全く違うのに、老婆の顔はあの夢の中の老婆、そのものだったのです。ボクは立ったままその場で固まってしまいました。南森のおじさんはその老婆に「あ、夕飯もうすぐですけど、ご一緒出来ませんか?」と言いましたが「いや、もう行かんと。こっちからも閉めにゃいかんから。」と、よく分からない事を言って、老婆は縁側の方からそそくさと出て行きました。うちの両親は「ありがとうございました」と、その小さな背中に深々と頭を下げて、南森夫婦は有難そうに手も合わせていました。ボクは何とか言葉を絞り出して、横にいる兄に「あれは誰?」と尋ねました。兄は「母さんの遠い親戚だって。灰烏っていう家の人らしい」と応えました。続けて「いつ来たの?」と言うと「分からない、釣りから帰って来たらいたよ」と言い、「何しに来たの?」と訊いても「知らない、母さんとおばさんと話してた」と言うだけでした。老婆は夕闇に消えて行きましたが、顔と同じぐらい印象的だったのは、そのグレーと言うかシルバーと言うか、変わった色の着物でした。ボクは詳しくありませんが、形は普通の着物だと思うんです、そうです、帯もあって。でも生地のせいなのか、色のせいなのか、宇宙服みたいな感じで、光沢感があって、見た事のない素材だったのをよく覚えています。それから南森家に二泊したんですが、次の日は父と兄と釣りに行ったり、山を散策したりして、その次の日の朝には帰りました。その間に小さな老婆はもう現れませんでしたし、おかしな夢も見なかった。その内にボクは(きっと初日は移動に疲れていて、昼寝の前に老婆が訪ねて来ていたけど、ちゃんと挨拶とかしていなくて、でも印象的だったから夢の中で大きな老婆として現れたんだろう、夢が先なんてきっとボクの勘違いだ)と自分の良いように解釈してしまいました。・・人間は自分の都合の良いように記憶を改ざんする生き物ですからね。そして多くの人がそれに気づいていない、そこが問題なのですが・・しかし本当の問題が起きたのは地元に帰って来てからでした。ボクは当然高校卒業と同時にプロになるつもりでしたし、ここだけの話、プロからのスカウトはほぼ全球団と言ってもいいものでしたので、あとはドラフトに身を任せるだけだと気楽に考えていたんです。ボクは18才で、将来が約束されていた。その頃は無敵の気分でしたね。旅行の後の夏休みも彼女や友人達と沢山遊び、部活はもうほぼ引退って感じでしたから顔を出す程度で行ってみたんです。その日はヒマだったんで、後輩の指導でもしてやろうかなってね。小学生の頃から10年近く野球をやってきて、こんなに長くボールを触ってなかった時間はなかったな、何て思いましたけど、そうは言っても触ってなかった期間なんて10日やそこらです・・校庭に行ってグラウンドの方に向かうと、2年生の後輩がすぐに「先輩、キャッチボールお願いします」と寄ってきました。そして渡された、その何千回、何万回と握った硬式ボールを持った時、ボクは冗談じゃなく本当にこう思ったんです「なんだこの、鉄のように堅くて重い球体は」と。縫目に指を乗せるというのも頭では分かっているんですが、上手く握れない。握力はあるのになぜか指が引っかからないんです。所在なく何度も握り直しましたが15メートルほど先で、後輩がミットを叩いて今か今かと待っている。ボクは困惑して冷や汗を掻きながら、とにかく夢中で「えいやっ!」と投げてみたんです・・・でも、ボールは5メートルほどしか飛ばず、砂漠に転がる草のように小さな力でコロコロと転がって行きました。それを走り込んで来て拾った後輩が「大丈夫ですか?!ケガですか?」と訊いてきたので、ボクは咄嗟に「うん、ちょっと手首をやっちゃってね」と嘘をついて、すぐにその場を離れました。そしてそれから誰とも会わず、どこにも行かず、現実を受け入れるのに残りの夏休みの時間を全て使って、新学期を迎える直前に「ああ、旅行中の出来事は夢じゃなかったんだ、大きな老婆がボクをこの世界に戻す代わりに、ボクの一部を置いていけと言ったのは本当だったんだ」と諦めました。それでも野球を完全に諦める事は出来ず、とりあえず大学に入って様子を見る事にしたんです。後のボクの軌跡は貴方もご承知の通りです。・・えっ、それでもプロまでいったんだから凄いじゃないかって?いやいや、リハビリのように一からピッチングをやり直して、ある程度の所までは体が覚えていたからすぐに感覚が戻ったんですけど、そこから先は全く伸びなかったですね。大学卒業後にウインナー・ファンターズがボクを獲ったのも、きっと客寄せパンダとしてですよ。だって実際の実力は、誰が見たって(凄い基礎がしっかりした草野球選手)ってとこだったんですから。あはは、自分で言って悲しくなりますね。でもね・・・あ、どうしようかな、これ言っちゃおうかな、絶対記事にしないでくださいね・・いや、記事になんてならない話か、誰も信じないだろうし。・・・実はですね、ボクの本当の力は野球じゃないんですよ。いや、もちろん18才の頃は超高校級の実力でしたよ、ライバルのナーくんこと、中田選手と同じぐらいにね。でもそれだけじゃないんです、いいですか?ボクはあの頃、本当に(人の心が読めた)んです。・・信じませんよね?・・え、信じる?ホントですか?・・・まぁ今となってはどちらでも良い事なんですが。例えば通り過ぎる人の心をふっと読めるとか、そういう簡単な物ではないんですけど、それなりの状況や大事な場面で相手と真剣に対峙すると、その人の思考がセリフのようにボクの頭の中にどんどん流れてきたんです。そうです、音声で。これには一つコツがあって、極力心を読みたい人間以外を視野に入れないようにする。ええ、物理的に何かで隠して目に入らないようにするんです、そうしないと視界に入っている他の人の声も聞こえて、混線してしまうんですよ。ボクはその為に試合中、汗を拭くフリをして四つ折りにしたバンダナを使っていたんです。そして付いたあだ名が、ご存知。・・でも考えてみて下さい、この能力はピッチャーにとっては本当に夢のような力ですよ。最終回二者満塁、相手は4番の超剛腕スラッガー、でもその打者が何を考え、どんな球を待っているか・・あの頃のボクには手に取るように分かったんです。ストレートとスライダー、あとちょっとだけ落ちるカーブの3種類だけで甲子園を制したのはその力のお蔭です。さらに学年で一番美人の彼女もその能力で捕まえました。当時は夢のようでしたね、彼女は高校在学中に国民的アイドルグループに所属していてテレビにも出ていたんですから・・・はい、今の妻です・・・でも今では、ボクは彼女の考えている事が何も分からない・・・本当に無くなって困ったのは投手の力ではなく、こっちの能力なんです・・・。 ― サイゴウの会話はここで終わった。俺は礼を言って電話を切ろうとした。すると切り際に、遠くの方から微かに女性の声が聞こえた。「ユウー、アナタもシャワー入っちゃって。急がないと収録に遅刻しちゃうよー」その声には聴き覚えがあった。声の主は若くて気の強い、サイゴウの女性マネージャーだった。
概ね書き終わったと感じて、ふと壁の時計を見ると驚く事に7時間近くも時間が経過していた。俺は最初、何かの間違い(時計の電池が切れていたり)だと思ったのだが、携帯やテレビをつけてもその時間の経過は全く正しかった。俺は便所に行き、2分近くの長く大量の放尿をしてから、突然感じた耐えがたい空腹を端的に満たす為に食パンにハムを乗せた物と、ピーナツバターを塗った物を作り、一度で一斤を食べきった。途中、口の中が乾いたせいで咽て死にかけたが、とにかく脳に足りていない糖分を一気に摂取しようとしたのだ。そしてコーヒーを淹れて机に戻ると、やっと少し落ち着き、自分の書いた物を確認しながらそれについて考えを巡らせた。
実際にはサイゴウの不思議体験より不倫体験の方が世間を引きつける記事になるだろう。だが証拠になる録音データは壊れていて、当たり前だがどんなに自信があっても耳の記憶だけでは記事には出来ない。それでも俺にとってはサイゴウの取材はとてつもなく実りの多い物だった。これをセッティングしてくれたセーラとナミチには感謝しなければならない。まず分かったことは、サイゴウは野球の才能よりも(読心術の類の特殊能力を持っていた)らしいという事。そしてT県J市に行って奇妙な体験をした後にその力を失ったという事。そしてこれには灰烏という家の人間が関わっている可能性があるという事。サイゴウはそう言っていなかったが、そこには偶然そういう出来事が起こったというよりも、必然的にその状況に陥れられたというニュアンスが感じられた。要するに夏の旅行はサイゴウの特殊能力を消す為の旅だったのだ。・・でもどうして?それなら親もグルという事になる・・一体何の為に?・・疑問は湯水のように湧き出してきた。そして気になるのがサイゴウの夢の中に出てきた人物たち。空を飛ぶ中年男性・・サイゴウは(俺のような何て事のない人物だった)と言った・・(J市の上を飛行する)というイメージは、俺もどこか引っかかるものがある・・しかしそれについては何も思い出せない・・はるか遠い昔に地元を空の上から眺めたような気もするのだが、でも俺はグライダーのような物に乗った記憶もないし、そもそもJ市にそんなアクティビティはない・・それでも俺の身体には浮遊していたような感覚が微かに残っている・・・それも夢なのだろうか?・・俺は何か重要な事を忘れている気がする。・・だが今はこの件は一旦保留にしておいて、夢の中でサイゴウが唯一コミュニケーションの取れた人物、背の高い老婆と、現実に現れた背の低い老婆についてだ。大きな老婆はサイゴウを元の世界に戻し(こっち側を閉める)と言った、小さい老婆は戻って来たサイゴウを見て(こっちからも閉める)と言った・・・二人は姉妹?・・それとも双子か?・・いや、もしかして二人ではなくて、一人なのか??
(53)コーヒー&チョコレート
大きな老婆はサイゴウを元の世界に戻し(こっち側を閉める)と言った、小さい老婆は戻って来たサイゴウを見て(こっちからも閉める)と言った・・・二人は姉妹?・・それとも双子か?・・いや、もしかして二人ではなくて、一人なのか??・・そもそも「閉める」とは何だろう・・文脈的には二つの世界の入口、ポータルのような物を閉じる、という意味だが・・二つの世界・・いや、確かにサイゴウが言ったように印象的な人物に会った後にその人が夢に出てきただけという可能性も大いにある。思い込みに飲み込まれるな、主観だけでは物事を捻じ曲げ兼ねない、常に俯瞰で見てあらゆる物事にフラットに対峙するんだ。それがどれだけ不可思議であっても現実的であっても、それらを正しい正しくないで判断してはいけない。ジャッジした時、天秤は勝手に傾いてしまう。全てはバランスだ、客観性が欠ければ永遠に真実には近づけない。
俺は思考を何度もループさせ、小さな歯車と大きな歯車を組み合わせては様々なパターンで回転させた。しかしそこから出てくるのはヒントだけで、枝分かれした道は結局どこにも到達しなかった。考えたところで答えの出ない物についてあれこれ思考を巡らせるのは、若年恋愛の初期段階に似ている。小さな一つの光明にでも一喜一憂するからだ。そして生まれた感情が間違ったストーリーを構築してそれを信じ込む。何にせよ、勘違いで分かったつもりになる事ほど愚かな事はない。考え過ぎるのは自分で自分が歩く迷路を作るような物だ、それなら何もしない方がいい。今俺がやるべき事は出そろったカードを正確に並べて眺めるだけでいいのだ。科学的根拠の有無は問題じゃない。全ての非科学的な出来事は、ただ検証実験が行われていないだけの事象なのだから。
・・・もう一度やり直そう。俺はキッチンに行ってコーヒーを温めマグカップに注ぎ直し、チョコレートを3粒ソーサーに添えて机に戻った。
ノートの新しいページを開いて書き出してみる。
・サイゴウはJ市で才能の一部を失った。本人曰く、夢の中の世界に迷い込んでそれを置いてくる事で、こちらの世界に戻る事が出来た。失ったモノは(1つではなく、一部)なのだから、野球や読心術以外にも本人が気づいていない何かを失っている可能性もある。戻る手伝いをしてくれたのは背の高い老婆だった。現実のJ市には同じ顔の背の低い老婆がいて、その人物の苗字は灰烏である。その家系はサイゴウの母親の遠縁にあたる。
・沢口明菜は、ここと、別世界にいる(同じ?)人物を交換してしまう力がある(のかも知れない。)そう仮定すると、セーラの元マネージャーでもあった自身の母親を、自分の望む(別バージョンの母親)と交換していると思われる。バンバの見解では違う世界から来た(または行った)人物は、突然その世界に適応しなければいけない為に多くの場合、その歪によって何らかの異常をきたす。よって、こっちに来た沢口明菜の母も死亡した。
・林屋社長の双子の兄、モウリの死因は心臓発作だが、他殺の可能性もあり、現在警察が捜査している。セーラも容疑者として挙がっているが行方不明。
・マツシタの死因も今のところ原因不明の心臓発作だが、この件は病死として扱われていて捜査もされていない。(だが俺は他殺とは言わないまでも、ただの病死ではないと睨んでいる。)
以下はこれらの件とは関係ない可能性もあるカード
・新日本連合の人間達と不審なシノギ。モウリも入信していた宗教団体「幸福の世界」との繋がりもあり、安定した組のシノギになっていると思われる。なぜなら現党首のキダという人間は元々新日本連合の人間。(現在も在籍中の可能性あり) 幹部のドラゴン、その舎弟のヒラタ、ニシムラはノアール・ホテルで元党首のバンバを警護という名の軟禁状態にしている。
・バンバは幸福の世界の創立メンバー。かなり前に団体を追われていて、現在の立場や関係性は不明。強い能力者だったが、今はその大部分を失っている。過去にモウリとの接点の可能性あり。
・幸福の世界が運営する児童養護施設にアリスは身を置いている。
俺はそこまで書いてペンを置いた。そして昂りを抑えるようにチョコレートを一粒口に入れ、コーヒーを飲んで口内で溶かした。・・・ブラック・コーヒーの苦みと混ざった粘度のある甘やかな液体が喉をゆっくりと通過し、気道から胃に向かって落ちて行くのが感じられる・・すると紀元前からインディアンやマヤ族が薬として使用していたそのカカオの種子は、突然俺の脳細胞の普段は電気信号が届かないシナプスを刺激し、思ってもいない劇的な閃きを齎した。
「そうか!」と俺は誰もいない暗い部屋で声を上げた。その閃光にも似た閃きは、さっきまで自分が注意していた思考の偏りを全部、丸ごと投げ捨ててしまいたくなるほど甘い・・あまりにも甘い、チョコレートなんて比べ物にならないほど甘美な、ある意味では「答え」と言ってしまえるほどの到達点に導いた。それを受け入れてしまうなら、もうこの物語はほとんど終わったも同然だ。しかし、本当にそれでいいのか?・・だが、思いついた瞬間から毎秒毎秒確信に変わりつつある。むしろどうして今まで気づかなかったのだろう?・・・俺はペンを握りノートにこう書き足した。
―死んだマツシタは、沢口が交換した世界から来た、別のマツシタだ―
少なくとも俺がヤツの死をどこかでずっと受け入れられなかった理由はこれだ。もう死因を解明する必要はない。どこかに行ってしまった本来のマツシタ、この世界のマツシタを探し出して、連れ戻すんだ!俺は残りのコーヒーを一気に流し込み、一人鼻息を荒くした。




