XNUMX(50)テレフォン・ナンバー ~(51)ジャイアント
(50)テレフォン・ナンバー
この子との縁は一体どれぐらい続くモノなのだろう?
俺はキッチン台に背中をあずけて返事をした。
「忘れてはいない、声ですぐ分かったよ。俺の疑問はどうしてこの番号を知ってるんだ?っていう事だよ」
「わぁーボクの声覚えていてくれたんだ、嬉しいなぁ」
「俺は一度聴いた声は忘れないんだ。それで、どうしてこの番号を?」
「いやだなー、この前帰りにブルートゥースで交換したじゃない」
そんな記憶はない・・だが、今の俺は自分の記憶に対して絶対的な信頼を持てなかった。仕事以外では積極的に人と関わらないタイプなのだが、もしかしたらアリスの言うとおり、帰り際に番号を交換していたのかも知れない。しかし俺の個人的な思案が生み出したこの短い沈黙は、アリスには違う意味を持たせたようだった。思ってもなく彼は自分から白状し出した。
「・・・ごめんなさい、怒ってる?・・本当は勝手に登録しちゃったんだ・・・あ、パスワードは盗んでないよ、貴方が携帯を置いてお風呂に行った時に、まだ画面が消えていなかったから急いでタッチして番号を見たの」
なるほど、そういう事か・・俺の記憶はまだ俺の物だ。
「・・怒ってるよね?」と、アリスはか細い声で言った。
「あ、いや、怒ってはいない。多分キミとはまた会うだろうと思っていたから」
「そうなの?よかった!」
「ただ、盗み見はよくないよ」
「うん、そうだね!ごめんなさい」
「ところで何の用だい?」
「あのさ、またお家に遊びに行ってもいいかな・・でも、お仕事とか忙しいよね?」
「いや、今は特に忙しくはない。そう言えばクリスマスが終わったら来たいとか言ってたな」俺はまた自分の記憶を確かめるように言った。
「うん!覚えていてくれたんだ!じゃあ行ってもいい?」
冷静に考えて、中年の一人暮らしの家に未成年を招き入れるのはけして良い事ではない。アパートの住人に見られれば面倒な事になり兼ねないだろう。そしてアリスは様々な意味を含めて、極めて稀な人間だ。ただの親戚の子供のように家で一緒にテレビゲームをすればいい、というわけではない。彼が俺から求めている物を見極めてからではないと、関係を近くするのはお互いにとって良くないだろう。
「その前に一つ確認しておきたいんだけど」
「えっ、なに?」とアリスは怯えた声を出した。子供らしく感情がすぐ声に宿るのだ。
「まず、こないだのような身体の接触は一切なしだ、俺はキミにそういう事を求めていない。キミは感謝の気持ちのつもりだったかも知れないけど、相手が喜ぶ事でないと根本的にはお礼にはならないよ、望んでいない物をあげてプレゼントだというのは間違っている、分かるね?」
「・・・はい」
「それから、これは個人の趣味だから俺は気にしないし、隠さずに教えて欲しいんだけど、キミは男性が好きなのかい?そういう風に俺に好意があるなら、それには答えてあげられそうにないんだ、もちろんキミはとても魅力的な人間だと思うけれど。」
電話の向こうで静かな呼吸音が聞こえる。その後ろで車や、音響式信号機の音がする。一体どこからかけてきているんだろう。学校の帰り道だろうか。
「・・よく分からないんだよ、自分でも」とアリスは言った。俺は14歳に対して酷な質問をしてしまったのかも知れない。
「知っていると思うけどボクは男娼で、好きになる対象が男か女か分かる前からこの仕事をしてるから、恋愛感情っていうのがよく分からないんだ・・男性とは死ぬほど寝たけど、女性経験は全くないし・・でも貴方の事は好きだよ・・これがどういう意味で好きなのかも分からないんだけど・・」
「ああ、分かった、もう答えなくていい。じゃあ何をしにうちに来るんだ?よく知らないおっさんの家に遊びに来たって別に面白くないだろう?うちにはゲーム機もないし」
「ゲームは好きじゃない。会って話せればいい・・何ていうか、ちょっと相談に乗ってもらいたいんだ・・うちの園の人には余り出来ない話だから」
・・そうか、親や親族のいない彼には相談相手を探すだけでも簡単な事ではないのか。だからこんな見ず知らずの、半日一緒にいた程度の人間を頼ってしまうんだ。
「分かった、そういう事なら。・・うーん、28日ならいいよ。日が暮れてから来るんだろう?」
「ありがとう!28日だね、うん、なるべく早く行きたいけど・・夕方には行きたいな、アルビノっていうのは本当に面倒だよ」
「大変なんだな、今の時期なら5時には暗くなるからそれ以降に来たらいい。夕飯でも作っておくよ」
「やったー、貴方の料理大好きなんだ!」
「今度はカレーじゃないけど」
「うん、大丈夫、なんでもいい」
「じゃあ明後日」
「うん、五時過ぎに行くね、ありがとう!バイバイ」
「ああ」
俺は携帯を置き、うどんを鍋に入れる前で良かったと思った。一人きりの食事で伸びたうどんなんて到底食べる気になれない。・・包丁を持とうとした瞬間にまた電話が鳴った。俺は画面を押して「何か言い忘れた事でもあったのか?」と言った。
「・・あれ?言い忘れたのはそちらだと聞いてますけど?」と、サイゴウが言った。
「あ、サイゴウさん!すいません、今ちょっと違う人間と話していたもので」
「そうなんですか、林屋社長からどうしても話があると聞いたんですけど、タイミングが良くないならまたにしましょうか?」
これは次の機会はないぞと思い、俺は「大丈夫です、今でお願いします」と素早く返事をした。サイゴウは明らかに面倒くさそうに「そうですか、あまり時間がないんですけど」と応えた。俺は通話録音機能を押して、ダイニングの椅子に腰かけた。
「すぐに済みます。サイゴウさんがこの間おっしゃってた、親戚の灰烏家について教えて貰えませんか?」
「それはこの間話したとおり、母方の親戚だというだけです。それが訊きたかったんでしたら前回以上の話はないですよ、それじゃあもう失礼しますね」
「あ、ちょっと待ってください、では別の訊き方をします、アナタはどうして高校の時の旅行のせいで自分の才能が無くなったと思うのですか?健三社長から聞いたんですが、アナタは夏休みの旅行にさえ行かなければ、自分はまだ一流のピッチャーだったと言ったそうじゃないですか?そこにはどんな因果関係があると考えてるんですか?それだけでも教えてください、お願いします!」
「・・・・」
沈黙の中で、サイゴウの思考する脳の回路の音が聞こえるようだ。俺は壁の時計を見た5時38分だった。真冬らしくもう窓から日は入ってこない。さっきまではまだ自然光で明るかったのに、気づくと室内はキッチンの小さな白熱電灯だけで、ほとんど暗闇になっていた。
「ボクにも本当に分からないんです」とサイゴウは言った。彼といいアリスといい、自分の事が分からないヤツが多すぎる・・まぁ俺もその一人なのだが。
「誰にも言わないですし、もちろん記事にもしません、私は個人的にその事に関して知らなければならないんです。私の友人が数か月前に亡くなりました。T県J市の幼馴染みです。」
土地の名前を聞いて、サイゴウが受話器越しに息を飲んでいるのが分かる。俺は続けた。
「彼の死は不審死です。正確な死因は今のところ特定できていません。こんな事を言ってもわけが分からないと思うでしょうが、私は友人の死とサイゴウさんの件に、何か繋がりがあるような気がしています。だからわかる範囲で構わないので、少しでもその事について教えてください。」
「・・・ちょっと場所を移動します」そう言ったあと、サイゴウの足音が聞こえた。そしてドアが開き、閉まる音もした。
「この話は誰にもした事がありません。妻にも林屋社長にも・・・」
「はい」俺は浅かった椅子を深く座り直した。
一九三五年 七月三日
一比己は集落から離れた山間に住んでいる一人の女の所に身を寄せている。その延子という女は村の人間からは売女と忌み嫌われていた。実際に延子はやってくる村の男共に体を任せ、その代わりに米や酒、金銭を貰い生活をしていた。相手の分からない子を二度おろした三十路の身寄りのない女。だが何故か一比己とは妙に気が合った。お互い爪はじき者同士だからかも知れない。二人は裸で薄い布団の上に横になっている。傍らには畳まれた二着の着物と短刀が一本。一比己が最近常に持ち歩いている代物だ。「竜人様は誰を指名すると思う?」と一比己が言う。延子は返事をしない。「灰烏の血を引かねぇ咲千代が竜人様のお言葉を正確に受け取れるんだろうか・・」と言う一比己に、延子は「アタシには分からないし、興味ないねぇ」と応える。そして一比己の胸毛を避けるように二本の指を体に這わせ、行き着いた先の右乳首を指ではじく。一比己は囲炉裏が繋がった天井の中空を眺めたまま、何の反応も示さない。延子は逆の乳首でも試してみるが、変わらず無反応な一比己に退屈して欠伸をする。
(51)ジャイアント
2010年 12月27日
「ビー、ビビッ、ビービービー、キーーーーーーーーーーーー・・・・」
不快なノイズ音が流れて、俺はイヤフォンを外した。
昨日スマートフォンで録音したサイゴウとの会話を聴き返そうとしたが、データが完全に壊れてしまっている。おかしい、その前の健三社長との会話はちゃんと録れているのに。これではバンバの時と同じだ。
色々と手段を講じて最終的にはそこそこ高額なデータ復旧ソフトをダウンロードして使ってみても何ら改善の兆候は見られなかった。・・仕方ない、記者になり立ての頃のように、忘れないうちに記憶を頼りに書き出してみよう。
この作業を行うポイントはパソコンなどのデジタル機器を使わない事。なるべくアナログなツール(使い慣れた紙のノートと、出来ればよく削ったHBの鉛筆)でやる事だ。耳の奥に残った声の残響音を頼りに、細部まで思い出しながら声をデッサンする。記事を書くわけではないからそこに脚色は必要ない。あくまで写実的に思い出したい会話を模写するのだ。
俺は半分ほどページの残っていた古いB5のノートを引っ張り出し、鉛筆を削ろう・・としたのだが、HBの鉛筆が見つからなかったのでシャーペンを使う事にした。・・・若い頃、機材を忘れて取材に行って、こうやって簡単なメモと記憶を頼りに文章を書いたっけ。しかし今は俺の主観はいらない、ただただサイゴウの言葉を一度一句、正確に思い出すのだ。俺は罫線の上にペンを走らせた。
― サイゴウ 12月26日 17時40分頃の通話内容 ―
「あれは17の夏休みでした。突然母が家族で旅行に行くと言い出したんです。ボクは例の(自分の運命を変えた)夏の甲子園が終わった直後で疲れていたし、正直面倒だったんです。前から高校最後の夏休みは友達や彼女と遊ぼうと計画を立てていましたし、なんで今更そんな遠くまで家族揃って行かなきゃいけないんだと思って反対しました。でも母は頑として聞き入れてくれませんでしたね。どうしてもみんなで自分の親戚の所に行くんだと。ボクには3つ上の兄がいて、普段は気の合う兄弟なんですが、その時は「お前がプロになったらしばらく家族旅行なんて出来ないだろう?母さんの我儘を聞いてやれよ」と母の側に立ってボクを説得してきました。それで仕方なく・・二泊三日だし、長い夏休み中のそのぐらいならまぁいいかと折れたんです。父はと言うと、ボクほど露骨ではないにせよ、なぜか乗り気ではなさそうでした。実際、旅行に行く数日前の深夜に、父と母が口論しているのを聞いたんです。ボクの部屋の下がリビングで、夜中に会話が聞こえてきて、父は確かに「ユウを連れて行くのはやっぱりやめよう」と言っていたのを覚えています。母は「何言ってるの、ユウが行かなきゃ意味がないじゃない」とか、そんな反論をしていました。ボクはそれを(母は自慢の息子をどうしても親戚に合わせたいんだな)と、楽観的に考えていました。とにかくそんなわけで多少のゴタゴタはありましたが、サイゴウ家は4人揃ってその夏にT県J市を訪れたんです。新幹線からローカル線に乗り換えてトータル数時間、やっと着いたK町は少し栄えていましたが、別になんて事のない田舎の町でした。ああ、すいません、貴方の地元でしたね、K町に悪い印象はないですよ。しかしそこに迎えに来て貰った母の親戚の車に乗って山を越えて向かったW町は、まるで黒沢映画の撮影に使われるような木々に囲まれた完全な集落でした。 ― ここで電話越しにサイゴウが何かを飲む音がした ― 失礼しました、ちょっと喉が渇いて、えーそれからボクらは厄介になる母の親戚のお家に到着しまして、確か南森さんというお宅だったと思うのですが・・なにぶん10年以上前の話ですから・・その家は所謂古い日本家屋で、地主っていう感じではないんですけど、門もあって縁側や離れもあって、都会では考えられないぐらいの広い長屋でしたね。玄関に入ると五十代半ばぐらいの奥さんが迎えてくれました。母とは顔見知りのようで、わー久しぶりとか言って二人で喜んでいました。あ、旦那さんは我々を乗せてくれた運転手さんです。それから中に入ってボクは一気に拍子抜けしました、というのも、きっと親戚一同が集まってボクを囲んで大宴会、さらにはサイン会みたいな事までやらされると思っていたら、本当にそのご夫婦しかいなかったんです。午後の3時ぐらいに着いたのかな?お茶と羊羹が出て、おじさんに「長旅で疲れたでしょう?何もない所だけど涼しいから体ぐらいは休まりますよ、夕飯まで少し休んでてくださいね」とか言われて、ボクは「はぁ」としか言えませんでした。一時間ぐらい経つと、ボクは疲れと退屈さで眠くなってしまいました。父と兄はすぐ近くに川があって(ちょい投げ釣り)でハゼが釣れると言うので、おじさんに連れて行って貰うという事でしたが、ボクは断りました。するとおばさんが気を使ってくれて(ユウちゃん奥の部屋で寝ていいよ、誰も使ってないから)と言ってくれました。最初は遠慮しましたが、田舎特有の時間の流れの遅さに耐え切れなくなり、ボクは部屋を使わせて貰う事にしました。案内されたそこは、畳の敷かれた何の変哲もない六畳ほどの和室で縁側がありました。おばさんは押し入れから枕を出してくれて・・あ、布団は断りました。あんまり知らない人の布団って使いたくないでしょ?ボク、意外とそういうの気にするんですよ、あはは。とにかくそこで夕食まで昼寝をさせて貰う事にしたんです。セミの声は多少気になりましたが、エアコンがないのにとても涼しくて昼寝には最高の空間だと思いましたね。案の定、横になるとすぐに睡魔に襲われて気を失うように寝付きました。・・・そんなに時間が経った気はしませんでしたが、ボクはハッと目を覚ましました。何で起きたと思います?静か過ぎたからです。その異様なまでの静けさでボクは突然目を覚まして辺りを見渡しました。一瞬自分がどこにるのか分からなかったんですが、しばらくすると(ああ、そうだ、母の親戚がいる田舎に来ているんだ)ときちんと認識出来ました。別段部屋におかしな所もなかったですし、そろそろ夕飯かな、とか思いながら状態を起こしました。・・・しかしですね、妙なんです、本当に音がしないんですよ、なんにも。母親達の話声もさっきまで聞こえていたセミの鳴き声も全く聞こえません。ボクは立ち上がって縁側の方に行きました。もう夕方なのか、空が真っ赤でね、いけない、これは寝すぎてしまったかも知れないと焦りました。部屋に時計はないし、携帯も持っていない。ボクはそこを出て廊下を進み、母たちがいるであろう、最初に案内された部屋に向かいました。障子を開けると、おかしな事に誰もいません。湯飲みや羊羹の食べ掛けがそのまま人数分、さっきまでいたままの状態で置かれていました。ボクは少し不安になり家の中を捜索しました。子供みたいに「かあさーん」とか「とうさーん」とか「にいさーん」とか言いながら。いくら釣りに行ったとしても、もう日は傾いていて帰ってきてもいい頃です。しかし台所に行っても、夕飯の支度をしてくれているはずのおばさんも居ませんでした。ボクはいよいよ怖くなって外に出ました。相変わらず音は何も聞こえないし、空は真っ赤で雲もその日の光でピンク色でした。外に出た事で分かったんですが、その赤さは夕焼けの赤さではなかったんです。日が傾いてるんではなく、ただ単に赤い空なんですよ。何て言うか青空ではなく赤空、上手く説明出来ませんが、ペンキの青がなかったからとりあえず赤で塗ったという感じで、如何にも代役のような間に合わせの赤い色の空だったんです。ボクは涼しいのに背中に変な汗をかき出しました。おーい、おーいと声を出しながら近所を徘徊しましたが、返答はどこからもありません。人口自体が少ないので山間にぽつぽつと住居は見えるんですが、そこまで行くには中々遠い、土地勘もなく歩いているうちに偶然、道路沿いの小川にぶちあたりました、あっこれが兄たちが行った釣りの出来る川だろうと思い、周辺を探してみたのですが人の気配は一切しません。それどころか川に魚もいないし、虫も飛んでいない。緑豊かな環境なのに生物のいる気配が一切ないんです。一体ここは何なんだ?さっきまでいた所じゃないのか?と、パニックになりました。 ― ここでサイゴウはまた飲み物を飲んだ ―
更に話は奇妙になります。貴方が信んじようと信じまいと、これはボク自身に本当に起きた事なのでそのまま話しますよ。どう受け取ってもらっても構いません、貴方が聞きたいと言ったので話します。おばさんの家を出て小川に行き着いて、そのまま上流にあがって行った所で、地面に一瞬影が出来た気がして(何かが飛んでる!)と、ボクは空を見上げました。それを見た時、最初は(あ、鳥だ)と思いました。鳥はいるんだ!と。でもよく見ると違うんです。大きいんです。飛行機ではない、強いて言えばグライダーに近い印象で上空2、300メートルを高速で移動している生き物、手を広げて滑空するように東の空に飛んで行ったその生物は、なんと(部屋着を着た30代半ばぐらいの男性)だったんです。・・・いや、分かりますよ、ボクが変な事を言っているのは。でもボクはその時、現役の高校球児で動体視力が物凄く良かったんです。見間違えるはずはありません。それは間違いなくグレーっぽい上下の部屋着を着た男性でした。ボクはその時、その人物の奇妙さよりもこの世界に一人きりじゃないという安心感の方が勝って「おーい、助けてくれー」とか言って、その謎の飛行物体に助けを求めました。今考えるとこっちに向かって飛んできた方が怖いのに。・・いや、でもその人に嫌な感じはしなかったな・・余りにも普通で、ちょうど(貴方ぐらいの感じの男性だった)です。とにかく藁をも掴む思いで彼の後を追ったんですがボクの声は届かず、その人は飛んで行ってしまいました。やみくもに走って追っかけたせいで尚更道に迷ってしまいました。どれぐらい歩いたんでしょう、行けども行けども周りは田んぼばかりで・・しかしどう考えてもおかしいんです、いくら田舎と言っても車も一台もないし、藁ぶき屋根の家が何軒か立っているだけで、電灯もなんだか木に電球を括りつけただけのような年季の入った物しかなくて、ここはいつの時代なんだ?ボクはタイムスリップでもしてしまったのか?と頭がおかしくなりそうでした。心身共に限界に近づいていた時、遂に人間を発見したんです。いえ、今度は飛んでいる人ではなく近くの畑の中にポツンと一人、お婆さんが立っていました。ボクは嬉しさのあまり少し泣きべそをかきながら、おばあさーん、すいませーんと大声を上げて駆け寄って行きました。お婆さんは所謂、古めかしい農業の服装をしていて手拭を頭にかけ、もんぺの様な物を穿いていました。なぜかこちらが呼びかけても茫然と立ち尽くしたまま全く微動だにしません。その様子を見てボクは一瞬、案山子かな?と疑ったぐらいです。でも近づくと生きた80歳ぐらいのお婆さんでした。ただ一つ不自然に感じたのは、ボクと目線がほぼ同じ高さだったという事です。はい、老婆なんですが、身長がやけに大きく、176のボクとほとんど変わらないんです。一時期、小さいおじさんという妖怪?妖精?が流行りましたが、大きいお婆さんというのも中々に怖いものです。でもその時はその人しか頼れる人が見当たらなかったので、ボクは「すいません、この辺の人達はどこに行ったんですか?ボクの家族もいないんです、何か防災訓練とかそういうのですか?」と聞いてみたんですが、お婆さんは笑いながら「ここにはワシしかおらんよ」と言うのです。「いや、ボクは家族で旅行に来たんです、さっきまで向こうの方の家で、そこの家族と一緒に羊羹を食べていました」と言ったんですが、お婆さんは再放送のように「ここにはワシしかおらんよ」と繰り返します。そこでボクは、ああ、この人は体は元気そうだけど高齢だし、もしかしたら痴ほう症とかなのかも知れない、と思いました。残念ながらせっかく村人に遭遇しても相手がこれではどうしようもない、でも人がいる事は分かったからもう少し探してみようと思ったんです。しかしお婆さんはそのボクの思考を読み取ったかのようにまた「ここにはワシしかおらんよ」と言うのです。ボクは怖くなって「ありがとうございました」と言ってその場を立ち去ろうとしたんです。でも振り返った瞬間に肩をガシッと掴まれました。その力は老人とは思えないほど強力な物で、ボクは思わず「あいたっ」と声があげて片膝をつきました。アイアンクローを肩に食らったジャイアント馬場のような感じです。するとお婆さんはボクの肩から手を離し「元んとこに戻りてぇか?」と訊いてきました。ボクはその老婆が違うセリフを喋った事にびっくりしたんですが、すぐに「もちろん戻りたいです」と応えました。「ならついて来い」と言って、お婆さんは力強く歩き出しました。ボクに選択の余地はなく、ただ肩を押さえて老婆の後をついて行く事しか出来ませんでした。しばらくすると平地から山道に入ったんですが、白髪、皺くちゃ、手も血管だらけの草鞋を履いたお婆さんの足取りはとにかく早く、ボクは引き離されないように必死に食らいついて行きました。そのまま山の中をどんどん進み、道は険しくなるばかり。あの時ほど部活の地獄の訓練といわれた外周50周&お寺の階段20往復をやっておいて良かったと思った事はありません。息も上がってもう限界だと思った時、突然老婆が足を止めました。「ここだ」と言って、さらに奥に草木を割って入って行くと、すぐ目の前に開けた広い空間が現れたのです。そこは木々に囲まれた原っぱのような場所で、真ん中が直径10メートルほどの円形の小高い丘になっていました。それはどう見ても人為的に作られた場所でした。「もう一度訊くが、元んとこに戻りてぇか?」と、老婆は丘の方を見つめたまま言いました。ボクはその後ろで息を切らせながら「戻りたいです」と懇願しました。すると老婆が「何があってもか」と訊いてきたので「はい」と応えました。「じゃあ、あの真ん中に立て」と言われて、ボクは老婆が指を指す丘の上に重い脚を引きずって行って、真ん中辺りに立ちました。それを確認し「お前の魂を少しここに置いて行くんじゃ」と老婆は言いました。ボクはその言葉の意味が分からず首を傾げました。すると「魂っちゅうのは一個の体に一個入ってるわけじゃねぇ、無数の意識が集まってその人間を作っとる、その意識の集合体を魂と言うんじゃ、蛙の卵のようなもんじゃ、お前の中にある魂の中の意識の一部をここに置いて行け、その代わりにお前を元の場所に戻す」と老婆は言いました。正直、全部聞いてみてもよく分からなかったです。とにかくボクは元の世界にさえ帰れれば文句はなかったので「お願いします!」と言いました。すると下にいる老婆は手で何かの形の印を結んで「モンガーヤ・モンガータ・モンガーラ・ラシラセッ!」と唱えながら、ボクが立っている丘の周りを回り始めました。空は相変わらず赤く、風もなく、農作業の格好をした背の高い老婆が大声を張り上げて練り歩くその光景は余りにも異様で、今でもしっかりと目に焼き付いています。ボクは恐怖で汗をかきながら小刻みに震え、どうする事も出来ずに正面を向いて立ち尽くしていました。老婆がちょうど丘の周りを一周して正面に戻って来て「ラシラセッ、ラ!!」と言った時、ボクの頭上でパカッと音がしました。上を見ると自分の頭から50センチほどの高さに、何と言うか空間の裂け目のような黒い亀裂が出来ていたのです。そうですね、長さは1メートルぐらい、幅は3、40センチぐらいでしょうか?すると老婆が「今じゃ、飛んで中に入れ!」と言いました。老婆の顔を見ると目玉が全て真っ黒でした。ボクは思わず悲鳴を上げてしまいました。漆黒の瞳でボクを見つめながら老婆は「お前が入ったらワシがこっち側を閉める、早く行け!」と言いました。ボクはわけが分からないまま両手を上に伸ばしてジャンプして、その亀裂の縁を掴み、懸垂の要領で体を持ち上げました。本当に驚いたんですが、裂け目の中に上半身を引き入れると、そこには煌く銀河と果てしない宇宙空間が広がっていたんです。ボクが「あっ、宇宙だ」と思った刹那、体は一気にその空間に引き込まれ、そのまま猛スピードで星々の間を駆け抜けて行きました。そのうち余りの速度に意識が保てなくなり、自分自身が高速で移動する光の矢のようになったと感じていると、次の瞬間、唐突に覚醒が訪れました。ユウ、ユウと兄の声が聞こえ、目を開けるとボクは眠っていた和室で兄に体を揺すられていました。「何か声がしたから来てみたけど、大分うなされていたな」と言われていました。ボクは大量の汗をかき、涙を流しながら昼寝から目覚めたのです。




